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俺の親知らずを抜いていけ  作者: ぱじゃまくんくん夫
リンフォルツァンドの章
43/58

02:厭悪

 洋瑛の激烈な叫びは夜の空高くを貫いた。


 森の奥深くに突いていった。


 絶叫する彼には何も見えない。頭の中には何もない。激痛と恐怖が脳髄の頂点に達している。それを表現する手段が絶叫だったのだ。


 左手は己の温かい血液にあふれる。あふれこぼれて滝のように流れる。温かさととめどなさが、絶望をさらに爆発させていく。


「ヒロっ!」


 と、洋瑛に飛びついてきたのは由紀恵だった。彼の肩をしっかと抱きしめ、彼の震えを由紀恵は包み込む。


「大丈夫だから。ね? ヒロ? 大丈夫だからね?」


 由紀恵は洋瑛の血みどろの右腕を掌で包み込んでいく。彼女の温度が注がれていく。痛みが右腕から溶けていき、出血もおさまっていく。


 洋瑛の叫びも、引き波のように細くなっていく。


 しかし、洋瑛は通常が異常である絶望的恐怖に支配され、母親に抱かれた赤子のようにして放心してしまう。瞼を広げたまま、唾液を垂らしたまま、彼の瞳の生気は現実から断線している。


 洋瑛を襲い、隊列を貫いたプライドコータスは姿を現さずに森の奥へと消していったが。


 二本柳が悲痛に叫んだ。


「まだ来ますっ!」


 田中中尉が声を張り上げた。


「撃てっ! 撃ちまくれっ!」


 田中中尉自身も銃身を構え上げる。引き金を引く。引き続ける。闇の幕へ銃弾を掃射していく。


 田中中尉に続き、ラットローグも銃弾を撃ちつけながら叫ぶ。


「テメーらっ! 戦えっ!」


 無論、皆、銃口を上げていた見えない敵に向かって、雨あられのごとく弾丸を放った。


 と。プライドコータスらしき白銀の閃光が隊員たちの頭上を飛び越えていく。


<リカバリー、負傷者を救護しろ>


 倒れ伏したままの峠大尉が、各隊員たちのイヤホンに消えかかるような声で呼びかける。


 笹原少尉と藤中がすぐさま小銃の安全装置をロックする。吹っ飛ばされたままに動かないでいるワイルドキャットや、片岡のもとに駆け寄っていく。


<とにかく、弾を切らすな。掃射しているかぎり、プライドは近づけん>


 アタッカー、サポーター、関わらず、隊員たちの大半が小銃の振動を体に受け止める。空薬莢を延々と弾き出す。奥歯を噛み締めながら引き金を引いく。弾切れになれば、弾倉を捨て、新たな弾倉を装填する。槓桿を引いて撃鉄を起こす。


 2体のプライドコータスの影が頭上を飛んでいく。峠大尉の言うように一斉掃射が功を奏して白銀の化け物は近づいてこない。暗視スコープには緑の発光体が飛び交っており、木の枝から木の枝へと飛び移っていっている。弾切れのときを狙っているのか、弄んでいるのか。


<田中、2手に分かれる。ここでは分が悪い。田中、雪村、ラットローグ、カピコ、バッドガール、有島、菊田。お前らがプライドを引き付けろ。その間に残りの連中は俺とともに来た道を戻る。森を出て、俺たちが待ち伏せる>


