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俺の親知らずを抜いていけ  作者: ぱじゃまくんくん夫
リンフォルツァンドの章
52/58

11:覚醒

 洋瑛は雪村がうつ伏せになる部屋の中へとおもむろに窓を乗り越えていく。叫ぶ。名を呼びかける。片手一つで雪村の肩を揺すった。小銃を抱え込むようにして倒れ伏している彼に怒号のように吠え立てる。


「雪村あっ!」


 唇が震え始める。おさえようとしても震えが止まらなくなる。全身の肌が小刻みに揺れるとともに洋瑛の胸底や脳裏を支えていたものが、まるで霧散していく。とぐろを巻いていたとめどない感情が次々に切り離されていくようにして、真っ白な世界へと消え去っていく。


「おいっ! 雪村あっ!」


 洋瑛はヘルメットのベルトを掴み上げる。彼の顔を無理やり起こす。雪村は瞼を開けていた。口端からは血を垂らしていた。瞳はどこも見ていなかった。光の無い、ただの目玉だった。


 その目は、死に覆われていた。無力であった。無情であった。ただただ、差し込む光に顔形の陰影がかたどられている。見失った希望が洋瑛の左手から力を喪失させていく。雪村の頬が血溜まりに沈んでいく。


「嘘だろ」


 洋瑛は返り血に塗れた左手を雪村の頬に乗せた。血で塗りたくりながら、ぼろぼろと涙をこぼした。涙の玉が雪村のジャケットに落ちても、流れても、彼の目玉はどこも見ていない。


「おい。マエガミ君。雪村君。おい。どうしたんだよ、おい。ゆきむらあ――」


 見知らぬ土地の、見知らぬ部屋。


 銃声が止まない。燃え盛る炎が止まない。


 因果なのか、宿命なのか、洋瑛の涙は悲嘆の玉しずくであった。抗いきれないものに最後まで抵抗しようとしても、手段の尽きた絶望であった。前進も後退もかなわない。そこに膝をついて、友の体を掴んでいることしかできない。


「ああ――」


 と、洋瑛は失意の呻きをつきながら、おぼつかない足で立ち上がった。もう、ここに友はいないことを悟った。右足を1歩、左足を1歩、崩れ落ちそうな体を支えながら歩み出す。その眼差しは虚ろでいて、追い求めているものはどこでもない。その唇は開いたままでいて、発する声は言葉にもならない。


「ああ――」


 なぜ、自分たちは殺し合いをしているのだろうか――。


 荒砂山のあのころはどこにいってしまったのだろうか――。


 なぜ、死ななくてはならないのだろうか。なぜ、生きなくてはならないのだろうか。洋瑛が踏み出していく足は、この世とあの世の狭間を浮遊する亡霊のようにして、あるいはまた再び地獄のとどろきに吸い込まれていくようにして、意志とかけ離れている。


