13話 売人
最初から薬を売っていたわけじゃない。
最初は、ただ運ぶだけだった。
封のされた小袋を1つ受け取って、別の場所へ持っていく。
中身は見ない。
相手の名前も聞かない。
そういうルールにしておけば、自分はただの運び屋でいられる気がした。
中村拓人は、池袋北口のラブホ街を抜けた先の細い路地で、コンビニのホットコーヒーを持ったまま壁にもたれていた。
時間は0時半。
人通りは多くないが、途切れはしない。
酔っているやつ。
夜職帰りの女。
終電をなくした顔の男。
この時間の池袋には、居場所を決めきれない人間が残る。
拓人は31歳だった。
昼間は中古スマホの買取屋で働いている。
ちゃんとした会社ではないが、一応は社員だ。
表向きは。
裏では飛ばした携帯や口座の情報が回ってくることもあるし、夜になると別の頼まれごとも増える。
誰に頼まれるかといえば、昔の先輩だったり、神谷みたいな半グレ寄りの男だったり、そのまた上の名前を出さない連中だったりする。
拓人は、その全部に深く関わっているつもりはなかった。
つもり、というだけで実際には片足以上突っ込んでいる。
今夜の相手は、メンエスで働いている女だった。
拓人はその女を前にも見たことがある。
店終わりに立ち寄るコンビニで、よくカフェラテとサラダチキンを買っていた。
髪は明るめ。
顔は整っているが、やつれて見える夜が増えた。
客に会う時の顔と、自販機の前でスマホを見ている時の顔が違う女だった。
名前は、たしか麻理だったと思う。
それも本名かは知らない。
拓人はスマホを開いた。
相手とのトーク欄には、短い文が並んでいる。
『今日いける?』
『少しだけなら』
『いつものやつ?』
『うん』
いつものやつ。
それで通じるのが、だいたい終わっている。
何を渡すか、相手も自分も具体的に書かない。
書かなくても欲しいものが一致している。
それで会話が成立するところまで来ると、もう引き返すのは少し遅い。
拓人はポケットの中の小さなケースを指で触った。
中には錠剤が数錠と、細く巻いた袋が1つ。
量は多くない。
大口でもない。
売人というより、流しに近い。
必要なやつに必要な時だけ渡す。
本人もそれを、押し売りだとは思っていない。
頼まれたから渡すだけ。
相手が欲しいって言うから流すだけ。
その言い訳で、ここまで来た。
女から連絡が来たのは、去年の冬が最初だった。
友達づてに拓人の番号を聞いたらしい。
『眠れなくて』
最初はそうだった。
眠れない。
しんどい。
上がらない。
客前だけでもテンションを作りたい。
夜の女の言う「ちょっと」は、だいたい何も軽くない。
拓人はその頃まだ、違法薬物をメインで流していたわけではなかった。
眠剤もどきの海外サプリ。
合法に見える成分の怪しいやつ。
OD上がりのやつが欲しがるもの。
グレーをグレーのまま渡す、それが自分の線引きだった。
でも客はすぐ慣れる。
最初は弱いもの。
次はもう少し強いもの。
その次は、効きが早いもの。
気づけば、自分の線引きより客の欲しがる速度の方が先へ行く。
麻理もそうだった。
最初は眠るため。
次は出勤前に上げるため。
その次は、客のあとに落ちるため。
使い道が増えるたびに、量も回数も増えた。
拓人はその流れを見ていた。
見ていて、止めなかった。
止める理由がなかったからだ。
金になる。
向こうも欲しがっている。
無理に渡しているわけじゃない。
その理屈で、自分を汚れの少ない側に置いていた。
路地の先から、麻理が歩いてきた。
黒いコートにマスク。
ヒールは低い。
店終わりらしい歩き方だった。
疲れているのに、まだ少しだけ気を張っている足取り。
拓人は軽く手を上げた。
麻理は近づいてきても、すぐには喋らなかった。
顔色が悪い……いや、悪いというより白すぎる。
「遅かったね」
拓人が言うと、麻理は笑わなかった。
「客が長引いた」
「だるそう」
「だるい」
マスクの下の声は乾いていた。
前みたいな愛想がもうなかった。
最初の頃は、少し雑談もした。
客がうざかったとか、店長がきついとか、最近出勤が多いとか。
でも最近は違う。
必要な時に来て、必要なものだけ受け取って帰る。
そういう関係の方が長く続くこともある。
「いくら」
「いつも通りで」
「ちょいきつい」
「じゃあやめとく?」
拓人はわざと軽く言った。
そう言うと、相手はだいたい引けなくなる。
麻理は一瞬だけ黙ってから、財布を出した。
「……いる」
その「いる」が、薬の話なのか、今夜を越えるための話なのか、拓人にはもう区別がつかなかった。
