04:脅威
今日、この今夜まで、彼女の中の彼女、つまり、近田久留美の中に創られた来留間山のワイルドキャットは、無敵であった。
誰も逆らえることがなく、己の思うがままに自由を闊歩する存在が、来留間山のワイルドキャットであった。
しかし、彼女の偶像は、人智を超越した獣によって粉砕された。
彼女の自由とは、守られた自由であったろう。
近田久留美という少女を理解する者たちによって囲われた自由であったろう。
多少の手加減と、多少の愛情でもって、ほどよく包み込まれた自由であったろう。
G地区に、そんなものはない。
いや、G地区に限らず、彼女と無縁の場所すべてに、そんなものはない。そんな非情もまたあるのが、この世の中だろう。
現実を突きつけられたとき、人はよりいっそう弱くなる。
来留間山のワイルドキャットの偶像が滅んだ今、彼女はただの近田久留美、むしろただの近田久留美にもなれていない、意志のない少女と化してしまっている。
<隊員11、13、14、17は現在地より西北西1200m地点にいる。各員ともわずかに動いてもいる>
森を抜け出ると、天進橋作戦本部から無線がイヤホンに入ってきた。ワイルドキャットの肩を抱き留めながら、由紀恵は彼女にささやく。
「クルちゃん。チヅちゃんもヒロもみんな大丈夫だって」
ワイルドキャットはうなずきもせず、赤ん坊のようにして由紀恵にしがみつくばかりである。
その隣では峠大尉が左手首のスマートデバイスに声をかける。
「隊員17、近田が負傷し、精神に異常をきたしています。作戦の変更を求めます」
イヤホンから応答はない。
片岡が呼吸で両肩を大きく揺らしながら、弾倉を取り替え、槓桿を引いた。真奈は小銃を構え、暗視スコープで森の中を凝視している。
<作戦変更の件は熟慮する。今はただちに合流を目的とせよ>
峠大尉は軽い吐息をついたあと、「了解」とスマートデバイスにつぶやいた。
「田中。状況は?」
と、笹原少尉が森の深遠を睨み込みながら、スマートデバイスに呼びかける。
<プライドが消えた。今、合流地点に向かっている。負傷者はない>
街灯一つない荒野は静かでいる。闇に埋没した森は音を失っている。感覚のない夜の静寂が一帯に張り詰め、皆の目も緊張と殺気に縛られている。
何かしらの悲愴感も、どこかに漂っている。
黙って泣いて、黙って死ぬしかなさそうな、とてつもない心細さが、由紀恵の胸に刺さってくるようでもある。
(帰りたい)
由紀恵はいっそう久留美を抱きしめる。
(ヒロくん)
洋瑛は由紀恵の深い傷だった。ずっと、きっと、癒えることない傷だった。それとともに遠い存在だった。もう、こちらに振り向いてくれることのない存在だった。
でも、気まぐれの彼は、たまに振り向いてくる。
「熱いぜ。やけどすんなよ」
微笑みを浮かべながらホワイトシチューを差し出してきた。
ちょっとした幸せが由紀恵にはあった。
もしも、世界がすべて等しくひとつなら、どうして、あの日があって、この日があるのか。
洋瑛が振り向いてきたちょっとした幸せと、洋瑛の右腕から血しぶきが上がった残酷と、それらがどうして等しい世界の出来事なのか。
暗がりから仲間の隊員たちが姿を現した。田中中尉、ラットローグ曹長、有島、菊田、雪村、杏奈、二本柳。彼らの眉間には皺が寄り、あるいは目つきには絶望に似たものをたずさえている。
「近田が――」
と、田中中尉が詳細を峠大尉に切り出した。プライドコータスとの戦闘中に発狂し、どこかに駆け出していってしまった。それを千鶴子が追い、彼の手当てを任されていた藤中と圭吾も追いかけていってしまった。
「ふざけんなよっ!」
我慢ならずに由紀恵はわめいた。涙こそ瞼の内にとどめていたものの、唇は憤懣やるせなさで震えに震えた。
「教官っ! なんで見失うんだよっ!」
「やめろポニー」
峠大尉の眼光が由紀恵を突き刺すも、彼女は構うことなく、同期生たちに視線の先をぶつける。しかし、沈鬱な表情でいる仲間たちの顔を見て、吐き出したいものも吐き出せなくなった。
