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俺の親知らずを抜いていけ  作者: ぱじゃまくんくん夫
メッザ・ボーチェの章
40/58

04:SG、D

 昨晩未明のうちに雪は止んだが、昼中に空を過ぎていった太陽は雲にまぎれまぎれで、車通りもさして少ない田舎とあれば、天進橋の主塔はいまだ銀世界の柱に過ぎなくなっている。


 ただ、昨日から空を覆っていた分厚い雲は、衛星カメラ撮影を遮ってくれ、潜伏行動を好都合にさせた。リニア新幹線のダイヤの乱れに乗じて釈迦堂に戻ってきた彼は、偽造免許証を使って漫画喫茶で一泊したのち、レンタカーを借り受け、天進橋駐屯地近辺にやって来る。


(夜だな)


 と、日中、車の中で待機していた。


 吉沢琥太郎を名乗っていた少年の本来の名は、相馬悠そうまゆう


 天進橋を渡って旧玄福市に戻ろうとしている(ちなみに彼らは生まれ故郷をG地区とは呼ばない)。


 従姉弟でもあり、旧玄福市市長でもある東原双葉からは、放水路を越えて戻ってこいとの通達はないが、そのまま外側・・に潜んでいるようにとも指示されていない。


 ただ、軍需産業のとある一企業で諜報活動をしている同胞には、玄福に戻ったほうが良いと身の危険を心配されたし、悠も悠で国防軍に素性が割れてしまった以上、もはや、外側にいる必要性もない。


 それに――、


(近田くんを止めてやらないと)


 軍事機器メーカーの役員となっている玄福の諜報員がいる。統合参謀本部の幕僚に賄賂を流しつつ、軍内部の情報を引き出している彼は、SGが秘密裏にG地区解放作戦に乗り出していることを悠に教えた。


 12年前のように高速運動トランセンデンスを使って放水路を越えてくる、と。


(近田くんのことか)


 高速運動トランセンデンスである悠であるが、洋瑛と種類が若干違うのは、知覚があらゆる時間単位に対応できるトランセンデンスということだ。


 五感が常日頃から超速度の時間の中にいる。一方で一般の人々と変わらない時間の中にもいる。


 つまり、洋瑛が荒砂山で高速運動化したとき、悠は洋瑛の動きを傍目にしていられたのである。


 ただ、知覚だけがそこにあって、身体活動は高速時間にない。洋瑛がブラックスクロファの足をへし折っていたとき、彼に語りかけるには、洋瑛が指を鳴らしている要領で、精神を切り替える。そこで初めて身体も高速運動化される。


 洋瑛の上位互換と言っていい。


(ただ、近田くんは指を鳴らしているのも変だし、常時高速だったし)


 普通、高速運動は一般時間単位の1分感覚で終わってしまう。悠の従姉弟の東原双葉もそうであるし、悠が話だけは聞いたことのある近田洋次郎少佐もそうであった。


(まあ、それでも双葉さんにはかなわないんだ。むざむざと殺しにいかせてたまるか)


 夜闇に包まれるようになると、悠はシフトレバーを動かし、天進橋駐屯地を目指して車を走らせた。


(できれば帰りたくない)


 あらゆるインフラから日用品、娯楽品までが支給されている玄福は、住んでいてなんの不自由もない世界である。国防軍に殺気立っているのは組織の首脳部だけで、住人たちはその日をのんびりと暮らしている。


 ただ、刺激がない。与えられるだけの世界には生きている実感というものがまずない。だからこそ、その実感を国防軍への憎悪に向かっていくのだろうが、8年間も外側で過ごしてきた悠にしてみれば、もはやどうでもいいことであった。


 ただ、彼にも宿命がある。彼は玄福の人間である。


 なんのために生きているのだろうか。なぜ、自分の正体をさらけ出してはならないのだろうか。そんなことは考えてはならず、ただひたすら陰の中に己を埋没させなければならなかった。


