69 魂召される
アンブロシア
それは遙か昔、太古の時代から存在する神々への供物とされている。母なる大地から神へ贈られるそれは、人智の及ぶものではない。
アンブロシアが表す意味、それは不死。
一度それを口にすれば老いぬ身体を獲ることが出来るという。またそれを用いた秘薬を身体に塗れば不死身の肉体を手にすることが出来るといわれている。
これは神話の中で語られる、まさに神の奇跡とされている。
そう、神話では。
では実際の所はどうなのか。本当に不死となることが出来るのか。
実はそうではない。アンブロシアを手に入れ、それを摂り込んだところで不死身の身体を手に入れることは出来ない。不老不死など神を冒涜するようなことは起こり得ないのであった。
では神話で語られるものは全て嘘なのか。
その表現は少し語弊がある。確かに不老そして不死は得られない。
だが得られる効力は眼を見張るものがあった。
アンブロシアを一度口にすれば、たちどころに病を癒やすとされている。万病に効く効薬として認知されている。そしてそれは事実であった。軽い風邪は勿論のこと流行り病でさえその絶大な癒やしの力で癒やすことが出来るのだ。
そしてアンブロシアは病だけでなく負傷にもその効力を発揮するとされている。瀕死の重傷を負った兵士をたちどころに回復させたという事実は誰しもが知っている出来事であった。
病に効き怪我をも治す。そんなアンブロシアが神話に登場するのもある意味当然なのかもしれない。太古の人々はその神秘の花を神からの授かりものとしたのだろう。
そんな神秘に満ちたアンブロシアだが、当然の如く簡単に手に入るものではない。その希少性は誰もが知るところであり、実物を目にした事がある人物など極々一部である。さらにアンブロシアを使用したとなると、どれほどの数がいるであろう。
帝国貴族に仕えていたセルバであるが、実はそんな超希少アンブロシアの実物を目にしたことがあったのだ。それはシャルティエルの傷跡を治癒する方法を探していた時のことだ。とある大商人がアンブロシアを入手したという噂を耳にしたのだ。
伝説に謳われる秘薬。そんな秘薬ならば、お嬢様の傷を癒すことが出来るかもしれない。その想いから伝を使い商人へ面会の約束を取り付けた。そして面会を経て噂のアンブロシアを見せてもらったのだ。
セルバは必死の思いで商人に懇願した。アンブロシアを譲ってほしいと。勿論それに見合うだけの額を支払う旨を伝えた。アンブロシアの相場は金貨にして二百枚から三百枚とされていた。
それに対し提示した額、金貨千二百枚。これはセルバに出せる限界の金額であった。
しかしアンブロシアを譲り受けること叶わなかった。
後の噂で、アンブロシアは皇族へ献上されたというのを耳にしたセルバであったが、もはやどうでもいい事であった。
そんな超希少で幻とされるアンブロシア。
「―――それを使ってしまった、と」
セルバからの報告を何とも言えない表情で聞いていたキース。
顔を真っ青にして語るセルバ。
不安そうにキースの顔色を窺うシャルティエル。
そんな重い空気の中、キースはセルバの話をどこか他人事のように聞いていた。
セルバの話の中で皇族やら金貨千万とかよくわからない単語が含まれていたが、キースは気にしないことにしていた。庶民ごときが気にしていても仕方のないことだ。
それよりも何よりも、キースには気になって仕方がないことがあり、それのせいでセルバの話があまり頭に入ってこなかったのだ。
「……なにこれ」
目の前のこれ。まるでミイラのように干からびたそれ。
生きた即身仏とでもいうのが正しい表現なのだろうか?
全身をプルプルと震えさせ、乾いた唇をパクパクさせ、干からびた眼差しを、こちらに向けてくる猫っぽい何か。猫、ねこ……ネコ?
