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リセット  作者: ナオ
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12話 下っ端

 最初に殴ったのは、高校2年の時だった。

 殴るつもりはなかった。

 

 向こうが先に胸ぐらを掴んできて周りに人がいて引いたら終わる気がして、気づいたら拳が先に出ていた。

 

 そのあとで、周りの反応が変わった。

 

 あいつはやれる。

 あいつは引かない。

 

 そういう目で見られるようになると、人はだんだんその役をやるようになる。

 

 木島涼介は、池袋西口の裏手にある雑居ビルの踊り場で煙草を吸っていた。

 

 夜の11時過ぎ。

 

 雨は止んでいたが、アスファルトの色だけがまだ濡れている。

 

 階段の下からは、カラオケ屋の安いマイクの音漏れと、通りの笑い声が少しだけ届いていた。

 

 涼介は24歳だった。

 

 仕事は、ないと言えばないし、あると言えばある、先輩の使いで金を回収する。

 

 連絡のつかなくなったやつの家へ行く。

 飛びそうな女を拾いに行く。

 闇バイトに応募してきた若いやつの顔を見る。

 必要なら脅す。

 必要なら殴る。

 

 でも、本当に偉いわけではない。

 

 上にはもっと怖いのがいる。

 

 涼介はただの下っ端だった。

 

 黒いスマホが震えた。

 先輩の神谷からだった。

 

『まだ?』

 

 短い文だった。

 涼介は煙草を落として踏みつぶし、返す。

 

『今からです』

 

 送ってすぐに既読がつくが、返事はない。

 その代わり……それ以上遅れるなという圧だけがいつも残る。

 

 今夜の相手は、21歳の男だった。

 

 名前は大樹。

 先月、闇バイトの受けで1回使ったあと、2回目で飛んだ。

 

 財布を落としたとか携帯が壊れただの、雑な言い訳を送って、そのまま既読無視、そういうやつは珍しくない。

 

 でも、放っておくと他のやつまで真似をする。

 だから見せしめが必要になる。

 涼介はその「見せしめ」をやる側の人間だった。

 

 ビルを出て、北口の路地へ入る。

 

 神谷に送られてきた位置情報は、ネカフェの裏口近くを示していた。

 

 大樹はそこで見つかった。

 

 コンビニ袋を持って、フードを深くかぶって、いかにも見つかりたくない歩き方をしていた。

 

 涼介は後ろから近づいて、肩を掴んだ。

 

「よう」

 

 大樹の身体がびくっと跳ねる。

 

 振り向いた顔は、思ったより若かった。

 いや、若いというより、ただ普通だった。

 大学にいてもおかしくない顔。

 コンビニで夜勤していそうな顔。

 

 そういうやつが、少し金に困っただけでこっち側へ流れてくる。

 

「き、木島さん」

 

「よく俺の顔覚えてたな」

 

「いや、その……」

 

「飛ぶなら飛ぶで、連絡くらいしろよ」

 

 涼介はできるだけ静かな声で言った。

 

 怒鳴ると周りが見る。

 周りが見ると、後がだるい。

 だから本当に怖い時ほど、声は低くなる。

 

「携帯、止まってて」

 

「今ついてんじゃん」

 

「今日、やっと」

 

「ふうん」

 

 大樹の言い訳は薄かった。

 薄い言い訳は、聞いてるこっちまで冷える。

 嘘にしても雑だし、本当だとしても終わっている。

 

 涼介は大樹の腕を軽く引いた。

 

「ちょっと来いよ」

 

「いや、ちょっと待ってください」

 

「待たねえよ」

 

 大樹は抵抗しなかった。

 抵抗できない顔だった。

 

 ネカフェの裏手は人通りが少ない。

 

 裏口の白い灯りだけが妙に明るい。

 

 涼介はそこでようやく、大樹の胸ぐらを掴んだ

 。

「2回目で飛ぶって、舐めすぎじゃねえ?」

 

「ほんとに、金なくて……」

 

「だから何」

 

「払います……ちゃんと払うんで」

 

「何を」

 

 大樹は口を開いたまま止まった。

 そこを言えないやつはだいたい終わっている。

 自分が何に首を突っ込んだのか、ちゃんと分かっていない。

 

 分からないまま金だけ欲しくて来る。

 そういうやつを、上は1番嫌う。

 使いづらいからだ。

 

「……迷惑かけた分」

 

「分かってねえな」

 

 涼介は1回だけ、腹に膝を入れた。

 大樹が小さくうずくまる。

 

 その音が自分でも嫌だった。

 でも手加減はした。

 

 折るほどでもない。

 

 病院へ行かれると面倒だ。

 次も使えるくらいで止める。

 そういうラインだけは身体が覚えていた。

 

「連絡無視して飛ぶと、こうなんだよ」

 

「すみません」

 

「謝って済むなら楽だよな」

 

 言いながら涼介は自分の声が少しだけ空っぽなのを感じていて、こういう台詞はもう何度も言っている。

 

 でも、本気で言っているわけじゃない。

 脅し文句として口が覚えているだけだ。

 大樹はしゃがみこんだまま、息を荒くしていた。

 

「次、いつ出れんの」

 

「もう無理です」

 

 その返事に、涼介は少し笑った。

 