(近田くんはそんな俺の前に現れた)


 ねじ曲がった少年であった。しかし、ねじ曲がりつつも懸命に日々を謳歌しようとする洋瑛の姿勢は悠にはまぶしくも見えた。外側と内側でその宿命の種類は違いつつも、人生の行方など些細なものと言わんばかり、その日その日だけに没頭すればいいと悠に教えてくれているようであった。


 8年間、節制に取り組まされてきた悠にしてみれば、洋瑛が賄賂だと言って渡してきたポテトチップスの味が忘れられない。それに杏奈と3人でリアカーを押した日のことも。


(ホワイトシチューは確かにみんなで食べたほうがうまかったよ)


 暗闇のうちに瞬く天進橋主塔の赤色灯が見えてきて、悠は車を捨てた。顔半分を防寒マスクで覆うと、寒さのうちに肩をすぼませながら、黒いジャケット、頭にフードを被せ、辺りに警戒しつつゆっくりと、漆黒の暗がりの中を進んでいく。


(玄福に戻って、双葉さんよりも先にSG部隊に遭遇すればいい。俺の話を聞けば、近田くんはわかってくれるはずだ)


 SGは何人で侵入してくるか。SGが揃える火力に太刀打ちできるか。トランセンデンスの精鋭たちを一人で相手にできるか。


 できるだろう。高速運動トランセンデンスである。


 天進橋駐屯地を囲う高い塀を横目にしつつ、天進橋駐屯地の正門ゲートが視界に入ると、悠は瞼を、かっ、と見開いた。


 全細胞が高速運動化する。たちまち一直線に駆け出す。正門ゲートまでやって来ると、時間が止まってしまったかのように動かなくなったSGの警備兵たちの脇をすり抜け、天進橋駐屯地に侵入した。


 敷地内に駆け込んできながら、どこか身をかわせるような場所を探す。植え込みがあったので、そこに飛び込む。と、ちょうど、がつん、と、悠の脳髄に、打撃が加えられたような痛打が走り、高速運動の時間が終わる。


 植え込みの陰に身を屈めながら、息を殺しつつ、呼吸を整える。


(どっかの誰かさんみたいに常時高速だったらよかったのに)


 つぶらな瞳をぎらつかせながら、照明が窓の形を照らしかたどる管理本部棟を眺め見る。


(演習場に出たほうがいいな。真っ暗だし、人もいないだろうし)


 息が整ってくると、再び瞼を見開く。途端、植え込みを飛び出し、管理本部棟の脇を抜けていき、またぞろ程度のいい植え込みを見つけたので、飛び込んだ。


 がつん、と、脳髄に痛打が走る。両肩にも伸し掛かるようでいて、思わず、膝をついてしまう。


 呼吸が荒い。息を殺すのもやっとである。


(もしかしたら、見つかって殺されたほうがマシなんじゃないのか)


 高速運動化は身体に大きな負担がかかる。1日に15、6回がやっとである。20回まで繰り返してしまうと、立つことすらできなくなる。


(いや、死んでたまるか)


 洋瑛を双葉に遭遇させたくないのもあれば、悠自身、双葉に一言ぐらい文句をつきたい。


 ブラックスクロファが荒砂山に単体で送り込まれたのも、ウィアードの兵学校襲撃も悠は知らされていなかった。


 悠は不可解な落第を受けたゆえ、国防軍から疑惑の目が向けられている事態を警戒した。ウィアードの襲撃時、追求を恐れ荒砂山から立ち去るを得なかった。


 それに荒砂山には常時高速運動の洋瑛がいる。ウィアードに食い潰されることはないだろう。としたが、しかし、ウィアードが森姫山や来間山にも同時襲撃していたのをあとになって知った。


