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リセット  作者: ナオ
18/79

18話 回収

 金が動いているうちは、まだみんなやさしい。


 貸す時。

 使わせる時。

 契約させる時。


 その瞬間だけは、だいたい誰も声を荒げない。


 本当に怖くなるのは、金が止まってからだった。


 田代直哉は、池袋北口の雑居ビル2階にある狭い事務所で、未収の一覧を見ていた。


 時刻は21時前。


 ホワイトボードには、源氏名と金額だけが並んでいる。


 女の名前。

 客の名前。

 本名じゃない呼び名。

 本名じゃないからこそ、余計に冷たかった。


 数字は全部、人間の形をしていない。


 でも、その数字を取りに行く時だけ、人間の顔が必要になる。


 直哉は35歳だった。


 店の肩書きは「管理」になっている。

 管理というのは便利な言葉だ。


 シフトも、前借りも、飛びそうな女も未収も全部ひっくるめてそう呼べる。


 実際にやっていることは、もっと単純だった。


 払わないやつに払わせる。

 消えそうなやつを見つける。

 逃げる前に話をつける。

 場合によっては、少し怖い思いもさせる。


 それだけだ。


 でも、その「それだけ」が、いちばん人に言いにくい仕事でもあった。


 内勤の拓海が、机に紙コップのコーヒーを置いた。


「今日、先にどっち行きます?」


 直哉はホワイトボードから目を離さずに答えた。


「みおの方から」


「やっぱそっちですか」


「額でかいし」


 みお。


 前借りが3本。


 店に来なくなって4日目。

 携帯は生きているが、既読だけついて返事がない。

 家は分かっている。

 身分証もある。

 緊急連絡先もある。


 この仕事をしていると、人は消える前に自分の情報をだいたい置いていく。


 助けを求める時に差し出したものが、そのまま逃げ道を塞ぐ札になる。


 それがこの街のやり方だった。


「男の影あります?」


 拓海が聞く。


「あると思う」


「じゃあ揉めますね」


「揉めるならまだ楽だよ」


 直哉はそこでようやくホワイトボードから目を外した。


「ほんとに終わってるやつは、揉める元気もないから」


 そういうやつの方が面倒だった。

 怒るやつ。

 逆ギレするやつ。

 泣くやつ。


 それはまだ会話になる。


 いちばん困るのは、全部諦めた顔で「もう無理です」とだけ言うやつだ。


 その「無理」の先に、払う気も、生きる気も店へ戻る気も残っていない時、どう脅しても半分しか効かない。


 直哉はそういう顔を何度も見てきた。


 見てきて、そのたびに少しだけ嫌になり、でも次の日にはまた同じように回収へ出る。


 嫌になるだけでは、生活は変わらない。


 拓海が資料を1枚差し出した。


「こっち、客の未収もあります」


 そっちはホスト上がりの男だった。


 見栄を張って、飲み代を後日に回して、そのまま飛んだ。

 客の未収はまだ楽だ。

 怒鳴ればびびる。


 会社や家に連絡されたくないから、どこかで折れる。


 でも女の前借りは違う。


 もう失うものが少ない分だけ、最後まで雑に逃げる。

 そして逃げたあと、生活だけがどこかで続いている。

 それがいちばん腹立たしかった。


 21時半、直哉は事務所を出た。


 雨上がりで、路地の匂いが湿っている。


 北口のネオンはいつも通り明るい。


 ホテル街へ流れる男女。

 コンビニ前で煙草を吸う男。

 立ち止まってスマホを見る女。


 この街には、払う側も払わせる側も混ざって歩いている。


 違うのは、どっちが少し先に追い詰められるかだけだ。


 みおの部屋は、池袋から2駅離れた古いアパートだった。


 木造。

 階段は細い。

 ポストにチラシが詰まっている。


 こういう部屋は慣れている。


 夜職の女は、思っているよりずっと普通の部屋に住んでいる。


 ブランド物に囲まれているわけでも、豪華な暮らしをしているわけでもない。


 むしろ、家に帰ると急に何もない。


 そのギャップがたぶん、余計に人を削る。