「隊長っ! 近田はっ!」


 射撃しながらの雪村が声を発したとき、洋瑛はいまだに由紀恵に抱かれていた。


「穂積っ! 近田を背負っていけっ!」


 と、田中中尉が声を発すれば、


「近田は藤中に任せろっ! 軽部が護衛だっ!」


 と、峠大尉が笹原少尉の治癒を受けて起き上がった。


「ポニーっ! そいつの介護は藤中と代われっ! 藤中と軽部は近田を連れて1班のあとを追って来いっ!」


 峠大尉は発煙弾を手にしていた。ピンを外し、森の奥へと放り投げる。


 爆発音とともに白煙が噴きあがる。さらに峠大尉は2発目を手にした。雪村は装填しながら、発煙弾を放り投げる峠大尉に眉を押し上げて叫ぶ。


「隊長っ! 近田と藤中じゃプライドに襲われたらどうしようもありませんっ!」


「だから軽部を付けるんだろうがっ! アタッカーを外せるのかっ! ポニーっ! 早くしろっ!」


 しかし、由紀恵はためらった。


 洋瑛は死体のようにうなだれている。


 菊田や真奈が唇を噛みしめながら洋瑛を見つめる。ワイルドキャットでさえ猫目に涙を溜めている。


「何をやってるんだっ! これは生き残るためだぞっ!」


「早くしなさい! みんなを信じなさい!」


 峠大尉と笹原少尉の声に、真奈、片岡は思いを振り切って走っていく。


「ヒロ、戻ってくるからね。だから、大丈夫。ね? ヒロ?」


 洋瑛は由紀恵の問いかけに何も応じない。


 由紀恵は唇を噛みつつも、装填していた千鶴子に振り返り、互いに首を縦にしてうなずき合う。由紀恵は峠大尉たちのあとを追う。


 田中中尉、ラットローグ、有島、杏奈、雪村、菊田、二本柳は、依然として煙幕に張り巡らされた闇に向かって銃弾を撃ちかける。


 峠大尉と作戦本部の衛星交信もイヤホンから伝わってくる。


<どうしたっ! 何が起きたっ!>


<プライドコータスに襲撃された! 森の外におびき寄せる!>


 圭吾が峠大尉の指示通り、小銃を構えながら藤中と洋瑛の脇に付ける。しかし、洋瑛が瞳のふちを虚無でくくっており、藤中の支えがあっても歩くことすらしない。


「ヒロくん!」


「近田っ! 歩くべさっ!」


 だが、洋瑛の耳には何も入ってこない。模型のように表情一つ変えずに動かない。ただ、その眼球の奥はめまぐるしく揺れている。喉の奥は打ち震えている。


 このとき、洋瑛の現在進行形は断絶していた。いや、もしかしたらこれも現在進行形であるのかもしれない。与えられた結末に向かっての因果律なのかもしれない。


 洋瑛は天進橋駐屯地に連れてこられなければ、ここにはいなかった。トランセンデンスでなければ兵学校にはいなかった。トランセンデンスそのものがこの世に存在しなければ、洋瑛は右腕を失うという痛烈を味わうことがなかった。


 しかし、洋瑛は因果律を支配する者ではない。現在だけを生きる人間というものであり、明日を知ることはできない。そして昨日までなら認識している。昨日まで得ていた喜びを、明日からも得られるのかどうか、不自由な体になってしまった今、明日からをどう生きていけばいいのか。


 不安と恐怖しかない。そして、今の洋瑛にはそこに希望を見出すことができない。真っ暗な世界しか広がっていない。


 ……。


 よって、錯乱した。


 唐突に吠え上げた。


 喉のそれを剥き出しにしながら、眼球に細かい血脈を走らせて、野獣のごとく吠え上げた。


 あまりにも変貌してしまった形相に、圭吾と藤中は呆気に取られてしまう。


 洋瑛は腰にぶら下げていた戦闘用刀子ファイティングナイフを抜き取ってくる。


 と、おもむろに走り出す。


 圭吾と藤中を振り切り、闇の中へと駆け込んでいってしまう。


「ヒロくんっ!」


「近田あっ!」


 呼び声むなしく、洋瑛は木々が根を巡らせる森の中を疾走する。


 どこに向かっているのか、そんなものは理解していない。


 暗闇という見えない敵を、暗闇という見えない宿命を、洋瑛は死にものぐるいで追いかけり。この宿業を与えた者が暗闇の果てに現れるであろうと妄信している。現れたそのときには左手にしたこの刀子でその者に切りかかろうとしている。


 実際、振り回してもいた。何もそこにはないのに、刀子で切りつけていた。発狂しながら駆け続けていた。


 狂乱の彼はまったく別の方角に突進してしまっている。峠大尉たちが退避していった方角でもなければ、進行すべき方角でもない森の奥深くまで駆け込んでいってしまっている。


 やがて、太い木の根に足を引っ掛けて転ぶ。落ち葉の絨毯の上に転げ倒れる。立ち上がろうとする。


 しかし、体を持ち上げるための利き手がなかった――。


 洋瑛は嗚咽した。


 もはや、泣くしかなかった。


 洋瑛が吐き出す若々しい悲痛は闇夜にさまよう。この真冬の冷たさは、たった1人、打ちひしがれている洋瑛を木々の梢から覗きこんでくるようにして、沈黙している。


 時間の進行に取り残されていく洋瑛を哀れむようにして。


「ヒロっ!」


 落ち葉を踏みしめて駆け寄ってき、沈黙を破ったのは千鶴子だった。彼女は突っ伏して泣きじゃくっている洋瑛のもとに両膝をつき、彼の背中を懸命に揺する。


「何をやってんだよっ! ヒロっ!」


<クズセン戻れっ!>


 千鶴子はスマートデバイスを操作し、無線の送信ロックを解除する。


「ヒロが見つかったんだ! ヒロっ、行くぞっ、起きろっ」


「うるせえ……。もうほっといてくれ……」


「放っておくわけねえだろっ!」


 千鶴子は洋瑛を無理やり地面から剥がし取る。洋瑛はよろよろと起き上がる。肩を貸してきた千鶴子に左脇を預けるまま泣きじゃくる。瞼からも鼻からも口からも液体を垂れ流し、喉奥を震わせる。