 洋瑛はふらふらとして廊下に出た。血の斑点が続いている。洋瑛の行方を導くようにして廊下から階段へと続いている。


「あああっ!」


 絶叫した。戦わなければいけない無意味な使命を取り戻すために、己の心を縛り上げようとする鎖を振りほどいた。


 涙が頬をつたうままに高速運動化する。喉奥から叫び上げながら駆け出す。憤怒のぎらつきで階段へと折れていく。空薬莢が撒き散らされた階段を上がっていく。


 2階の廊下に出る――。


「カピちゃん――」


 田中中尉を背中から覆いかぶさったまま倒れ伏している杏奈の姿に洋瑛の目は点になった。


「カピちゃんっ!」


 駆け寄る。田中中尉もろとも杏奈を仰向けにひっくり返す。洋瑛の左手は震える。餅のような笑顔を作っていた彼女の唇からは血が垂れており、瞼は静かに閉じている。


 胸の中央から、血液が溢れてきている。


「カピちゃん――」


 高速運動化の時間が止まったような世界で、洋瑛は両膝をついた。ガツン、として、超越能力の終了の打撃が脳髄に叩き落とされた。


 それでも、嘘のように銃声がない。


 洋瑛は疲労に息を荒げながら、痛打に顔を歪めながらも、杏奈に呼びかけながら、彼女の頬にゆっくりと震える掌を添えていく。確かめるようにして、愛しい頬を撫でていく。


「なあ? カピちゃん? 俺、触っているよ?」


 杏奈の目は瞑ったままでいた。


「嘘だ。嘘だよな。教官。バカ教官――」


 洋瑛は田中中尉に笑いかける。しかしながら、田中中尉の目玉も雪村と同じようにして凝固しており、洋瑛の知らない別世界にある。


「嘘だ――。嘘だろ――」


 嗚咽の漏れそうな喉をこらえながら、洋瑛は粉塵の立ち込める辺りをゆっくりと見回していく。嘘だ、と、誰かに言ってもらいたくて、救いを求めるようにして誰かを探す。


 廊下の突き当たりにラットローグ曹長がいた。壁に背を預け、両足を伸ばし、両腕をだらりと垂らし、頭を下げて、小銃をベルトに引っさげたまま、ラットローグが人形のようにして座っている。


 赤黒い血だけがゆっくりと流れていた。


 血の斑点が食堂へと続いている。


「バカじゃねえのかあっ!」


 洋瑛は咆哮しながら怒りのままに立ち上がった。


「久留美いっ! チヅうっ!」


 涙の玉をちぎりながら洋瑛は食堂へと駆け出していく。剥き出した目玉のうちを無数の毛細血管で走らせながら、無意識のままに高速運動化していく。


 食堂の間口に滑りこんでくる。黒髪を流す黒い背中がそこにあった。コートの裾から血塗られた刃物が見え隠れした。


「クッソ野郎おっ!」


 洋瑛は血糊の散った白いトレンチコートの背中にブーツの右足を叩きつけた。速度の加わった衝撃が女の体躯をエビ反りにする。女はそのままの姿態で跳ね飛ぶ。食堂の柱に激突する。洋瑛はさらに追う。血管が破裂せんばかりの形相で駆け込む。さらに右足を叩きつける。女の黒髪を根元から掴んで引き寄せる。柱に激烈なまでに叩きつける。


 が。


 洋瑛の独壇場であるべき高速運動の世界でありながら、女が動いた。長刀を握った白い袖の右肘が、くの字に折れて、洋瑛の胸板に叩きこまれた。


 洋瑛は逆に飛ばされる。食堂の壁に叩きつけられる。歪んだ顔で呻きを漏らしながら、壁に背中を預けたままにずり落ちていく。


「近田洋瑛っ!」


 と、女が黒髪を振り乱しながら、目尻の尖った狐目を寄越してくる。


「無駄だっ! 高速運動トランセンデンスはあなただけじゃないっ!」


(レイ――)


 朦朧とする意識の中で、洋瑛は直感した。


 ぼやけてしまう視界の中で、狐目の女は長刀をたずさえながらそこに仁王立ちしている。額から血を垂らしながらも、鼻頭をぬっとして持ち上げる。血塗られた白いトレンチコートの裾を揺らして、たたずまいは泰然としている。


 洋瑛はかすれた声ながら、口許を歪めて笑う。


「お前がクソッタレテロリスト野郎どもの頭目なんだろ」


 長刀の切っ先がすうっと揺れて、洋瑛を指し示して留め置かれる。


 狐目の女は瞼を薄っすらとさせる。侮蔑するようでいて憐れむような眼差しを洋瑛に注ぎ込みながら言う。


「降伏しなさい――。あなたは国防軍に操られているだけです」


 血塗られたコートに似つかわしくない、甘美な声音であった。彼女の表情ほどに冷たさのない静けさであった。凶器を突きつけられている恐怖さえ生じさせなかった。


 洋瑛は女の目を見つめる。国防軍に操られているだけ――であるのは、洋瑛自身も自覚している。しかし、狐目の女が振りかざしている長刀には、雪村や杏奈、ラットローグたちの血がまとわりついているのであった。


 洋瑛はせめてものあれで笑う。


「バカか? 仲間を殺した野郎なんかに誰が尻尾を振るってんだ?」


「あなたたちも罪のない人を殺したでしょう。何十人も。おじいさんおばあさんから、小さい子たちまで」


「だから終わらねえんだろう」


 と、言ったとき、ガツン、と、高速運動の終わりが叩きこまれた。洋瑛は左手をついて耐えようとしたが、狐目の女に食らわされた肘鉄一発で、もはや身動きの取れる状態ではなかった。


 突如、銃声が起こった。


「クソッタレがあっ!」


 空薬莢を弾き出しているのは峠大尉の小銃だった。


 が、女は跳んでいた。


 トレンチコートにくるまるようにして体を丸め、回転し、まったくもって人間技じゃない、まるで意志を抱いた白い塊のようにして洋瑛のほうへ飛び込んでき、洋瑛の目の前に降りてきたかと思うと、洋瑛に寄り添うようにして片膝立ちになっており、彼の首筋に刃物を添えてきていた。


