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リセット  作者: ナオ
17/79

17話 サブリース

 最初に覚えるのは、物件の説明じゃない。


 相手の不安の触り方だった。


 年金。

 老後。

 節税。

 インフレ。

 低金利。


 そのへんの言葉を、相手の年齢と年収に合わせて少しずつ並べる。


 強く言いすぎると警戒される。

 弱すぎると刺さらない。


 だから営業は、相手が自分で不安になる速度に合わせて押す。


 笹原啓介は、池袋西口のオフィスビル11階で、契約予定者の資料を見ていた。


 火曜の夜8時過ぎ。


 フロアにはまだ何人も残っている。


 電話の声。

 キーボードの音。

 コピー機の待機音。


 全部が乾いている。


 不動産会社の夜はだいたいそうだ。


 啓介は38歳だった。


 投資用マンションの営業を始めて12年。


 最初は賃貸仲介にいた。

 部屋を探している学生やカップルに物件を案内していた頃は、自分の仕事がそこまで嫌いじゃなかった。


 けれど歩合は弱かった。

 残るのは疲労だけで、金は増えない。


 そこへ今の会社の先輩が声をかけた。


「区分やれば早いよ」


 区分。


 ワンルームの投資マンションを会社員に売る仕事。


 最初は半信半疑だった。


 自分で住まない部屋を、どうして買うのか分からなかった。


 けれど研修で教わる。


 節税になります。

 生命保険の代わりになります。

 私的年金になります。

 家賃収入でローンが相殺されます。


 出口も取れます。

 サブリースもあります。


 そういう文句を覚えていくうちに、分からないままでも売れるようになる。

 売れると、分かった気になる。

 それがいちばん危ない。


 啓介のデスクの上には、今月の数字が貼ってあった。


 目標4本。


 今3本。


 あと1本で達成。

 あと1本がいちばん重い。


 3本で終われば、先月より少し悪いだけで済む。


 4本なら、部長の機嫌が違う。


 5本いけば、来月の案件の振り分けも少し良くなる。


 つまり、あと1本はほとんど生活の差だった。


 画面の先にいる客は、地方の公務員だった。


 45歳。


 妻子あり。


 年収720。


 ローン残債あり。


 でも属性は悪くないから、いける、と啓介は思った。


 この「いける」は、相手が幸せになるという意味ではない。


 審査が通って、契約まで持っていけるという意味だ。

 そこを混同しなくなった頃から、営業は少しずつうまくなる。


 スマホが震えた。


 相手からだった。


『少し気になる点がありまして』


 その文面だけで、啓介は相手がまだ断りきれていないことを理解した。


 本当に切る客は、もっと雑に消える。

 この段階で質問してくるのは、誰かに背中を押してもらえればまだ乗る客だ。


 啓介はすぐに電話をかけた。


「こんばんは、笹原です」


 相手の声は少し硬かった。


「すみません、遅くに」


「いえ、全然大丈夫です」


 大丈夫ではなかったが、そう言う。


「奥さんにも少し相談してみたんですが、やっぱり空室リスクが気になってまして」


 来た、と思った。


 啓介は椅子にもたれながら、声だけを少し落ち着かせる。


「そこですよね、皆さん最初に気にされるの」


 皆さん。


 その言い方をすると、相手は少しだけ安心する。

 自分だけが分からないわけじゃないと思えるからだ。


「今回の物件、サブリース入ってるので、家賃保証の形になります」


「でも保証賃料って見直しありますよね」


 その一言で、啓介は少しだけ黙った。


 奥の方まで調べたのだろう。


 あるいは奥さんが調べたのかもしれない。


 家賃保証。

 サブリース。


 その言葉だけ見るとかなり強い。


 でも実際には永遠ではない。


 賃料改定もある。

 免責期間もある。

 更新時の条件変更もある。


 全部、契約書に書いてある。


 書いてあるから、説明したことにもできる。


「もちろん将来的な見直しの可能性はゼロではないです」


 ゼロではない。

 便利な言い方だ。


 ほぼある、という時にも使える。


「ただ、それも急に明日から何万も下がるみたいな話ではないので」


 ここは完全に言い方だった。


 急に下がらないだけで、じわじわ削られることはいくらでもある。

 でも、じわじわ削られる不安は、人間は意外と今すぐの恐怖として感じにくい。


 だから刺さる。


「そうですか……」


 相手の声が少し揺らぐ。


 啓介はそこで畳みかけた。


「むしろ今のうちに持っておかないと、年齢的にローンの組み方が厳しくなってくるんです」


 年齢。

 ローン。

 今のうち。


 焦らせる言葉を3つ続ける。

 露骨にやると嫌われる。


 でも、この程度なら多くの客は「情報提供」に見える。


 そういうラインだけ、営業はやけに正確になる。


「あと、公務員の方って本当に通しやすいので」


「いや、でも妻が……」


「奥さま、ご心配されるの当然だと思います」


 啓介は笑顔で言った。

 電話だから見えない。

 でも笑顔で話すと、声に少し丸みが出る。


「なので、もしよければご夫婦で改めてご説明しますよ」


 それで終わる時もある。


 配偶者が入ると、話がまとまらないケースは増える。


 でも完全に切られるよりは、まだ次の接点ができる方がましだ。