 まして、森姫山は全滅。


 悠は森姫山21期生を知っている。悠が警戒心から積極的ではなく、さして仲が良かったわけでもないが、それでも3年弱は同じカマドのメシを食った連中であった。


 挙げ句の果てには、人ごみにまぎれて首都にやって来ると、悠の叔母代わりを務めていたシズクさんが、首を吊って死んでいた、という話を、アパートの隣の住人から聞いた。


(シズクさんは兵学校襲撃を事前に知っていたんだ。だから、国防軍に捕まる前に死んだんだ)


 憎い。憎さが悠の目玉を赤く潤ませる。


 玄福をこの世から抹消してしまった国家も憎いが、玄福のためと言っては自分たちを捨て駒にするような双葉もまた憎い。


(本当なら双葉さんなんて殺してやりたい)


 しかし、東原双葉という人がいなければ、玄福住人たちはどうなってしまうだろうか。


 結局、すべての元凶はこの国家にある。


 己を高速運動化させ、建物と建物の間を縫うようにして突き進みながら、闇夜の植え込みにまぎれて休む。それを3回繰り返した。


(これで半分ぐらいだろ)


 唇を固く閉ざし、つらい息は鼻の穴だけでついた。呼吸を整えることにいっぱいいっぱいで、視線はどこもかしこも見ていない。ただただコンクリート打ちの兵舎の建物に視線の先を向ける。


 気づけば、窓ガラス越しに覗けるのはステンレスベッドの置いてある部屋だった。悠は何も考えずにそこを見ていた。何も考えずに動いている頭を見ていた。しかし、目を凝らす。見覚えのある顔であった。


 洋瑛だった。雪村だった。藤中だった。菊田や片岡、圭吾たちと車座になってトランプをしている。


(どうして――)


 洋瑛以外の人間もいるのか――。


 悠は身が震えた。身の震えをおさめようと拳を握った。しかし、唇は震える。なかば呆然としてしまう。


 国防軍がたくらむG地区解放作戦とは、SG精鋭のものじゃないのか。そこに高速運動トランセンデンスの洋瑛を加えただけのものじゃないのだろうか。なぜに荒砂山22期生の兵学生たちが天進橋駐屯地にいるのか。


(嘘だろ……)


 まさか、G地区解放作戦の部隊は洋瑛を中心とした兵学生で編成されているのか。と、悠の頭の中には悲痛な疑念がとぐろを巻いて駆け巡る。


(まさか、穂積さんも……)


 悠は体躯は植え込みの中にじっとさせながらも、視線の動きだけはにわかに焦った。洋瑛たちが見え隠れする兵舎のほかの窓を探った。すぐ隣にはカーテンの締め切られた部屋があり、目を凝らしてみると、なんとなくの人影が。


 ポニーテール。背格好からしても葛原由紀恵だった。


「ふざけんなよ――」


 思わず呻いてしまう。たまらなくなって瞼をつむってしまう。絶対記憶の悠の脳裏に、杏奈の柔らかい笑顔が鮮明に浮かび上がる。荒砂山の頂上、朝日を背景にして、目を細めながら微笑みかけてくれた杏奈の顔が。


 死ぬ。放水路を越えてきたSGは間違いなく死ぬ。玄福のトランセンデンスは、外側の比ではない。ウィアードも意のままに操る。


(国防軍は何もわかっちゃいない)


 放水路の内側と外側ではトランセンデンスのレベルがまったく違う。


 玄福の首長である東原双葉は、高速運動トランセンデンス、かつ、数々の超越能力を有している、人の領域を越えてしまったかのような存在である。また、有島や由紀恵のようなデュアルトランセンデンスなどざらにいる。トランセンデンスどころか、肉体の仕組みさえ超越してしまっている者もいる。


 そして、決定的に違うのは短命ではない。玄福の大気に晒され続けてきた玄福トランセンデンスの進化の速度は、外側のトランセンデンスよりもはるかに早い。


 そんな内側に来てしまったら、彼らは、杏奈は、一瞬で葬り去られてしまう。


(近田くんだけだったら、最悪、彼をさらってそれで終わりだったのに)