「銃を捨てなさい」


 と、女は峠大尉たちに振り返る。


「何が目的だ! 東原!」


「あなたたちを殲滅するつもりはない。捨てろ」


「キャプテン――」


 と、囚われている洋瑛はつぶやいた。峠大尉に目配せした。同じようにして小銃を構えている笹原少尉や千鶴子にも。片岡、圭吾、二本柳にも視線の先を振っていく。


 洋瑛はうなずいた。


 意図を組んだ峠大尉は小銃から手を離す。足下に小銃を捨てていく。隊長に習って、皆も唇を噛みながら武器を下ろしていく。


「あなたたちの無線は天進橋と交信しているんでしょう。降伏したと伝えなさい」


「衛星受信機は貴様との格闘ですでに壊れている。無線は届かない」


 と、峠大尉が事実を言ったとき、洋瑛は落ち窪んでいた瞼を押し広げた。瞳孔を開く。奥歯を噛みしめる。


 狐目の女は相馬悠と同じようにして、知覚がすべての時間の中にある。ゆえ、洋瑛の高速運動に合わせてこられる。


 洋瑛は自分自身が高速運動トランセンデンスであることを悠に見破られていたことで、狐目の女が悠と同じようなものであると認識していたが、最初に食堂に入ってきたとき――、狐目の女に攻撃を加えたとき、自分自身と女のあいだにタイムラグが生じていたのも把握していた。


 背中を壁に預けたままに高速運動化した洋瑛は、腰に吊るしていた戦闘用刀子ファイティングナイフを抜き取ってくる。乾坤一擲、最後に振り絞った力で、黒いセーターの膨らみ目掛けて切っ先を伸ばす。


 刺す。


 狐目の女の眉間に皺が寄った。同時に、女の左手が伸びてきて、洋瑛は首を掴み上げられた。ヘルメットの頭を壁に打ち付けられ、頸動脈を握られていき、刃物を頬に添えられる。


「無駄な抵抗は、よしなさい――」


 しかし、女の声もおぼつかないでいた。急所ははずれ、刀子は胸の深みに至らなかったものの、血液が刃物から柄へと伝ってきては、したたり落ちている。


「あなたが降伏すれば、仲間は天進橋に返してあげる。これ以上、死なせたくはないでしょう」


「殺すんなら、殺せ……」


「それでいいの、あなたは? あなたのお父さんも、あなたの仲間も、確かに私たちに殺された。けれど、ここに向かわせたのは誰なのか、あなたはわかっているでしょう。私たちだって好きであなたたちを殺しているわけじゃない」


「俺は寝返ろってことかよ……」


「そうです」


 洋瑛は首を締められながらも視線だけを動かして女を見やる。


「バカ言ってんじゃねえ……」


「私たちトランセンデンスは全員が被害者なのよ。あなたは考えたことがあるの? どうしてトランセンデンスがいるのか。どうして玄福が隔離されているのか」


 流血しているにも関わらず喋りすぎているためか、女が洋瑛を締め上げる力は弱まっていた。


「考えたところで無駄だろうがっ!」


 洋瑛は左手を懸命に振った。握れもしない拳で女の頬を打った。


「抵抗は無駄です」


 と、洋瑛の最後の一撃は、彼女の顔に触れただけ、ぐっとして首を締め上げられたとともに高速運動が終わったときの衝撃にも打たれて、洋瑛の肩はぐったりと落ちた。


 意識も、息もある。が、精神も肉体もまどろみの中であった。


 女が手を離せば洋瑛の上体は前のめりに倒れ、呻きだけが口からこぼれる。


「ひとまず、あなたたちは玄福市役所に――」


 狐目の女がそう言いながら腰を上げたとき、千鶴子が叫んだ。胸底から渾身の声圧を吐き出した。不意をつかれた狐目の女は態勢を崩して壁に叩きつけられる。


「うわあああっ!」


 片岡が飛び出していた。千鶴子が巻き起こした風を追いかけるようにして女に駆け出していった。巨体を揺らして女に飛びかかる。


 圭吾がすかさず小銃を拾った。


 片岡が伸ばしていった両腕は、女の血塗られたコートもろとも巻き込む。捕らえざま、片岡は自分ごと女をひっくり返す。床に転がっていく。


「圭ちゃんっ! 撃てえっ!」


 片岡が叫んだとともに圭吾は銃身を持ち上げる。片岡が押し倒しては抱きかかえたままの女目掛けて銃口を向ける。被筒を握りしめた。銃把を掴み取った。小柄な彼が押し広げた瞼は、狐目の女一点に注ぎ込まれている。捨て身の片岡もろとも撃ちかけるとて、ためらいはない。銃弾は片岡の骨を貫かない。


