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リセット  作者: ナオ


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1話 返済日

 返済日は、いつも給料日の2日後に設定してあった。

 

 その2日が、いちばん苦しかった。

 

 石田亮介は、池袋西口の横断歩道を渡りながら、スマホの画面を何度も見た。

 

 給与明細の振込額は昨日の朝に入っている。

 手取り23万8400円。

 

 そこから家賃、携帯、母の入院費の立て替え、カードの支払い。

 

 計算はもう何度もした。

 

 して、毎回同じところで詰む。

 

 アプリを開く。


 残高、28万6000円。

 

 今月返済額、1万2000円。

 

 借入可能額、3万円。

 

 たった3万か、と最初は思った。

 

 今は、まだ3万ある、と思うようになっていた。

 

 西口の外れにある牛丼屋で、亮介は並盛をかき込んだ。

 

 味なんて分からない。

 ただ腹に入れておかないと、コンビニで余計なものを買いそうだった。

 

 テーブルの向こうで、スーツ姿の男がイヤホン越しに誰かへ言っている。

 

「だから今月だけだって、回してるだけ、飛ぶつもりないから」

 

 回してる。

 その言い方を、亮介も最近覚えた。

 借金して返して、返すためにまた借りる。

 破綻しているくせに、言葉だけは妙に仕事っぽい。

 

 回す。

 整理する。

 借り換える。

 

 ただ詰んでるだけなのに。

 

 牛丼屋を出ると、風が冷たかった。

 

 スマホが震える。

 

 母からだった。

 

『今日、先生が来るって、もし仕事終わったら少しだけ顔出せる?』

 

 少しだけ……がきつかった。

 

 母はいつもそう言う。

 少しだけ。

 無理しなくていい。

 来られたらでいい。

 

 そうやって遠慮されるたび、亮介は自分がどうしようもない息子みたいな気がした。

 

『今日は厳しい、ごめん、また明日行く』

 

 送ってから、しばらく既読がつかない。

 

 病室にスマホを持ち込めない時間なのかもしれない。

 

 そう思いながら、亮介はメッセージの画面を閉じた。

 

 明治通り沿いの古い雑居ビル、その1階奥に無人契約機がある。

 ガラスの自動ドアは半透明で、外からだと中はぼんやりしか見えない。

 

 前を通る人間は誰も中を見ない。

 

 見ないふりがうまい街だと、亮介は思う。

 

 少し悩んだふりをしてから、結局入った。

 

 ブースの椅子は硬かった。

 

 画面の女が明るい声で言う。

 

『ご利用ありがとうございます、本日の追加借入をご希望ですか?』

 

 ありがとうございます、じゃないだろと思う。

 思いながらも亮介は、はいを押す。

 

 3万円。

 手数料。

 返済予定。

 確認。

 

 指先だけが妙に落ち着いていた。

 慣れたんだ、と自分でも分かった。

 

 最初は違った。

 

 母が倒れた時、保険の入院給付が出るまでのつなぎだと思っていた。

 

 10万だけ。

 

 すぐ返せる額。

 大したことはない。

 そう思って借りた。

 

 けれど母は退院しなかった。

 

 検査が増えて、薬が増えて、仕事を休む日が増えた。

 

 亮介の方も、勤め先の内装会社で現場が飛んで、残業代が削られた。

 

 少し足りない月が来て、次の月にはもっと足りなくなった。

 

 画面に「お取引ありがとうございました」と表示される。

 

 借りたのに、礼を言われる。


 ビルを出ると、空はもう暗くなっていた。

 北口の方へ流れる人の波に混ざりながら、亮介はコンビニへ入った。

 

 ATMで口座残高を見て、財布の中を見て、結局缶コーヒーだけ買う。

 

 レジの若い店員は無表情にバーコードを通す。

 

「袋、いりますか」

 

「いらないです」

 

 それだけの会話でも亮介は少しだけほっとした。

 

 誰も自分のことを知らない。

 知らないまま金だけが減っていく。

 店の外に出ると、喫煙所の脇で男が煙草を吸っていた。

 

 年齢は30前後か、それより上か。

 

 黒いパーカに安そうなダウン。

 

 どこにでもいそうな顔なのに、目だけが妙に人を見ていた。

 

「火、あります?」

 

 亮介が缶を開けた音に合わせるみたいに、その男が言った。

 

 亮介は首を振る。

 

「吸わないんで」

 

「そっか」

 

 男は笑わなかった。

 煙だけを吐いて、それから何気ない声で続けた。

 