 部屋の前まで行って、直哉はインターホンを押した。


 反応はない。


 もう1回押す。


 沈黙。


 電気メーターは動いている。


 中にいるのは分かる。


 こういう時、直哉はドアを叩かない。


 大きな音を出すと、近所が覗く。


 近所が見ると、こっちもやりにくい。


 だから声だけ少し低くする。


「みお、いるの分かってるから」


 返事はない。


「開けろとは言わない、でもこのままだと店も困る」


 困る。


 これも便利な言い方だ。


 本当は、店より先に自分が困る。

 回収できなかったと報告するのがだるいからだ。


 けれど、そこで自分の都合を前に出すと、相手が意地になる時がある。


 少し待つと、中で何かが動く音がした。


 チェーンはかかったまま、ドアが少しだけ開く。


 みおの顔が見えた。

 化粧は落ちている。

 髪もぼさぼさだ。


 画面越しに見るより年相応で、だから余計に疲れて見えた。


「……何ですか」


「何ですか、じゃないだろ」


 直哉はドアの隙間を見たまま言った。


「4日飛んでる」


「飛んでないです」


「店に返事してない時点で飛びだよ」


 みおは目をそらした。


「しんどくて」


「知ってる」


「じゃあ」


「知ってても金は消えねえよ」


 その言い方に、みおの肩が少しだけ縮んだ。


 でも閉じない。


 閉じられないのだろう。


 本当に閉じるやつは、最初からチェーンも開けない。


「今いくら残ってるか分かってる?」


「……だいたい」


「だいたいじゃなくて、18ある」


 みおはそこで、はっきり顔をしかめた。


「そんなに」


「前借り3本、当欠飛ばし、客流し、全部乗ってる」


「いや、でも」


「でも何」


「そんなの、今払えないです」


 直哉は少しだけ笑った。


「今払えると思って来てねえよ」


 本当に欲しいのは、今夜の全額じゃない。

 逃げない形。

 戻る気がある顔。


 それだけだ。


「どうする気?」


 みおは答えない。


 部屋の奥に、コンビニ袋とペットボトルが見えた。


 男の気配はない。


 たぶん1人だ。

 1人で潰れている。

 そういうやつは、少し楽でもある。


 誰かが横にいると、その相手にいい格好をして余計に話がこじれるからだ。


「店戻れないです」


 みおがやっと言った。


「何で」


「もう無理だから」


「その無理、具体的に何」


 聞きながら、直哉は自分でも嫌になる。


 こんなのカウンセラーの真似事だ。


 でも、回収の現場では意外と必要だった。


 相手がどこで折れているかを見極めないと、押し方を間違える。


「客、きついし」


「うん」


「寝れないし」


「うん」


「でも出ないと金なくて」


「うん」


「……もう、何やっても変わんない感じする」


 直哉はそこで黙った。


 その言い方は知っている。


 本当に終わる少し手前のやつがする顔と、少し似ていたからだ。


 だから少しだけ、声を落とす。


「変わんないからって飛んでも、店の金は消えない」


 みおは笑わなかった。


 泣きもしない。


 ただ、目だけがひどく乾いていた。


「じゃあ、どうしろって言うんですか」


「戻って払うか」


「無理です」


「じゃあ分割」


「無理」


「男いんの」


「いない」


「親」


「無理」


「昼職」


 そこで、みおはほんの少しだけ息を吐いた。


「面接、2個落ちました」


 そうかよ、と直哉は心の中で思った。


 口には出さない。


 落ちた話なんて、別に珍しくも何ともないからだ。


 でも、その「2個落ちました」が、思っていたより妙に真面目で、少しだけ腹立たしかった。

 ちゃんと抜けようとして、ちゃんと落ちている。


 その感じが。


 夜の仕事を辞めたい人間は多い。

 でも辞めたあと、昼の側で受け止めてもらえるとは限らない。

 結局また夜へ戻る。

 店側はそれを知っている。


 知っているから、少し待てば戻るやつもいると思ってしまう。


 直哉はチェーン越しに言った。


「今週、3だけ持ってこい」


 みおが顔を上げる。