真奈が言う。
「助けに行かないと、キャプテン」
「わかっている」
と、峠大尉は吐き捨てるように返した。
そのとき――。
物音に気づいて二本柳がはっとして森へ振り向いていたが、それを察知し、報告するまでに間に合っていない。
皆が、夜の虚静がただれていくのを聞いた。たとえば、それは泥のかたまりが崩れていくようなものだった。彼らはそれとともにかすかな呻きを耳にもした。何かがえぐられ、また、何かがあぶくのようにしてこぼれていた。
隊員たちは呼び起こされた事実に一斉にして目を向ける。
真奈が串刺しとなっていた。まさしく棒立ちとなっていた。彼女の胸を貫くものは、森の茂みの暗黒から真っ直ぐに伸びてきており、真奈の大きな瞳は点となって固まっている。力なく開いた口からは液体がおびただしくこぼれてくる。
「え――」
起こった出来事が理解できない。
「伏せろっ!」
峠大尉の呼びかけに応じて、条件反射から隊員たちはすぐさま這いつくばる。由紀恵もワイルドキャットに覆いかぶさりながら地べたに伏せる。ラットローグが、片岡が、菊田が、小銃の安全装置のレバーを切り替える。
有島が、二本柳が、杏奈が、磔台に立っているかのようにして微動だにしない真奈の様子に戦慄するも、仲間への良心と、生命への恐怖がかわるがわる反転し続けては、理性の制御はきかなくなっており、本能からして小銃を構える他ない。
峠大尉はスマートデバイスを操作し、HMDを稼働させている。
闇と闇の狭間に見え隠れする物体を定めると、レンズモニターにステータスが表示されていく。
judgement in……
……
……
Destruction:B(打撃力B)
Legerity:S(俊敏力S)
Instantaneous:B(瞬発力B)
Grip:A(握力A)
Arm:B(腕力B)
Leg:A(脚力A)
Defensive:C(防御力C)
Endurance:B(持久力B)
<峠っ! Dトランセンデンスだっ!>
天進橋からの声が耳の穴を撃ち抜く。衛星通信で繋がっている作戦本部にもレンズモニターと同じものが流れている。
峠大尉は言葉を失いそうであった。一般的な人間はステータスが稀にCであり、平均的にはDである。トランセンデンスであるとAかSである。
HMDの測定が間違っていないとなると、対象はデュアルトランセンデンスところではない。
(殺られる――)
峠大尉が絶望した矢先、狙撃銃の槓桿を引いていた雪村が、暗視スコープ越しの目から、引き金を引く。消音器に掻き消された銃声が、銃身と銃架に衝撃を加えつつ、銃弾を闇へと放つ。
暗視スコープに写る緑色の物体は吹き飛んだ。と、ともに、真奈の体を貫いていた腕のようなものが収縮していく。
だが、そのままにして、手長の化け物は暗視スコープの範囲からも消えてしまった。
真奈の体が前のめりにして倒れていく。田中中尉と笹原少尉が彼女に駆け寄っていく。しかし、森の中から銃声が立て続けに起こった。隊員たち目掛けて銃弾が飛び込んでき、ヘルメットが弾丸を跳ね返す。田中中尉の腹部から噴血があがる。隊列からも悲鳴があがる。杏奈が肩口を撃ち抜かれた。
地面に伏せた笹原少尉が田中中尉に這いつくばっていく。
菊田が叫ぶ。
「由紀恵ちゃんっ! カピちゃんがっ!」
峠大尉が叫ぶ。
「クソどもに応戦しろっ! ぶっ放せっ!」
<峠隊長っ! どうなっているっ! 応答しろっ!>
作戦本部の刈谷少佐から引きも切らずに無線が入ってくるが、峠大尉に答えている暇はない。ハーネスから手榴弾を外し取ってき、ピンマイクを引き寄せて、隊員たちに呼びかける。
「クソ野郎は生きてやがるぞっ! 俺が2発、手榴弾をぶっ放す! 爆破したと同時に有島、菊田、ワイルドキャットっ! クソッタレの奇形野郎に突っ込め! スコープでクソッタレの位置を確認しておけっ!」
「了解っ!」
「ポニー! 笹原! 負傷者救護っ!」
「了解っ!」
「雪村あっ! 貴様は敵の射撃手を狙えっ!」
「了解っ!」
「他っ、アタッカーを援護射撃しろっ!
