表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
連載小説「黒い旗」  作者: 崎戸隆
1/2

白い蝶

 里美は駅のモールで買ったクリスマスプレゼントを手に、駅前のアプローチを急いだ。雪はすっかり止んでいる。舗道に斑模様で残っているだけだ。

 交差点に差し掛かった。前を歩いて行くのは、ダウンジャケットを着、ぴったりと脚に張り付くジーンズをはいた若い子だ。何気なく視線をその子の脚元に下げて行き、細いヒールの靴を見た。かかとが目に留まり、一瞬息をのんだ。

 白い蝶だ。あの時の白い蝶だ。目が離せなかった。蝶の幻影からどうしても逃れられないのだろうか。戦慄に似た衝撃が全身を走る。もっと近づいてよく見ると、それはかかとに付着した白い雪の欠片だった。おまわず笑いたくなるのを抑え、里美はダウンジャケットのすぐ後ろに立った。信号の色は赤に変わったばかりだ。光る赤があの日の眩い白色に変わり、里美は記憶の底に沈んで行く。

 

 あれは小学4年のころだったか。多分遅い夏がようやく訪れた6月のある午後だ。

 朝からクシャミばかりしていた。風邪だなと思ったけれども、母親は学校を休みなさいとは言ってくれなかった。どうしてだろう、と訝りつつ、里美は重い気持ちで登校した。2時間目3時間目は何とか辛抱できたが、お昼の弁当を食べ終えたあたりからクシャミのほかに咳も加わり、その上、はなみずまで出始めた。担任の女の先生がその様子を見て、おうちに帰りなさいと優しく声をかけてくれた。里美はクラス仲間の羨望の視線を浴びながら帰り支度を始めた。

学校を出ると具合は少しずつ良くなってきた。教室の乾いた空気のせいだったのだ。そう思うと、気分も徐々に晴れて来るような気がする。

 だが、家に帰るとまた急に頭が重くなってきた。変だな。どうしてだろう。いつもはこんなことないのに。外で体調が悪くなったとしても、家の前まで来ると必ず良くなったたりしたものだ。それなのに、今日は逆だ。頭が斜めにかしいだように体がふらついている。とにかく早く家の中に入ろう。部屋で横になれば少し安らぐかもしれない。ふらつく体を案じながらもようやく家の前まで来た。

 玄関の鍵は掛かっていた。留守なのだろうか。チャイムを押そうとして手が止まった。何か胸騒ぎを感じていた。押してはいけない。そうしてはいけない何かの気配が家の中にある。もう一度指を伸ばし、やっぱりやめた。何だろう、この固い空気は。

ベランダの方へそっと足音を忍ばせて回ってみた。居間のカーテンは閉じられている。通り越して家の角を曲がった。サツキとツツジの植え込みの間を通り抜けて行くと、微かな声が聞こえて来た。寝室のほうだ。どきどきする。里美は壁に耳を近づけてみた。訊いたことのない女の喘ぎ声がした。あれは母の声だ。母の声に間違いない。

 十歳の女の子でもそれが何を意味しているか分かった。直感だった。遊びや日常の行為ではない。男女の性に関係するいやらしい行為を、母は狂ったように今おこなっているのだ。相手は一カ月目から足しげく通ってくる自動車セールスマンのあの男だろう。一週間ほど前だったか、父のいない土曜日の午後、遊びから帰って来ると、母はソファで向かい合わせではなく、なぜか男の隣に座っていた。そしてしきりに冗談を言っては男の膝辺りを敲いたりした。その光景が目に焼き付いている。

 壁の向こうに目に見えない母の白い太腿がちらついた。

 里美はさっきよりももっと息をひそめて、そこを立ち去ろうとした。身をひるがえす時、ランドセルの中身がカタカタと音を立て、一瞬ひやりとした。

 玄関の前に里美はランドセルを置き、家を出た。ランドセルを置いたのは、自分がいったん帰って来たのだということを母に知らしめるためだった。それは母に対する少女の精一杯の抗議だった。それと同時に、それを知った母がどういう反応を示すか、その反応を確かめたい気持ちもあった。

路地を抜けて近くの空き地の前を通りかかると、そこに見覚えのあるセールスマンの黒い車があった。あの男はこの日だけわざわざ車を人目のつかない場所を選んで停めておいたのだ。卑劣な大人たち。