受け取った金は少なかった。
少ないが、それでも断らない。
ここで切ったところで別のやつから買うだけだと分かっているし、どうせだったら自分が流した方が、まだ雑なものを掴ませずに済む。
そういう理屈も、最近は使うようになった。
やってることは同じなのに、言い方だけ少しまともになる。
拓人はケースを開いて、中から小袋を1つ出した。
麻理はそれをすぐに掴んだ。
扱いに慣れていた。
慣れすぎてもいた。
「減らした方がいいよ」
拓人は自分でも驚くくらい自然にそう言った。
麻理は目だけで笑った。
「今それ言う?」
「いや、一応」
「一応って何」
そこでようやく、少しだけ前みたいな会話になった。
でも明るくはなかった。
壊れかけたやつ同士が、壊れてる自覚のまま喋る時の乾いた感じだった。
「最近、客前でたまに飛ぶんだよね」
麻理が言った。
「飛ぶって」
「途中で音遠くなる感じ……自分の声だけ遅れて聞こえる時ある」
「それやばいだろ」
「知ってる」
「店にバレてないの」
「まだ」
まだ。
それは、もう時間の問題という意味だった。
拓人は少しだけ周囲を見た。
知らない男が反対側の歩道で煙草を吸っている。
コンビニ袋を提げた大学生っぽいやつが笑いながら通り過ぎる。
この街では、誰かが静かに壊れていても、遠目にはだいたい普通に見える。
「休めば」
言ってから、自分で薄い言葉だと思った。
休めるなら、とっくにそうしている。
麻理も同じ顔をした。
「休んだら家賃払ってくれんの」
「……」
「だよね」
それで会話は止まった。
拓人はもう1本、煙草を出そうとしてやめた。
寒かった。
でも、それ以上に空気が冷えていた。
麻理は袋をコートの内ポケットにしまった。
手つきが早い。
慣れている。
その慣れ方が嫌だった。
「ありがと」
言葉だけは普通だった。
コンビニで釣りを受け取る時みたいな、軽いありがとう。
拓人はその軽さに、少しだけ腹が立った。
自分に対してなのか、麻理に対してなのかは分からない。
たぶん両方だ。
「客前で倒れんなよ」
「倒れたら、その時はその時」
「笑えねえって」
「別に笑わせてないし」
麻理はそう言って歩き出した。
引き止める理由はなかった。
ないくせに、拓人は背中を見たまま少しだけ動けなかった。
前より細くなっている。
ヒールの音も弱い。
たぶん、次に会う時はもう少し悪くなっている。
そういう変化だけは、近くで見ていると嫌でも分かる。
スマホが震えた。
別の客からだった。
『今からいける?』
名前は登録していない。
でも内容で誰か分かる。
クラブ帰りの男。
たまにまとめて買う。
金払いはいい。
こういう客は楽だ。
罪悪感が少なくて済むから。
拓人は返信しようとして、親指を止めた。
視界の先で、麻理がふらついた気がした。
ほんの一瞬だけ、壁に手をつく。
すぐに歩き直す。
それだけだった。
それだけなのに、嫌な感じが強く残った。
追いかけるほどでもない。
呼び止める関係でもない。
そうやって毎回、自分の責任の手前で立ち止まる。
そこから先へは行かない。
行かなければ、まだ完全には自分のせいじゃない気がするからだ。
拓人は結局、別の客へ『いける』と返した。
既読がつく。
場所の指定が来る。
今夜もまた1つ回る。
それで生活は続く。
続いてしまう。
1時間後、麻理の店の近くで救急車を見た時、拓人は少しだけ足を止めた。
野次馬は多くなかった。
夜の街では、救急車も騒ぎも珍しくない。
店の入っているビルの前に、見覚えのある内勤の男が立っていた。
真面目そうな顔で、スマホを握っている。
表情はほとんど動いていない。
でも、電話の声だけが妙に丁寧だった。
「はい、大丈夫です、今対応してますので」
大丈夫。
その言葉が、今夜いちばん嘘くさかった。
拓人は遠くからそれを見ただけで、近づかなかった。
近づいたところで、何が変わるわけでもない。
変わらないことに、だいぶ慣れていた。
それでも、自分が少し前に渡した小袋の重さだけは、今さらみたいに指先へ戻ってくる。
スマホがまた震える。
別の客。
別の金。
別の夜。
拓人はそれを見て、画面を伏せた。
今さらやめるほど善人じゃない。
でも、だからといって平気な顔で続けられるほど、壊れきってもいなかった。
救急車の赤い光が、濡れた道路にだけ薄く残る。
街はまた何もなかったふりをする。
拓人もその中に混ざって歩き出した。
売ったのは小さな袋1つだった。
でも、本当に減っていくのは、いつも中身より人の方だった。