「了解っ!」
「キャプテンっ! クソッタレの奇形野郎を補足っ!」
菊田の叫声を受けて、峠大尉は安全装置のピンを抜く。
「行くぞっ! 3っ、2っ、1っ――」
銃声が響き渡る中で峠大尉は上体を起こし、闇の森へ擲弾を放り投げた。
つかの間の沈黙。
爆発し、圧が吹いた。地が響き、黒煙が噴いた。
「もう1発だっ!」
峠大尉がさらに投げ込み、爆炎が一瞬、闇の森を照らし上げる。
隊員たちは一斉に立ち上がる。
有島が飛び出ていったのに次いで、菊田も森の中へと駆け込んでいく。片岡、二本柳、ラットローグが前進しつつ、手当たり次第に掃射していく。雪村の狙撃銃の弾丸が敵方の射撃手の頭部を撃ち抜く。
有島の飛越が噴煙をかき分け、朽ち葉を舞い上げていく。
して、有島は遭遇した。
真奈をどうにかしてしまったクソッタレ奇形野郎――。
爆風に吹き飛ばされた二足歩行のそれは、ゆらりと起き上がってきている最中であった。体高はおよそ2mなかばで、肩幅が異様に広く、下腹部につれて逆三角形の姿態であり、そして、両腕がすさまじく長い。膝下まで伸びている。
(これがDトランセンデンス――)
飛び込んでいく有島の瞳は異形種に釘付けとなってもいた。今まさに有島が蹴りを叩き込まんとしている頭部の形は、人なのである。有島と同じようにして、目、鼻、唇、髪、詳細は暗がりの中でいまいちながらも、形として何ら変わりない。
ただ、肉体だけがおかしい。
もっとも、有島の澄み上がった目尻は切れ長に燃える。
(クソッタレ奇形野郎)
である。
荒砂山を襲撃し、22期生の日常を崩壊させたばかりか、森姫山の先輩たちの命を奪い尽くし、国家に反逆を企てるG地区のテロリスト集団。
有島は飛び込みざまに長身をひねり回し、細長い脚を伸ばしていけば、鉄板入りのブーツを叩きこむ。
が、標的の体は急に軟らかくなり、腰から上が後ろにぐにゃりと仰け反ってしまった。
有島の回し蹴りが虚空を切っていく。
さらに、Dトランセンデンスは急激に細くなった。風船がしぼむようにして一挙に縮まった。そして、飛んでいってしまった。
着地した有島は驚愕のうちに瞠目しながらも、標的を探す。
「有島あっ! 伏せろおっ!」
菊田の声が飛び込んできて、有島は地表に掴みかかっていくようにして這いつくばる。途端、菊田の放った銃弾が有島の頭上を間断なく裂いていく。
「クソッタレえぇっ!」
銃弾はDトランセンデンスの異形の体に容赦なく浴びせられた。菊田は引き金を引き続けた。闇のうちに血飛沫が噴き上がっても、菊田は撃ち続けた。
しかし――。
そこに撃たれるまま、噴血のあるままに留め置かれていたDトランセンデンスは、銃弾が与える衝撃に逆行する意志でもって動き始めた。ぶら下がっていた腕が持ち上がり、指先が菊田を示した。たちまち、大蛇が飛び込んでくるようにして伸びた。
菊田の体躯目掛け、彼の視界の真ん中の中心を裂いてくるのは、長すぎる鋭利な爪。
(死ぬ――っ)
絶句するほどの恐怖。
菊田は腰をひねる。精一杯に仰け反る。爪が、腕が、菊田の胸元をかすめていく。
有島が跳ね起きた。
「やああっつ!」