 里美は空き地の隅に落ちていた細い小枝を拾うと、車に近づいた。細枝を振り下ろし、思い切りフロントガラスを鞭打った。ピシッと鋭い音がした。どこも傷ついていないのが残念だったけど、ともかく懲らしめてやることは出来た。可哀想な父の代わりに。

 里美は鞭を手にしたままそこを後にした。

 学校とは反対の方向へ歩いて行った。時々洟が落ちて来そうになるのをポケットのティッシュで拭き取った。

 川の土手に出た。ゆるやかな勾配の草地にはタンポポの黄色やアザミの薄紫がまだらに咲き、その上を一匹の紋白蝶が周回している。低くなり高くなり、そうかと思うと、気まぐれにタンポポの花に止まってはすぐに舞い上がったりする。そこへ、別の白い蝶が現れた。二匹は互いにくっついたり離れたりを幾度も繰り返し、戯れ始めた。

 里美はそろりそろりと近づいて行った。すぐ目の前にそのうちの一匹が飛んで来た。里美は小枝の鞭を振り下ろした。まさか命中するとはおまわなかった。だが、蝶は力なくよろよろと足元に落ちて来た。まだ生きている。草地の隙間から見える茶褐色の土の上で、白い羽が痙攣でもしているかのように震えている。

 里美はとっさに足で抑えた。母に一か月前に買ってもらったばかりのピンク色のスニーカーの踵で押さえつけ、そしてぐりぐりと踏みにじった。何の感触もなかった。二度、踵を地面にこすりつけて潰し足を引いた。白い鱗粉が地面に残っていた。里美は小枝を投げ捨てた。もっと遠くへ行ってみよう。そう思って、土手を降りた。

 川沿いの道路をどこまでも歩き続け、いつの間にか今まで来たことのない見知らぬ場所までたどり着いていた。住宅街はとっくに通り過ぎ、人の影もなく、倉庫や廃屋が立ち並んでいた。鳥の鳴き声までが聞いたことのない鋭い鳴き声に変わっているようだった。

 もうどのくらいたったのだろう。汚らわしい男は帰っただろうか。ここから引き返したらちょうどいい時間になるかもしれない。あの電柱の所まで来たら引き返そう。その電柱を通り過ぎ、次の電柱、また次の電柱とやり過ごした。すると、いつまでも迷っている自分が急に馬鹿らしくなってきた。

 里美は引き返した。

 戻って来たときには空き地には黒い車は既になく、ランドセルも玄関の前になかった。非は傾きかけていて、洟はすっかり止まっていた。

 ドアに鍵は掛かっていない。開けて入ると玄関ホールの壁にランドセルは立てかけてあった。母が出て来た。シャワーでも浴びた後らしく、髪が濡れている。

「どこ行ってたの、こんな時間まで。心配してたのよ」

腕組みをして里美を見下ろしている。里美は母親を睨みたかった。けれどもどうしても目を合わせることが出来なかった。

「それ、何なの?」

 母が言った。何のことかわからず黙っていると、「それよ」と顎で示した。「足の踵についているやつ」

 体をひねって足元を見た。かかとの後ろにあの蝶の白い羽のちぎれた一部がくっついている。気が遠くなりそうだった。靴を脱ぎ捨て、ランドセルを手にすると、母を突き飛ばすようにして駆け出し、自分の部屋に入った。内カギを掛け、机の前に座った。不意に涙が出て来た。どうして涙なんか出てくるのだろう。不思議だった。でも決して悲しい涙なんかではない。里美は唇をかんだ。


 交差点の信号が青に変わった。

 前に立っていた若い子が歩き始めた。踵にはまだ白い雪片が付いている。その足ばかり見詰めながら歩いた。交差点を渡り終えた時、その子はいきなり立ち止まった。実際には立ち止まってはいなかったのかもしれない。速度が急に遅くなっただけなのかもしれないのだけれども、くっつくようにして歩いていた里美はぶつかりそうになった。あ、と小さく声を上げ、振り向いたその子に軽く会釈をした。まずまずの顔立ちだが、化粧が濃いうえに、歯並びが悪い。この程度の顔ではあまりいい男はつかまえられないだろう。

 慎也ほどの男をつかまえるのは到底無理だ。彼は私のような女でないと多分振り向いてはくれない。

 その子は渡り終えると右に折れて、地下鉄の入り口の方へ歩いて行った。見ると、踵の白い雪片はもう付いていなかった。

 里美はずんずん歩いて行く。通りのイルミネーションがきれいだ。街中がクリスマス・イヴという夢の世界に浮きたっているようだ。もうすぐYホテルに着く。スイーツのミルフィーユがおいしいと評判のホテルだ。今夜、里美は婚約したばかりの慎也とここでクリスマス・イヴを過ごすことにしている。