 どうすればいいか、悠は唇を噛みながら植え込みに潜んだままに悩んだ。


 ふと、洋瑛が賭博の座から腰を上げた。ベルトを手にしながら足早に部屋をあとにしていった。


 悠は暴挙に出た。瞳孔を開いて高速運動を始めると、兵舎へと真っ直ぐに駆けて行った。闇夜の冷気を裂いていった。ジャケットのジッパーを下ろしていきながら、ハーネスのホルスターから消音器を装着した自動拳銃を取り出してきた。


 兵舎の中に侵入する。蛍光灯1本だけの薄暗い廊下の中に洋瑛を探す。


(トイレは――)


 廊下を行ってすぐに男子便所だった。飛び込んでみれば、洋瑛はまさに今、いつもの奇行を終えてズボンを腰に上げているところであった。その姿勢で固まっていた。


 悠は息を荒げながら洋瑛のこめかみに銃口をつきつける。と、同時に身体は高速運動に耐えられなくなり、脳髄に打撃を与えた。






 母が癌で死んだのは、中学2年生になったばかりのころだった。


 官舎に駐在する教育支援委員の世話になりながら釈迦堂に居続けるか、母方の叔父の山本憲一郎少将に引き取られるかの選択を迫られたとき、一応ながら妹の久留美に訊ねた。


「どっちにする」


「チヅちゃんと離れたくない」


 言うそばで、母の死を割り切れないでいる久留美は、ソファーに座って千鶴子に抱きつきながらだった。


「いろよ」


 と、千鶴子も言った。そのとき、洋瑛と久留美の2人きりだけになった官舎の部屋には由紀恵や圭吾もいた。皆、もうすでに親がいなくなっていた。皆がそうしてきたのだから、洋瑛も釈迦堂から離れるつもりは毛頭なかった。


 それに由紀恵と交際していた。


「叔父さん。久留美と2人で釈迦堂に残るよ」


「そうか」


 山本憲一郎少将は年の離れた実妹の亡骸だけが入る墓をしばらく見つめていたが、振り返ってくると洋瑛に言った。


「洋瑛。貴様の父親も母親も誇り高いSGだった。貴様もあと数年でSGだ。両親に負けないSGになれ」


(何がSGだ)


 すべてを奪っていく。


 なぜ、トランセンデンスはSGにならなければいけないのか。そもそも、なぜ、自分たちはトランセンデンスなのか。


 英雄でもなんでもない。寂しさに震えながら生きている。たった1人で生きるのがつらくてたまらなくて、同じ者同士で肩を寄せ合いながら生きている。


 駅前のロータリーに立てば、老若男女さまざまな人が往来する。死んだ両親よりもはるかに年かさの人々もいれば、携帯電話をいじくりながら歩いているスーツ姿の人もいるし、友人同士、笑い合いながらファーストフード店に入っていく若者、母親らしき人と買い物にでもでかけるのか、洋瑛より若干年上ぐらいの女子高生。


 電車が線路を滑ってくる。車が往来する。ヘリコプターが空を飛ぶ。


 色とりどりの看板がひしめき合い、何かしらの店頭には流行りの音楽が流れている。


 信号が赤になれば人々は立ち止まり、見知らぬ同士の無言の顔をそこに並べて時を待ち、青になれば道路を渡って散っていく。


 洋瑛の目にはすべてが遠いものに映る。


「ヒロくん」


 恥ずかしいからやめろと言っても聞かず、由紀恵は2人きりになると洋瑛の手を握った。

腕を組んできてくっついて離れなかった。誰かに見つかってしまいそうで気が気ではなかったが、釈迦堂から離れた大きな町に遊びに行ったときは、洋瑛から手を組んだ。


「ずっと一緒にいようね、ヒロくん」


「お、おう……」


 言われなくてもずっと一緒にいるつもりでいた。そもそも、小さいころからずっと一緒であった。


 1年生の夏の終わりごろ、急に好きだから付き合ってくれと告白された。洋瑛は由紀恵も好きだったが、千鶴子のほうが好きであった。どちらかと言えば千鶴子とそういう仲になりたかった。