「チヅ……。チヅ……。俺はもう駄目だよ……。駄目なんだよ……」


<無理をするな! そこで待機しろ!>


「のろのろしていたらプライドコータスにやられちまうだろうが」


 と、千鶴子は吐息を荒げながら戦闘不能の洋瑛を担いでいく。が、すぐに足を止めた。


 視線の先――。


 しなった木の枝にプライドコータスが立ち止まっている。


 イヌやオオカミというよりも、巨大すぎる白い狐――、まるで神からの使者のような美しき悠然たる姿が闇の中に浮かび上がっている。


 プライドコータスは洋瑛と千鶴子をじっと見つめてきていた。すぐに襲いかかってこないのは、余裕からか、その気高さからか、むしろ、別の世界からやって来た人間たちに哀れむような眼差しを注いできている。


 洋瑛も視線の先を上げていた。


 途端、泣き止んだ。一挙に怒りが起こった。


「この野郎おっ!」


 千鶴子を突き飛ばした洋瑛は、プライドコータスの立ち止まっている木まで駆けていくと、右肩を木の幹にぶちかました。


「ぶっ殺してやるっ! ぶっ殺してやるっ!」


 理性を凌駕してしまっている洋瑛を侮蔑するかのように、プライドコータスは身動き一つ取らずに洋瑛を見下ろしてきていて、千鶴子が背中から小銃を引き出してくると、颯爽と消えてしまう。


「ぶっ殺してやるっ!」


 と、洋瑛は白い影を一瞬だけ捉えていた。影が伸びていったほうへおもむろに走り出してしまった。


「ヒロっ! やめろっ!」


「クズセンっ!」


「ヒロくんっ!」


 洋瑛の騒ぎ声を頼りにして、藤中と圭吾が駆け寄ってきた。洋瑛を追いかけるよう千鶴子が叫ぶ。3人は、狂ってしまった洋瑛を追いかける。


<近――っ! ……たっ! 応――っ!>


<……うした――だ! 何を――……っ!>


 低周波帯のトランシーバーが届かぬ距離になってしまい、また、杏奈が背負っていた衛星受信機からも離れてしまったため、無線の騒ぎ声も途切れ途切れになった。


 もっとも、洋瑛の耳に入ってくるのはすべてが雑音である。


 木の枝から木の枝へと飛び越えていくプライドコータスを追いかける。夜目のせいで鬱蒼と茂る木々の並びに苦労しない。


 しかしながら、プライドコータスが洋瑛を振り切れないはずもなく、彼をおびき寄せているのは間違いなかった。


 圭吾や藤中は、洋瑛に追いつくどころか見失わないでいるのが精一杯であった。藤中や千鶴子などは、洋瑛に戻ってくるよう呼びかけながらも、なおさら息を切っていた。


「もういいっ。圭吾っ、ヒロを撃てっ!」


「で、でもっ!」


「藤中がいるから大丈夫だろっ! だったら、私がやってやるよっ!」


 千鶴子は走りながら小銃を構えた。


 しかし、森が開けた。途端、断崖が待っていた。洋瑛は勢い余って転げ落ちていく。


 転げていった先――。


 広々とした砂利の敷地であった。サーチライトが四方から照射された。


 呻きつつも、洋瑛は急なまばゆさに瞼をしかめる。闇夜に浮かんだものを確かめる。


 右手には牛舎のようなものが立ち並んでおり、左手はフェンスで大きく囲われている。


 その中からこちらに向かって犬のように吠え立ててくる獣の姿があり、それはよくよく目を凝らしてみるとブラックスクロファ10数匹であった。


 正面の奥にはプレハブ小屋が一棟だけ。


 プライドコータスはそのプレハブ小屋の屋根に飛び乗っていた。すると、1体だけではない。4体いる。屋根の上で寝そべっていたり、寄り添っていたり、洋瑛を睨み下ろしてきたりしている。