 食事のあと、そのまま泊まる予定だ。一生のうちで一番思い出に残る、楽しい日になりそうだ。

 もう後ろは振り返らない。振り返る気も起きない。

「あんたはね、何をやってもあたしには敵わないのよ」

里美の顔を見ると口癖のように憎まれ口を叩いていたあの母親はもういない。すい臓がんで5年前に死んだ。あの女は最後まで貪欲だった。男は何人いたのか。けれども結局は一人で死んでいた。たまたま急変したその場に誰も居合わせず、最期を看取る家族や知人はいなかったのだ。

 その2年後に今度は父が心筋梗塞で死んだ。この時だかへ涙がとめどなく出て、本当に困った。

 いつも何かに怯えたような顔をしていた父。もっと胸を張ってよ。あなたのおかげで母やあたしはぬくぬくと暮らしていけるんだから。心の中ででそう叫んでいたけれども、声に出しては言えなかった。

 母が死んだあと、「もうあの口うるさいお母さんはいないんだから。これからは好きなことをして暮らしていった方がいいよ」。里美ははっきりとこの時は口に出した言った。なのに、母の死後2年しか生きなかったなんて。それほど母が好きだったんだろうか。とてもそうは見えなかったけど。

 慎也と知り合ったのが母の死後でよかった。生きているうちにもし紹介していたらどんな展開になっていたかわかりはしない。本当に油断できない女なんだから。

 慎也とは友達の紹介で知り合った。それが今年の春だ。彼の発想は面白く、ジョークの引き出しをたくさん持っている。それに目が涼しい。つき合い始めて半年後の11月、デートの後で別れるとき、彼は何かそわそわしていた。駅に向かう途中、わざわざ遠回りして暗い公園を通り抜けた。これはきっと何かある。里美は期待した。植え込みの陰で彼は立ち止まり、おかしなことを言った。

「ほら、耳を澄ましてみて。聞こえるだろ」

「何が」

「ミズスマシの鳴き声」

 え? ミズスマシって鳴くの。第一こんなところにいるの? 池にしかいないんじゃないの。いつもこんな調子だ。軽く目を閉じて聴き取ろうとした時、キスされた。多分前もって筋書きを決めておいたのだろう。おもしろいやつ。唇を放すと、慎也は「結婚しよう」とささやいた。里美は心の中で笑った。勿論承諾した。


 食事もミルフィーユもおいしかった。今夜は特別。これまでで最高の味だ。周りの人がみんな自分を祝福してくれている。里美はそう思った。慎也にクリスマスプレゼントのマフラーを渡し、慎也からはエンゲージリングをもらった。マフラーは前からの彼の希望だった。

 夢心地の時を過ごし、慎也とベッドを共にした。

 白い歓びの波が何度も押し寄せては砕け、また次の波濤が押し寄せて来る。体の芯までとろけてしまいそうな恍惚の塔の頂に上り詰め、里美は大空へと羽ばたいて行った。解放された身体が心を自由にさせてくれた。しばらく空中を浮遊していた。

 少しずつ現実が近づいて来る。薄く目を開けた。

「白い蝶・・・」

 慎也が耳元でささやいた。

「何? どういう意味!」

 忌まわしい過去の記憶が突然甦った。絶望的な恐怖が走り抜けようとする。こんな時に私の慎也はなぜ、唐突に「白い蝶」などと口走ったのだろう。恐る恐る彼の言葉を待った。

「さっきね、終わった時ふっと見たら、里美の右の頬に白く蝶の形が浮き上がって見えたんだ。うっすらと」

「手鏡を取って。早く!」

 里美はサイドテーブルの上のバッグを指さした。

「大丈夫だよ。もう消えたから。ほんの一瞬だけだったんだから」

 あの小憎らしい女は今でもどこかにいて私と張り合うつもりなのだ。里美の心の奥底で何かに火が付いた。私は決して負けはしない。負けるものか。

「ね、もっと抱いて」

里美は慎也の背中に手をまわした。そして、この闇のどこかに潜んでいる、目には見えないあの女に向かって赤い舌をペロリと出した。

 

                掌編小説連作「黒い旗」その1「白い蝶」了



 



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