間合いを一瞬にして詰め、左拳をみぞおちに叩き込む。衝撃音が響き渡る。Dトランセンデンスの巨体がくの字に曲がる。とともに、右拳をその頬に食らわせた。
Dトランセンデンスが吹っ飛ぶ。木の幹に激突する。
「有島っ! 深追いするなっ!」
菊田が再び銃口を定めた。そのとき、有島はDトランセンデンスが銃弾を浴びても、なぜに息を吹いているか、そのからくりを見た。銃弾を浴びた傷口から芋虫めいたものが大量に湧いて出てきており、素早くうごめいて、蘇生させているのだった。
(なに……、あれ――)
「菊田くんっ! ダメっ!」
伸縮する腕の爪刃が有島の頭部に伸びてくる。有島はなんとか首をかたむけ、頬肉を切り裂かれつつも、かわす。
「ダメってどういうことだよっ!」
菊田は銃身を唸らせながら吼える。有島に説明していられる時間はない。しかしながら、何をしたところで倒せそうもない。
「ロケットランチャーでっ!」
木っ端微塵にするしかない――。
だが、菊田の小銃が咆哮を止める。弾切れだった。
「有島っ! 木に隠れろっ!」
叫びつつ、菊田も転がりこみながら、木の影に身をひそめた。リリースボタンを押して、弾倉を外す。新たな弾倉を取り出そうとする。しかし、革手袋の手が震えて掴み取れない。
「ちっくしょおっ! クソッタレえっ!」
<キャプテンっ! 有島ですっ!>
木の陰に避難した有島が、ゆっくりと起き上がってくるDトランセンデンスを確かめつつ、スマートデバイスの送信を解除していた。
<ロケットランチャーをっ! 銃でも打撃でも倒せませんっ!>
と。Dトランセンデンスの頭部からおびただしい血が噴いた。森の向こうから雪村が狙撃銃で放った大口径の弾丸だった。
「やったか――」
菊田が声を漏らしたとおり、Dトランセンデンスの巨体は血が噴き出るままに棒立ちした。ところが、菊田の祈るような言葉も虚しく、噴血した部分から大量の虫がまた湧いて出てきて、うねうねとうごめいては蘇生させ、Dトランセンデンスの足が、一歩、踏み出される。
<駄目ですっ! キャプテンっ! 奇形は治癒していますっ! 変な虫が湧いて出てきてっ!>
<バカ野郎っ! ロケットランチャーを担いでいるのは軽部のクソッタレだっ! 貴様らはとにかくそこから退避しろっ!>
「有島っ! 俺が撃つからお前が先に行けっ!」
だが、そう言う菊田の前にはDトランセンデンスが飛んで移動してきていた。
槓桿を引いていた菊田はDトランセンデンスと目が合った。
そこにあるのは、放水路の外側も内側もなく、異形でも同形でもない、生気の光が灯った目。
無表情ながら、G地区の怪物は菊田に眼差しを注いでくる。これから絶命する少年への哀れみを投げかけてくる。
(死んだ――)
最初で最後、菊田はDトランセンデンスという彼と視線の交錯だけで生死のやり取りを交わした。
そして、次の瞬間――。
Dトランセンデンスは肉塊になっていた。
ヘルメットに刻印されている数字は藤中の14。
しかし、息を荒らげて突っ立っているのは、隻腕の洋瑛であった。
「お、おい……」
現実を喪失してしまったかのように、菊田は言葉が出ない。
「悪い……」
と、洋瑛はつぶやいた。




