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リセット  作者: ナオ
13/79

13話 売人

 最初から薬を売っていたわけじゃない。

 最初は、ただ運ぶだけだった。


 封のされた小袋を1つ受け取って、別の場所へ持っていく。


 中身は見ない。

 相手の名前も聞かない。


 そういうルールにしておけば、自分はただの運び屋でいられる気がした。


 中村拓人は、池袋北口のラブホ街を抜けた先の細い路地で、コンビニのホットコーヒーを持ったまま壁にもたれていた。


 時間は0時半。


 人通りは多くないが、途切れはしない。


 酔っているやつ。

 夜職帰りの女。

 終電をなくした顔の男。


 この時間の池袋には、居場所を決めきれない人間が残る。


 拓人は31歳だった。


 昼間は中古スマホの買取屋で働いている。


 ちゃんとした会社ではないが、一応は社員だ。


 表向きは。


 裏では飛ばした携帯や口座の情報が回ってくることもあるし、夜になると別の頼まれごとも増える。


 誰に頼まれるかといえば、昔の先輩だったり、神谷みたいな半グレ寄りの男だったり、そのまた上の名前を出さない連中だったりする。


 拓人は、その全部に深く関わっているつもりはなかった。


 つもり、というだけで実際には片足以上突っ込んでいる。


 今夜の相手は、メンエスで働いている女だった。

 拓人はその女を前にも見たことがある。


 店終わりに立ち寄るコンビニで、よくカフェラテとサラダチキンを買っていた。


 髪は明るめ。

 顔は整っているが、やつれて見える夜が増えた。


 客に会う時の顔と、自販機の前でスマホを見ている時の顔が違う女だった。

 名前は、たしか麻理だったと思う。


 それも本名かは知らない。


 拓人はスマホを開いた。


 相手とのトーク欄には、短い文が並んでいる。


『今日いける?』


『少しだけなら』


『いつものやつ?』


『うん』


 いつものやつ。


 それで通じるのが、だいたい終わっている。


 何を渡すか、相手も自分も具体的に書かない。


 書かなくても欲しいものが一致している。


 それで会話が成立するところまで来ると、もう引き返すのは少し遅い。


 拓人はポケットの中の小さなケースを指で触った。


 中には錠剤が数錠と、細く巻いた袋が1つ。


 量は多くない。

 大口でもない。

 売人というより、流しに近い。


 必要なやつに必要な時だけ渡す。


 本人もそれを、押し売りだとは思っていない。

 頼まれたから渡すだけ。

 相手が欲しいって言うから流すだけ。

 その言い訳で、ここまで来た。


 女から連絡が来たのは、去年の冬が最初だった。

 友達づてに拓人の番号を聞いたらしい。


『眠れなくて』


 最初はそうだった。


 眠れない。

 しんどい。

 上がらない。

 客前だけでもテンションを作りたい。


 夜の女の言う「ちょっと」は、だいたい何も軽くない。


 拓人はその頃まだ、違法薬物をメインで流していたわけではなかった。


 眠剤もどきの海外サプリ。

 合法に見える成分の怪しいやつ。

 OD上がりのやつが欲しがるもの。


 グレーをグレーのまま渡す、それが自分の線引きだった。


 でも客はすぐ慣れる。


 最初は弱いもの。

 次はもう少し強いもの。

 その次は、効きが早いもの。


 気づけば、自分の線引きより客の欲しがる速度の方が先へ行く。


 麻理もそうだった。


 最初は眠るため。

 次は出勤前に上げるため。

 その次は、客のあとに落ちるため。


 使い道が増えるたびに、量も回数も増えた。


 拓人はその流れを見ていた。

 見ていて、止めなかった。

 止める理由がなかったからだ。


 金になる。

 向こうも欲しがっている。


 無理に渡しているわけじゃない。


 その理屈で、自分を汚れの少ない側に置いていた。


 路地の先から、麻理が歩いてきた。


 黒いコートにマスク。


 ヒールは低い。


 店終わりらしい歩き方だった。


 疲れているのに、まだ少しだけ気を張っている足取り。


 拓人は軽く手を上げた。


 麻理は近づいてきても、すぐには喋らなかった。


 顔色が悪い……いや、悪いというより白すぎる。


「遅かったね」


 拓人が言うと、麻理は笑わなかった。


「客が長引いた」


「だるそう」


「だるい」


 マスクの下の声は乾いていた。

 前みたいな愛想がもうなかった。

 最初の頃は、少し雑談もした。


 客がうざかったとか、店長がきついとか、最近出勤が多いとか。


 でも最近は違う。


 必要な時に来て、必要なものだけ受け取って帰る。

 そういう関係の方が長く続くこともある。


「いくら」


「いつも通りで」


「ちょいきつい」


「じゃあやめとく?」


 拓人はわざと軽く言った。

 そう言うと、相手はだいたい引けなくなる。


 麻理は一瞬だけ黙ってから、財布を出した。


「……いる」


 その「いる」が、薬の話なのか、今夜を越えるための話なのか、拓人にはもう区別がつかなかった。