 指先を引き金に伸ばす。


 しかし、女は腰を上げた。片岡を背負いながら起き上がった。とともに、片岡を投げ飛ばした。


 圭吾は撃つ。


 女が横転してかわしていく。千鶴子が吼える。女は長刀を振って圧を斬る。して、圭吾に跳躍して飛び込んでくる。


 長刀の切っ先が伸びてきて、圭吾に振り抜かれていく。


 銀色の残像は、圭吾の鼻先を真一文字に切った。しかし、鼻だけだった。


「くっ――」


 洋瑛が刺していた刀子の傷から、あるいは度重なる高速運動から、女の手元は鈍っていた。しかしながら、女は圭吾が構え直した銃身を蹴り上げる。圭吾の両手が跳ね上がって、彼は無防備となった。


「愚か者めっ!」


 圭吾の目玉は振り上がった長刀に釘付けとなった。


(死んだ――)


 と、思った。


 転瞬――。


 狐目の女がその目を無機質に硬直させた。振り上げていた長刀もぴくりとも動かなくなった。彼女の薄い唇がわずかに開け放たれていく。


 呆然として、ほのかに呻く。


「あ……。あ……」


 血塗られたトレンチコートの裾が下りていくとともに、彼女の生気も抜けていく。陽光にきらめいていた長刀も手から滑り落ちていく。


 床にからりと鳴って落ちた。


「あ――」


 と、圭吾は目にした。タートルネックのセーターの胸から3本の刃が貫き出ている。やがては刃がするりと抜けていく。胸の貫穴から赤く澄んだ血液が噴き出てくる。


「あ……」


 狐目の女は硬直した目玉で、窓の外の光が燦々として降り注ぐ景色を眺めながら、噴血を飛沫上げるとともに、両膝から崩れ落ちていく。


 女は景色ばかりを見つめていた。


 そんな彼女の背後にはヘルメットに打刻された07の数字。


 冷徹な眼差しでそびえ立っているのは、ワイルドキャットであった。


「クソババア――」


 たった一言、それだけをつぶやくと、ワイルドキャットはこの世のものとは思えない奇声を――。


「ぎいいやあああっ!」


 鳥でもない、獣でもない、聞いた者すべてに不安と恐怖を覚えさせるけたたましい金切り声を上げた。歯を剥いて喉元をさらけ出し、瞳の輝きを暴力に爆発させ。


 彼女は握りこんでいた改造メリケンサックの刃を振り下ろす。狐目の女の首をえぐり抜く。さらに金切り声をわめかせて、女の体に刃物を刺し込む。幾度も幾度も刺す。して、笑う。瞳を貪婪に輝かせる。体を切り裂く。