 相手は少し考えたあとで言った。


「……分かりました、じゃあ1回、妻も含めて」


 取れた、と思った。


 啓介はお礼を言いながら、メモに予定を書き込む。


 土曜15時。


 オンライン。


 妻同席。

 難易度は上がる。


 でも、まだ生きている。


 電話を切ると、隣の席の後輩が顔を出した。


「笹原さん、1本いけそうですか」


「まだ分かんない」


「その歳の夫婦、奥さん入ると結構きつくないすか」


「きついよ」


「でも押すんですね」


 啓介は少しだけ笑った。


「押さない営業とかあんの」


 後輩も笑った。

 軽い笑いだった。


 でも、この笑い方が社内の空気そのものだと思う。


 売る側は、最後にはだいたい同じ顔をする。

 売ったあと、客がどうなるかをまったく知らないわけじゃない。


 でも考えすぎると、自分の数字が死ぬ。

 だから考えないようにしているうちに、本当に鈍くなる。


 啓介もそうだった。


 そうだったはずなのに、その夜だけは少し違った。


 オフィスを出て、エレベーターで1階まで降りる。


 ビル風が冷たい。


 スマホには、昼間契約した別の客から着信が入っていた。


 知らない番号なら切る。


 でも、これは分かる番号だった。


 30代後半の会社員。


 去年、区分を1本売った男だ。

 節税と保険代わりで勧めた。

 サブリースつきだから安全だと説明した。


 啓介は少し迷ってから出た。


「もしもし」


 相手の声はひどく乾いていた。


「笹原さん、今いいですか」


「はい、大丈夫です」


 また大丈夫と言う。


「今日、管理会社から通知が来て」


 その時点で、啓介には内容が分かった。


「賃料改定の件、ですか」


「……はい」


 相手は少し黙った。


「これ、毎月1万8000円下がるってことですよね」


「現状はそういう通知ですね」


「話違いません?」


 その言葉に、啓介は駅前で立ち止まった。


 西口のロータリーにはバス待ちの列がある。


 コンビニの明かり。

 タクシー。

 誰かの笑い声。


 全部普通の夜だ。


 でも電話の向こうでは、誰かの生活だけが少しずつ崩れている。


「契約上、見直しの可能性は当初からご説明していたと思います」


 自分でも嫌になるくらい、口が勝手にその文を出した。


 相手は少し声を荒げた。


「そんな説明、ちゃんと聞いてないですよ」


「契約書にも記載はありますので」


「いや、そういうことじゃなくて」


 そういうことじゃない。


 その通りだった。


 相手が言っているのは法律じゃない。


 気持ちの話だ。


 買う時に聞いていた安心と、今届いた通知の冷たさが違いすぎるという話だ。

 でも、営業はその話を真正面から受けない。


 受けたら責任になるからだ。


「一度、管理会社とも整理して確認しましょうか」


 整理、確認。


 そういう言葉を使うと、その場では少しだけ会話が落ち着く。


 結局、何も戻らないことが多いのに。


「……ローン、残ってるんですけど」


「もちろん承知してます」


「これ、持ってる意味あります?」


 啓介はすぐには答えられなかった。


 持ってる意味。


 その問いに、今この瞬間、きれいに答えられる営業なんていないと思った。

 でも沈黙はもっとまずい。


「長期で見れば、出口戦略も含めてまだ打ち手はあります」


 打ち手。


 出口。


 戦略。


 自分でもひどく乾いた言葉だと思う。

 相手はもう黙っていた。

 話を聞いているのか、諦めているのか、切るか迷っているのか、分からない沈黙だった。


 しばらくして、小さく言った。


「妻に何て言えばいいのか、分かんないです」


 その一言だけが、変に残った。


 賃料改定でも、利回りでも、出口でもない。


 妻に何て言えばいいのか。

 そういう場所で人は壊れるのだと思った。

 契約書の条文じゃなく、家の中の空気の方で壊れる。


「……すぐに何か決めなくて大丈夫なので」


 啓介は初めて少しだけ本音に近い声で言った。


「1回整理しましょう」


 整理しても、たぶん良くはならない。

 でも今はそれしか言えなかった。


 電話を切ると、スマホの画面に自分の顔が黒く映った。


 疲れていた。

 営業の顔ではなく、もう少し別の疲れ方だった。


 サブリース。

 家賃保証。

 安心。

 保険代わり。

 老後の備え。


 全部間違いではない。


 でも、全部正しくもない。


 その曖昧な帯の上を、自分は何年も歩いている。


 完全な詐欺ではない。

 違法とも言い切れない。


 だからこそ、余計に始末が悪い。


 啓介はスマホをしまって歩き出した。


 西口の夜はいつも通りだった。


 路上で女に声をかけている男がいる。


 コンビニ前で煙草を吸っている男がいる。


 ホテル街へ向かう男女がいる。


 誰もが何かを売っていて、誰もが自分だけは少しまともだと思っている。


 啓介もたぶん、その1人だった。


 土曜にはまた、別の夫婦に同じ話をする。


 サブリース。

 家賃保証。

 今のうちです。


 その言葉を、またきれいな顔で言うのだろうと思う。


 通知で賃料が下がるのは数行だった。


 でも、その数行を読む夜の長さまでは、契約書のどこにも書いていなかった。

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