 受け取った金は少なかった。


 少ないが、それでも断らない。


 ここで切ったところで別のやつから買うだけだと分かっているし、どうせだったら自分が流した方が、まだ雑なものを掴ませずに済む。


 そういう理屈も、最近は使うようになった。

 やってることは同じなのに、言い方だけ少しまともになる。


 拓人はケースを開いて、中から小袋を1つ出した。


 麻理はそれをすぐに掴んだ。


 扱いに慣れていた。

 慣れすぎてもいた。


「減らした方がいいよ」


 拓人は自分でも驚くくらい自然にそう言った。


 麻理は目だけで笑った。


「今それ言う?」


「いや、一応」


「一応って何」


 そこでようやく、少しだけ前みたいな会話になった。


 でも明るくはなかった。

 壊れかけたやつ同士が、壊れてる自覚のまま喋る時の乾いた感じだった。


「最近、客前でたまに飛ぶんだよね」


 麻理が言った。


「飛ぶって」


「途中で音遠くなる感じ……自分の声だけ遅れて聞こえる時ある」


「それやばいだろ」


「知ってる」


「店にバレてないの」


「まだ」


 まだ。


 それは、もう時間の問題という意味だった。


 拓人は少しだけ周囲を見た。


 知らない男が反対側の歩道で煙草を吸っている。


 コンビニ袋を提げた大学生っぽいやつが笑いながら通り過ぎる。


 この街では、誰かが静かに壊れていても、遠目にはだいたい普通に見える。


「休めば」


 言ってから、自分で薄い言葉だと思った。


 休めるなら、とっくにそうしている。


 麻理も同じ顔をした。


「休んだら家賃払ってくれんの」


「……」


「だよね」


 それで会話は止まった。


 拓人はもう1本、煙草を出そうとしてやめた。


 寒かった。


 でも、それ以上に空気が冷えていた。


 麻理は袋をコートの内ポケットにしまった。


 手つきが早い。


 慣れている。


 その慣れ方が嫌だった。


「ありがと」


 言葉だけは普通だった。


 コンビニで釣りを受け取る時みたいな、軽いありがとう。


 拓人はその軽さに、少しだけ腹が立った。


 自分に対してなのか、麻理に対してなのかは分からない。

 たぶん両方だ。


「客前で倒れんなよ」


「倒れたら、その時はその時」


「笑えねえって」


「別に笑わせてないし」


 麻理はそう言って歩き出した。


 引き止める理由はなかった。


 ないくせに、拓人は背中を見たまま少しだけ動けなかった。


 前より細くなっている。


 ヒールの音も弱い。


 たぶん、次に会う時はもう少し悪くなっている。


 そういう変化だけは、近くで見ていると嫌でも分かる。


 スマホが震えた。


 別の客からだった。


『今からいける?』


 名前は登録していない。


 でも内容で誰か分かる。


 クラブ帰りの男。


 たまにまとめて買う。


 金払いはいい。


 こういう客は楽だ。


 罪悪感が少なくて済むから。


 拓人は返信しようとして、親指を止めた。


 視界の先で、麻理がふらついた気がした。


 ほんの一瞬だけ、壁に手をつく。


 すぐに歩き直す。


 それだけだった。


 それだけなのに、嫌な感じが強く残った。


 追いかけるほどでもない。

 呼び止める関係でもない。


 そうやって毎回、自分の責任の手前で立ち止まる。


 そこから先へは行かない。


 行かなければ、まだ完全には自分のせいじゃない気がするからだ。


 拓人は結局、別の客へ『いける』と返した。


 既読がつく。

 場所の指定が来る。

 今夜もまた1つ回る。


 それで生活は続く。


 続いてしまう。


 1時間後、麻理の店の近くで救急車を見た時、拓人は少しだけ足を止めた。


 野次馬は多くなかった。


 夜の街では、救急車も騒ぎも珍しくない。


 店の入っているビルの前に、見覚えのある内勤の男が立っていた。


 真面目そうな顔で、スマホを握っている。

 表情はほとんど動いていない。

 でも、電話の声だけが妙に丁寧だった。


「はい、大丈夫です、今対応してますので」


 大丈夫。


 その言葉が、今夜いちばん嘘くさかった。


 拓人は遠くからそれを見ただけで、近づかなかった。


 近づいたところで、何が変わるわけでもない。


 変わらないことに、だいぶ慣れていた。


 それでも、自分が少し前に渡した小袋の重さだけは、今さらみたいに指先へ戻ってくる。


 スマホがまた震える。


 別の客。

 別の金。

 別の夜。


 拓人はそれを見て、画面を伏せた。


 今さらやめるほど善人じゃない。

 でも、だからといって平気な顔で続けられるほど、壊れきってもいなかった。


 救急車の赤い光が、濡れた道路にだけ薄く残る。


 街はまた何もなかったふりをする。


 拓人もその中に混ざって歩き出した。


 売ったのは小さな袋1つだった。


 でも、本当に減っていくのは、いつも中身より人の方だった。

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