 蘇ったワイルドキャットは、最後には女を原型のない肉の破片とさせてしまった。





 階上からの銃弾がぴたりと止んだかと思えば、おぞましい金切り声が轟いた。


 腹部をナイフで刺されたものの、由紀恵の治癒で回復した菊田が、腰を上げてきながら目を丸める。


「なんだ、今の」


「く、クルちゃん?」


 由紀恵は声を震わせてつぶやきつつ、有島に視線の先を向ける。


「ひ、ヒロは。ヒロはどうしたの」


「わ、わかんない。多分、雪村くんを刺した人を追いかけて」


 しかし、混乱した状況を紐解こうとしていくのも束の間、火柱の立った塀の向こうから中庭へと、巨大な物体が飛んできた。


「お、おい――」


 現れた物体を前にして、菊田が言葉を失う。


「なんなの、あれ――」


 あまりの異形ぶりに由紀恵も恐れおののく。


 3人がこれまでに格闘してきた敵はすべてヒトだった。だが、目の前に現れたのは昨晩の手長の生物のような奇形だった。


 顔がある。しかし鼻が削げ落ちたかのようにない。目玉もある。しかし黒目がない。唇もない。口と思わしき裂け目から長い舌だけが飛び出ている。


 それに二足歩行でない。手なのか足なのか、赤い筋肉繊維が剝き出た4本の手足で全長3メートルほどの巨体を支えており、手足以外は黒い布で包まれていた。


 射撃がおさまったせいで現れてしまったのだろう、化け物の白目がアタッカー3人に向けられる。


 舌を出している裂け目がゆっくりと開いた。有島には何が起こるか検討もつかない。検討がつかないから一直線に駆け込んでいく。


 化け物が獣の唸り声を上げた。同時に圧が襲いかかってきた。有島は由紀恵や菊田もろとも吹き飛ばされる。塀に叩きつけられる。


(千鶴子ちゃんと同じ――)


 さらに叩きつけられた有島を目掛けて、化け物の腕が伸びこんできた。昨晩の手長のDと同じような仕組みで、襲いかかってきた腕は、五本の指の掌で有島の喉を掴み上げる。後頭部から塀に押し込まれる。有島は息をつけない。空いた両手を拳にして繊維剥き出しの腕を打撃するが、効き目がない。ぎりぎりと絞り上げられる。


「このクソ化けモン!」


 由紀恵がナイフで化け物の腕を刺した。赤黒い血が溢れ出た。しかし有島は一向に喉を絞め上げられる。さらに赤黒い血とともに傷口から黒く虫が湧き出てくる。大量に湧き出た虫は化け物の傷口を覆い埋め尽くしていき、瞬く間に筋肉繊維を蘇生させてしまう。


 有島の意識が遠のいていく。


「クソっ!」


 由紀恵がナイフを握り返して化け物に向き直り、跳躍の態勢に入る。菊田はすでに化け物へと駆け込んでいる。しかし、由紀恵と化け物のあいだをまた何らかの物体が飛び込んでき、行く手を阻んだ。


 3頭身ぐらいしかない小人だった。


 側頭部が陥没している中年顔の小人だった。


 由紀恵は構わず小人へと跳躍していくが、小人は口から熱泉を霧状に噴き出してきた。由紀恵は熱泉をまともに浴びて、顔を押さえ込みながら転がり倒れた。


 熱さとともに物凄い腐臭がまとわりつき、迷彩ジャケットのあちこちが溶けただれている。


 露出していた顔もしかり。ただ、由紀恵は自らの治癒能力で顔の火傷を治していく。


 有島は口端から泡を噴き始める。


 菊田は小人目掛けて駆け込む。が、急に襲い掛かってきた銃弾に肩口を貫かれて飛ばされる。


 肩口を押さえ込みながら顔を上げると、塀を鈍重にまたがりつつ、ジャンパーにくるまれた豚のような巨体が拳銃をこちらに構えてきていた。


 豚男は泣いていた。


「いっつも! いっつも! お前たち、みんな、殺しやがってえ!」


 有島は意識をなくし始める。


 由紀恵は顔を覆いつつも這いつくばる。


 菊田は希望を失った眼差しで巨体を見つめる。


(何をやってんだよ、あいつら。まさか殺られたのかよ、全員)