「ち、近田っ、駄目だっ」


 牛舎の陰から藤中が小声で呼びかけてくる。


「ヒロっ!」


 千鶴子だけが陰から飛び出てきた。転げ倒れたままでいる洋瑛の襟首を掴んできた。


「逃げるぞっ!」


「チヅっ! 銃を貸せっ! ウィアードを操っている野郎がここにいるんだっ!」


 と。プレハブ小屋のドアが開き、人影が現れる。


「チヅっ! 撃てえっ!」


「できるわけねえだろっ。プライドがあいつの後ろにいんだぞっ。いいから逃げんだよっ、ヒロっ」


「逃げらんねえよ!」


 と、人影が声を発してきた。


 ジャンパーのポケットに両手を突っ込ませながら、角ばった砂利を、じゃり、じゃり、と、踏みしめてくる。


「逃げようとしたってこいつらに殺されて終わりだ」


 男はサーチライトが照射する半径まで入ってくる。


 薄汚れの白いキャップを被り、厚手の黒いジャンパーにジーンズという姿で、どこにでもいそうな中年である。


 千鶴子は小銃を構える。しかし、屋根の上のプライドコータスがすっくと立ち上がり、千鶴子は引き金を引けない。


「SGよお――」


 と、中年の男はにたにたと笑う。前歯が1本無い。


「おめえが撃つのと、こいつらがおめえに飛びかかるの、どっちが速いだろうなあ?」


 そうして、男はライターの火を灯した。煙草をくわえていた。男の口から煙が悠々と吐き出されれば、その白いすじはG地区に住む亡霊のようなゆらめきでもって、真っ白なサーチライトの光線の中に漂う。


「ウィアードを操ってたのはお前か? あ?」


 と、洋瑛は凶暴に目玉を剥き出した。今の洋瑛には目の前の男を殺害するという概念しかない。プライドコータスの群れもブラックスクロファの集団も見えていない。


 が、男は甲高い声で笑い上げた。


「さすが近田洋次郎のガキだな! でも、おめえは右手がなけりゃ、高速運動できねえんだろ! 何を根拠にしてそんな強気でいられるんだよ!」


 眉をしかめた洋瑛に向けて、男が煙草を弾き飛ばしてくる。


 煙草は洋瑛の胸に当たって落ちていく。砂利の上に落ちたそれは灯火のようにして赤く光っては、また消えかかる。それでいてまた光る。ひとすじの細長い煙をくゆらせ、また消えかかる。


 洋瑛は怒りの中にあって当惑していた。


「どうして――、こんなクソみてえなところでのさばっているお前が俺の親父を知ってやがる」


 怒りというよりも――。


 思いがけずに父親の名前が飛び出てきたことによって、G地区という暗黒のもやの中に、ある種の空洞を見つけたような思いでいた。


 なにしろ、G地区内で初めて遭遇した人物である。そして、洋瑛には幼少期からの疑念が付きまとっている。


 自分たちは何者なのか。SGとはなんなのか。


 ウィアード使いと思わしき男の口から滑り出た父の名は、あらゆる疑念を解決させる端緒なのだと洋瑛は直感していたのだった。


 痩せぎすの男は口許に笑みを浮かべながら、巻き付くような視線で洋瑛を見据えてくる。


「おめえの名前は近田洋瑛。近田洋次郎のガキだ。そうだろう?」


「だから、なんで知ってやがる」


「おめえを知っているのは、おめえのところに入っていたスパイからの情報だ。で、おめえの親父を知っているのはな、おめえの親父は今のおめえと同じように、10年ぐらい前だ、双葉を殺そうとして玄福に入ってきたんだ」


 洋瑛は理解に苦しんで呆気に取られる。


「光栄に思えよ。おめえは玄福じゃあっち側の世界よりも有名人だ」


 そう言って、男はジャンパーのポケットから何かを取り出してきた。洋瑛の足下に放り投げてくる。


 人骨だった。


「ようこそ玄福へ」


 まったく似つかわしくない男の言葉に洋瑛は殺気立つ。


「なんだこの野郎」


「プレゼントだ。まあ安心しろ。そいつはおめえの親父の骨じゃねえから。おめえの親父は他のSGどもと一緒に双葉に切り刻まれて跡形もなく燃やされたからな。その骨はおめえの骨だ」


「あ?」


「おめえの情報は俺の耳に入ってきている。おめえが俺の育ててきた連中を兵学校でめちゃくちゃにやりやがったことも、おめえらがついさっき放水路を越えてきたこともな。玄福の治安団員の手をわずらわせるには死人が出ちまうかもしれねえってこったから、俺のところに指示が来たってわけさ」


 内訳を話しながらも、男はブラックスクロファの檻のほうに目を向ける。


「んでもって、おめえが二度と高速運動できねえよう、おめえの右腕はここで吠えている犬どもの餌にしてやったってことだ。うまそうに食うもんだから、あっという間にこの通りだ」


 怒りに打ち震える洋瑛を前にして、男はげらげらと笑い上げた。


「ひとついいことを教えてやる! おめえをここに連れてきたのはな! 俺の女房や子供は12年前! おめえの親父が率いてきた連中に頭を撃ち抜かれて殺されたからだ!」



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