「このへん、最近きついっすよね金回んない人多いし」

 

 急にそんなことを言われて、亮介は黙った。

 知り合いでもない相手に、そんな雑な探りを入れるのはだいたい(ろく)でもない。

 

 分かっているのに、足は止まる。

 

「別に」

 

「いや、別にいいんすけど俺も昔詰んでたから」

 

 男はスマホをいじりながら言った。

 

 画面には短い募集文が並んでいるのが見えた。

 

「今どき普通に働いてるだけじゃ無理あるじゃないですか、税金だの保険だので持ってかれるしで、ちょっと足りない時にアプリ開いて枠見て、また今月もこれかってなる」

 

 亮介は缶コーヒーを持った手に力を入れた。

 その言い方が、やけに具体的だった。

 

「……なんなんですか」

 

「なんでもないっす、ただ知ってるだけ、そういう人ほ顔で分かるんで」

 

「占い師ですか」

 

「違う違う」

 

 男はそこで初めて少し笑った。

 でも、やさしい感じの笑い方だった。

 

 馬鹿にしているふうではない。

 

 そこが逆に嫌だった。

 

「仕事紹介できるなと思って、受け渡しだけ荷物持って指定の場所に置くか取るか、それだけで現金日払い」

 

「……闇バイト?」

 

「そんな大げさなのじゃないって、案件ってだけで足がつくような雑なことはやらせないし」

 

 足がつく。

 

 亮介はその言葉を頭の中で反芻した。

 

 ニュースで聞いたことがある。

 

 なのに、男の口から出ると妙に日常の言葉みたいに聞こえる。

 

「無理です」

 

「だよな、普通そう言う」

 

 男はあっさり引いた。

 それで終わりかと思った時、ポケットから紙切れみたいに折ったレシートを出して、亮介の缶コーヒーの上に軽く置いた。

 

「ほんとに無理なら捨てていいっす、今週だけ単価ちょい高いんで埋まるの早いけど」

 

 そこには番号ではなく、SNSのIDだけが書かれていた。

 

 亮介は返そうとしたが、男はもう歩き出していた。

 

 コンビニの白い光から外れると、すぐに他人の後ろ姿になった。

 

 病院から着信があったのは、その10分後だった。

 母の担当看護師だという女の声は落ち着いていた。

 

「今すぐどうこうではないんですけど、先生からご家族に説明したいことがあるそうで、なるべく近いうちに来られますか」

 

「今すぐじゃないんですよね」

 

「はい、ただ、お母さま今日は少ししんどそうで」

 

「……分かりました」

 

 電話を切って、亮介はしばらくその場に立っていた。

 

 駅の方から人が流れてくる。

 笑っている連中もいる。

 酔っている声もする。

 

 どこかのモニターでニュースが流れていて、高齢者を狙った特殊詐欺がどうとか言っている。

 

 誰も立ち止まらない。

 

 亮介は財布を開いた。

 紙幣はある。

 

 さっき借りた分だ。

 

 でももう、これは自分の金じゃない気がした。

 最初から返済先が決まっている札束は、ただの通過点でしかない。

 

 スマホを見た、母から返信が来ていた。

 

『分かった、無理しないでね』

 

 その短い文面を読んだ瞬間、喉の奥がひどく乾いた。

 

 無理しないでね、じゃない。

 もうしてる。

 ずっと前から。

 

 亮介はコンビニのゴミ箱の前まで行って、レシートを捨てようとした。

 

 でも手が止まる。

 

 捨てたところで、何が戻るわけでもない。

 枠は増えない。

 母は元気にならない。

 給料は上がらない。

 

 やらない理由は山ほどあるのに、やる理由は3万円で足りた。

 

 SNSを開く。

 検索欄にIDを打ち込む。

 出てきたアカウントのプロフィールは味気なかった。

 

『即対応/受け渡し/日払い/身分ある人優先』

 

 身分、というのが笑えた。

 

 そんなもの、まだ自分に残っているんだろうかと亮介は思った。

 

 最初のメッセージを送る前、ほんの少しだけためらった。

 

 そのほんの少しが、たぶん最後だった。

 

『まだ募集してますか』

 

 送信。

 既読は、驚くほど早くついた。

 

『してる、今どこ?』

 

 西口の空は白く濁っていた。

 雨が降るのかもしれない。

 

 亮介はスマホをポケットにしまって、病院とは反対の方向へ歩き出した。

 

 返済日は、明後日だった。

 たぶんもう……それはどうでもよかった。

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