 と、菊田はスマートデバイスを持ち上げてくる。絶え絶えの息で呼びかける。


「近田――。救援してくれ――」


 衛星受信機は千鶴子の声圧で壊れてしまっているが、菊田は気づいていない。危機を目前として、低周波トランシーバーに切り替える思考にも至らない。


「近田――」


 菊田はすがる思いで階上の食堂へ視線を持ち上げた。


 すると。


 そこの破られた窓ガラスから、姿を覗かせてきたのは、返り血を浴びて真っ赤に染まったワイルドキャットであった。


 血みどろになった小ぶりの顔面に、瞳だけをぎらぎらと際立たせている。そうして、彼女は大口を開き、さきほども轟かせたおぞましい叫びを放った。


 化け物たちの視線もそちらに行った。


 ワイルドキャットは消えていた。


 と。筋肉繊維の化け物の肩に乗っていた。改造メリケンサックの刃物を傾きかけた太陽の日差しに反射させる。


 その頭を刈り取った。


 化け物の巨体が沈んでいくとともにワイルドキャットはさらに消える。


 菊田の目は追いつけない。小人の全身を引っ掻くようにして刃物を振り下ろしていた。血飛沫が上がると、左手の刃物を一突き――。小人の意識を抹消する。


 ワイルドキャットは塀にまたがっている豚男に獰猛な目つきを向ける。


 その小柄な体から、架空の幻獣が放つような叫声を発すると、また消えた。


 塀の上に立った。オレンジ色の日差しを背に浴びて、ボブヘアの髪先をささやかに揺らしながら、二重の猫目瞼を大きく広げ、小さな唇から白い歯を見せて笑う。


 豚男の首根へと刃物を刺し込む。


 しかし、血飛沫は湧かない。刃物は豚男の柔軟な肉に飲み込まれ、突き破らない。


「お前え、ふざけんなあ」


 豚男は這いつくばりながら唸りつつ、拳銃をワイルドキャットに向ける。


 いともたやすく蹴り飛ばした。拳銃が宙を舞っていく。


「ぼべどうだどうがどぅだでだああっ!」


 と、ワイルドキャットは正体不明の言語を放ちながら、蹴り払ったその足を男の首に叩き落とした。豚男を押さえこんだ。


 低めた左腕をすくいあげてく。刃物を男の目玉に貫き刺す。悲鳴を上げた男にさらにもう一発、さらにもう一発、最後の一発は突き刺したままに刃物をえぐり込み、男をたちまちほふった。


 瞬発力と動体視力のデュアルトランセンデンス。作戦部隊のエース。しかしながら、ワイルドキャットの留まるところを知らない圧倒的暴力性に、間近にしていた菊田は身震いさえ起こした。


 近田久留美こと来間山のワイルドキャットは、狩猟の本能が宿っていると疑わしきほど、小さいころから獣を狩ってきた。文明社会の都市部に生まれ育ちながら、出刃包丁を振り回して兎や鳥、犬や猫などを襲っていた。


 もちろんそれは兄の真似、あるいは兄よりも優越を得るためをきっかけとした行動であったが、残忍行為を働いているうちに自然と覚えたのかもしれない。


 獲物の動き、獲物の急所、獲物のなぶり方。


 豚男を殺した天才少女は、塀から降り立つ。


 めらめらと炎上する車両をかたわらにして、そこには奇形常形に限らないDトランセンデンスたちが多数構えていた。


 獲物を猫目の虹彩に補足したワイルドキャットは、たちまち飛び掛かっていく。間合いを一瞬にして詰め、刃物を振り回し、あるいは回し蹴りで吹き飛ばし、瞬発作用で飛び上がりながら前方宙返り、伸び上がりざまに爪の先を突き刺し、爪を引き抜くと同時に背後から襲ってきた者を蹴り飛ばし、自分でも覚えがない運動能力を発揮してDトランセンデンスを次々と殺傷していった。


 自らのこの動きに覚えがないと言えば覚えがないが、そもそもワイルドキャットは無意識なのであった。自覚がほとんどないまま、理性をすべて失くしたまま、敵を敵としてではなく、己に支配され殺されていく獲物として捉えているのだった。


 戦意喪失していたはずのワイルドキャットをここまで呼び起こしたのは、東原双葉と思わしき者との遭遇であった。


 ワイルドキャットは一言も言葉を発さず、縄張り争いに敗れた猫のようにしておとなしくなっていたものの、作戦部隊の連中の話だけは聞いていた。


 父親の近田少佐が、赤い爪の作戦部隊の隊長であったこと。


 そして、作戦から戻ってこなかったこと。


 彼女の記憶に父親のはっきりとした姿はない。おぼろげな父親像があるだけだ。優しくて、強くて、格好いい、彼女にとって都合の良い父親像があるだけだ。


 そんな父親を自分から奪ったのが、G地区であり、Dであり、おそらく東原双葉であろうと彼女は考えた。


 昨晩、父の死の真実を知ったときから、ワイルドキャットは仲間たちに戦意喪失したかに見せていたものの、東原双葉を密かに狙っていた。


 噴き出した親の仇の血が、強烈な自尊心を呼び覚まし、それとともに小柄な体のうちを昂ぶった血潮は、あの獰猛な来間山のワイルドキャットを蘇らせた。


 作戦部隊を急襲したDトランセンデンスは彼女1人の手によってことごとく潰えていった。もしくは彼女のすさまじい凶暴性に恐れを成して、逃げ出していった。


 当然、ワイルドキャットは貪婪な瞳で化け物たちを追い立てていく。


<久留美っ! やめろっ!>


 千鶴子の声がイヤホンから届いてきて、ワイルドキャットは足を緩めた。


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