いや、いうまでもなくミィーケなのだが。
それはもう可哀想な状態であった。
死んだ魚だってもう少しマシな目をしているだろう。その瞳からは完全に精気が消え失せていた。そんな、もはや目なんだか何だかよくわからない眼差しをキースに向け、ミィーケはひたすら謝罪のようなものをしていた。
その乾いた口から何か言葉のようなものが発せられているが、もはや何を言っているのか聞き取ることすら出来なくなっていた。時折コロ…して……などとよくわらからない言葉が聞こえてくるが、きっと気のせいだろう。
何故このようなことになっているのか。
おそらく、というか間違いなくアンブロシアが原因であろう。
セルバの話によると、ミィーケはそれをアンブロシアと知らずに薬の材料に使用してしまったのだという。亜人の野生の勘とでもいうのか、その鋭い感覚がアンブロシアを良い材料になると嗅ぎつけ、そしてそれを調合した。なるほど、理にかなっている。薬剤師は良い材料には目がない。そこに良いものがあれば使ってみたくなるのは一種の職業病ともいえるだろう。そんな魅力に、本能に忠実な猫人が逆らえるはずもなかったのだ。
そして意気揚々と薬を調合してた所にシャルティルとセルバが部屋に訪れてきて、そして現状を目にしたと。
そこでセルバから使用した材料がアンブロシアであるということを教えられたミィーケは、自身がやらかしてしまったその重大さに気が付き、このような状態になってしまった。
ミィーケの考えも分らなくはない。確かに事は重大だ。何せあのアンブロシアだ。それを知らずとはいえ使ってしまったのだ。血の気が引く思いであろう。
セルバやシャルティエルが動揺しているのも理解はできる。そしてキースの顔色を窺うようにしているのも、分らなくはない。普通であれば、ミィーケに対し怒りの感情をぶつけてしまうのも仕方がないであろう。だから二人はキースが怒らないか心配しているのだ。
だがキースはミィーケを叱る気にはなれなかった。
「……というか、これは叱れないでしょ……」
これはもはや猫と呼べる代物ではない。というか生きる屍だ。生きながら死んでいる。置物ですらもう少し精気があると言うものだ。カラッカラの干物に成り下がった猫をどう叱れというのだろう。
「……にゃ……ぁャ……ぁ……」
もはや喋ることすら出来なくなっているソレ。
今にも魂が抜け落ちそうである。
コレをどうしろと。
「いや、まぁ……その、なんだ。 使ってしまったものは仕方がない、のか? まぁ、あれだ。ほらあれだ」
額に汗を流しながら弁解するキース。何故かキースが慰めるといった、よくわからない現象が起こっている中、セルバがその重い口を開く。
「キースさん。ご確認したいのですが、これは……本物のアンブロシア……でお間違いないのでしょうか」
「ああ、それは間違いない。俺が直接採取しているものだからな」
「なんと……」
驚きに目を見開くセルバ。その横でシャルティエルも同じような反応をしている。
そしてそれとは別に違う反応を示すものが一つ
「……にゃ…にゃぁ…ぁ…ぁ…」
口から魂を吐き出す猫の干物。キースは慌てて魂を口へ押し込める。実際魂など抜けてはいないのだが、幻視してしまったのだがら仕方がない。
「ま、まぁ、その。気にするな、とまでは言わないが、そこまで気に病む必要はないぞ? うん。 たかがアンブロシアの一つや二つ、使ってしまっても代わりはあるんだしな」
キースは慰めるようにミィーケの頭をなでてやる。カサカサと乾いた音がするのはきっと幻聴であろう。
確かに使ってしまったのはアレだが、別にそれが唯一のアンブロシアという訳ではない。
実はキースは、複数のアンブロシアを所持していたのだ。
残ったアンブロシアを確認するために室内を見渡すキース。
「――あれ?」
そこである事に気がつく。今机の上に一つのアンブロシアが置かれている。それはセルバが確認したといっていたものであろう。
だが、室内を見渡しても他のアンブロシアが見当たらない。全部同じ場所に保管していたはずなのだが。
「セルバさん、他にアンブロシア見かけませんでしたか?」
「他、ですか」
「ええ。それの他にもまだ複数所持していまして」
「なんと…! 幻といわれるアンブロシアを……。しかし、それは僥倖なのかもしれません。まだ残っているのであれば、取り返しは……」
そこで、はっと気が付いたような反応をするセルバ。そしてその顔がみるみる青ざめていく。そしてそれは次第に真っ白なソレへと変化していく。
「セルバさん?」
「……私が気づいた時には……それ一つだけでした……」
「……おぅ……」
乾いた息を漏らすキース。流石にこれは想定外であった。机に上には一つのアンブロシア。そしてそれ以外のものは見当たらない。ということはつまり……
「あ、あの、キースさん。キースさんはアンブロシアを幾つ所有していたのですか?」
シャルティエルが恐る恐るといった様子でキースに尋ねてくる。それを固唾を呑んで見守るセルバ。そんな二人にキースは静かに応えてゆく。
「……十六」
「……へぇ?」
「……全部で十六株保存してた……」
「にゃは……にゃはははは……… やっちまったにゃぁ……」
猫の形をした魂っぽい何かがゆっくり天に召されて行くのを、キースは確かに目撃するのであった。
いや、幻視ですから。魂なんて目で見えませんからね。
みんなテンパってます。
この後ミィーケはどうなってしまうんでしょうか。
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