「3?」


「そう……全部じゃなくていいから、でも0はだめだ」


 それは直哉なりの落としどころだった。


 優しさじゃない。


 ただ、完全に切れると面倒だからだ。


 でも、こういう面倒の避け方をしているうちに、他人からは優しそうに見えることもある。


 それがいちばん気持ち悪い。


「3でいいんですか」


「よくないよ、でも今はそれでいい」


 みおはしばらく何も言わなかった。


 たぶん、3万も今は大きい。

 それでも18よりは現実味がある。

 人は払えそうな額を見せられると、少しだけ死なずに済む顔をする。


「金曜まで」


 直哉は言った。


「連絡返せ、返さないなら次は昼行く」


 昼行く、の意味はたぶん伝わっていた。


 家族か、職場か、近所か。

 どこに踏み込まれるか分からない嫌さ。


 みおは小さくうなずいた。


 ドアが閉まる。


 チェーンの音がして、部屋の気配だけがまた向こう側へ戻る。


 階段を降りながら、直哉は自分のスマホを見た。


 拓海からLINEが来ている。


『どうでした』


『3約束』


 それだけ返す。

 数秒で既読がついて、短く返事。


『了解』


 そのやり取りの軽さが、少し嫌だった。


 部屋の中では1人の女がたぶんまだ立ち尽くしているのに、外に出ると話はもう「3約束」で終わる。


 金額と状況だけが残って、中身は全部落ちる。


 でも、この仕事はそれで回る。


 そのあと、客の未収の方へ向かった。


 会社員の男だった。


 こっちはもっと単純だ。


 マンションのエントランスで待ち伏せして、帰宅したところを捕まえる。


 男はスーツ姿で、顔を見た瞬間にすべて理解した顔をした。


「ちょっとだけ話せます?」


 直哉がそう言うと、男は最初から怯えていた。


「今ちょっと急いでて」


「こっちも急ぎです」


 ここではやさしい声はいらない。

 客の未収は、怖がらせた方が早い。


「店の分、飛ばしてますよね」


「いや、払うつもりは」


「いつ」


 男は答えられない。

 答えられないやつは、だいたい払う気じゃなくて、時間だけ稼いでいる。


 直哉は男の腕を軽く掴んだ。


「会社に電話されたくないなら、今決めた方がいい」


 男の顔色が変わる。


 こういう反応は分かりやすい。


 守りたいものが、まだちゃんとある顔だった。


「……今月末で」


「半分は明日」


「無理です」


「じゃあ会社」


「待ってください」


 結局、男はその場でスマホを開いて、明日の昼に10を振ると約束した。


 その会話は、みおの時よりずっと簡単だった。


 帰り道、直哉は西口のコンビニへ寄った。


 缶コーヒーを買って、店の前で立つ。


 夜風が少し冷たい。


 さっきの2件を思い返す。


 払えるやつ。

 払えないやつ。

 脅せば動くやつ。

 もう半分壊れているやつ。


 回収の現場では、そういう違いだけがはっきり見える。


 でも、こっち側の人間はその違いを見すぎるうちに、だんだん普通の話し方が分からなくなる。


 スマホが震えた。


 みおからだった。


『分かりました』


 その短い文を見て、直哉は何とも言えない気分になった。


 了解でもなく、すみませんでもなく、分かりました。


 諦めた時の返事に近い。


 直哉は返事を打たなかった。


 打てる言葉もなかった。


 缶コーヒーを飲む。


 ぬるい。


 コンビニのガラスに、自分の顔が映る。


 回収というのは、金を戻す仕事みたいに言われる。


 でも本当は違う。


 戻ってこないものが、もう増えすぎている人間に、それでもまだ払えと言いに行く仕事だ。


 直哉は缶を握ったまま、しばらく動かなかった。


 今日も一応、2件とも話はついた。


 たぶん仕事としては正解だ。


 でも、こういう夜のあとだけは、自分が何を回収しているのか、少し分からなくなる。


 金なのか。


 人なのか。


 それとも、もうとっくに失くした何かの残りだけを、必死に拾っているのか。

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