「無理、じゃねえんだよ」

 

「ほんとに、俺もう……」

 

「じゃあ何で応募したの」

 

 大樹は答えなかった。

 

 答えなんて、たぶん単純だ。

 

 金がなかった。

 他の方法が面倒だった。

 すぐ欲しかった。

 その程度だ。

 

 みんな最初はそれだけで来る。

 

 それだけで来て、あとから話が大きくなる。

 涼介はポケットのスマホを取り出して、神谷に短く送った。

 

『見つけた』

 

『使えない』

 

 数秒で返信。

 

『連れてこい』

 

 それを見た瞬間、涼介は少しだけうんざりした。

 ここで自分が終わらせられるなら、それでよかった。

 

 殴って、脅して、次の連絡だけ取れれば、あとは知らないふりができた。

 

 でも上はそうしない。

 

 連れてこいと言われたら、連れていくしかない。

 大樹も、それで本当に終わるとは思っていない顔をしていた。

 

「立て」

 

「……どこ行くんですか」

 

「安心しろって言いたいけど、安心できるとこじゃねえな」

 

 大樹は立ち上がる時、壁に手をついた。

 その様子を見て、涼介はほんの少しだけ昔を思い出した。

 

 自分も20の頃、別の先輩に車へ乗せられたことがあった、その時はまだ逃げれば何とかなると思っていた。

 

 でも、車のドアが閉まる音だけで、そういう考えは消えた……逃げ道は、閉まる時にはっきりする。

 

 通りへ戻ると、人は多かった。

 

 酔っているやつ。

 笑っているやつ。

 スマホを見ているやつ。

 

 誰もこっちを見ない。

 見ても、面倒に巻き込まれそうな方からは目をそらす。

 

 池袋の夜はそういう街だ。

 タクシーを拾って、大樹を先に乗せる。

 涼介も隣へ座った。

 運転手が行き先を聞く。

 

「西口」

 

 それだけ言えば十分だった。

 細かい場所はあとで伝える。

 車が動き出すと、大樹が小さな声で言った。

 

「俺、ほんとに金ないんです」

 

「見りゃ分かる」

 

「もうやれないです」

 

「それも分かる」

 

「じゃあ」

 

「分かってても、どうにもならないことあるだろ」

 

 自分で言って、少しだけ笑いそうになった。

 まるで経験者みたいな言い方だ。

 

 いや、実際そうなのかもしれない。

 涼介はこっち側にいるくせに、自由だったことがあまりない。

 

 先輩に呼ばれれば行く。

 金が必要なら動く。

 誰かを脅して、その金の一部で自分も暮らす。

 暮らしているだけで、上がっているわけじゃない。

 

 たまに勘違いする若いやつがいる。

 こっち側に来れば、偉くなれると思っているやつが、実際には違う。

 

 暴力を使う側にいても上からの暴力にはずっと怯えるだけで、違うのは自分の手が少し汚れるだけだ。

 

 車内でスマホが震えた。

 

 今度は、由紀からだった。

 半年前まで付き合っていた女だ。

 別れたあとも、ときどき連絡が来る。

 

 切りきれずに残っている関係は、だいたい悪い方向にしか働かない。

 

『まだ起きてる?』

 

 その文を見て、涼介は一瞬だけ返そうかと思った……でもやめた。

 

 今この車に乗っている自分を、そのまま誰かに見せられる気がしなかった。

 

 未読のまま画面を消す。

 隣では大樹が小さく息をしている。

 逃げたい時の呼吸だった。

 分かる。

 分かるけど、助ける気にはならない。

 助けたところで、自分が上に詰められるだけだ。

 

 その程度の情は、もうかなり前に計算と天秤にかけるようになっていた。

 

 雑居ビルの前に着く。

 運転手に金を払い、涼介は大樹を降ろした。

 

 神谷たちがいるのは3階だ。

 階段は狭くて暗い。

 

 上からは笑い声が少し聞こえる。

 楽しそうな声だった。

 そういう時ほど、中身はろくでもない。

 大樹の足が止まる。

 

「……俺、ほんとに無理です」

 

「知ってる」

 

「助けてください」

 

 その言葉に、涼介は少しだけ目を細めた。

 たぶん、今日いちばん本音だった。

 でももう遅い。

 遅いし、自分に助ける権利も余裕もない。

 

「自分で来たんだろ」

 

 そう言って、大樹の背中を軽く押す。

 軽くのつもりだったが、大樹はよろけた。

 その背中が、思っていたより細かった。

 

 階段を上がる足音は2人分なのに、妙に静かだった。

 

 3階の扉の前で、涼介は1度だけ深く息を吸った。

 

 中に入れば、また役目がある。

 

 見張る役。

 黙る役。

 必要なら押さえる役。

 

 扉を開けると、神谷がソファに座っていた。

 その横には知らない男が1人。

 

 テーブルの上には酒と、封の開いた札束。

 神谷は大樹の顔を見て、少しだけ笑った。


「よう、バックレくん」

 

 その声を聞いた瞬間、大樹の肩が小さく震えた。

 

 涼介は扉を閉めた。

 

 閉まる音が、妙に乾いていた。

 

 その音を聞くたび、いつも思う。

 人を脅す側に回ってから、自分もずっと何かに閉じ込められたままだと。

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