 しかし、どう見ても千鶴子とはそういう仲になれなさそうであるし、由紀恵を断ってしまえば、仲はそれきりになってしまう恐れも抱いた。


 由紀恵は人が変わったかのように積極的になった。それまでは友達でしかなかったのに、その日からカノジョになった。最初、戸惑ったが、由紀恵は自分にしかそういう笑顔を見せてこないと知ると、洋瑛の思いは募っていった。


 誰かに必要とされている時間だった。由紀恵と2人きりでいられる時間は充実していた。


 中学2年生の秋ごろ、口づけした。由紀恵から急にしてきた。洋瑛は目が回った。由紀恵の唇は柔らかくて優しかった。


(ユキちゃんと一緒にいたい。死ぬまでずっと)


 ところが、ある日、由紀恵がとんでもないことを言った。


「私、卒業したら首都に行きたいんだ。チヅちゃんも行くって言ってる。歌手になりたい」


 何を言っているのかよくわからなかったし、さして相手にしなかった。しかし、毎度毎度、由紀恵は聞きたくもない将来の夢を楽しそうに喋ってくる。


(本気で言ってんのかな……)


「ユキちゃんさ、そんなの無理に決まってんじゃん」


「なんで?」


「俺らはSGにしかなれねえんだよ」


「そんなのわかんない。やってみなくちゃわかんないよ」


 由紀恵の機嫌がすこぶる悪くなったので、洋瑛は話を切り上げたが、由紀恵の将来に向ける真っ直ぐすぎる思いが、洋瑛に疑念を生じさせた。


(ずっと一緒だって言ったのはユキちゃんじゃねえか)


 念のため、千鶴子に話した。由紀恵が何やら幻想的なことを喋っているので、やめさせてほしいと。


「なんでだよ。別にいいじゃんか」


「よくないから言ってんだろ。まさか、チヅちゃんも本気でそう考えているんじゃねえだろうな」


「本気だよ」


「そんなの無理に決まってんじゃん」


「無理かどうかはやってみなくちゃわからないじゃんか。ヒロも応援してくれよ」


 そのとき、洋瑛を支えていたものは切れた。


 由紀恵との明日、由紀恵との将来は消えた。たとえ、由紀恵が千鶴子と2人で首都に出たとしても、国防軍に連れ戻されるのはわかっている。本当に由紀恵が自分の前から消えてしまわないことぐらいわかっている。


 だが、洋瑛が許せなかったのは、由紀恵のその考えだった。由紀恵がそんなくだらない夢のために、自分を捨てていこうとしていることだった。


 次の日、由紀恵に言った。


「ユキちゃんさ、首都に行くだなんてどうせ国防軍に潰されるに決まってんだからさ、どうせ、兵学校に入らなくちゃならねえんだからさ、おとなしくSGになっとけよ」


「そんなの、わからないじゃん。トランセンデンスだからって夢まで取られちゃったら、そんなの人間として無視されてんじゃん」


 洋瑛は我慢ならなくて、叫んだ。


「人間として無視されてんだよ! 俺たちはな、人間なんかじゃねえんだよ! トランセンデンスなんだよ! 世の中そんなに甘くはねえんだ!」


 由紀恵は唖然として息を荒げている洋瑛に向かい合うだけだったが、ややもすると顔を覆って泣き出した。


「ひどい。なんで、そんなこと言うの」


「ひでえも何もあるか! それが現実だろ! 泣きたいんだったら泣けよ! 俺たちは泣くしかねえんだよ! 黙って泣いて、黙って死ぬしかねえんだよ!」


 自分を置いて行ってほしくないのであれば、そう言えばいいだけの話であった。しかし、自己中心的な洋瑛には、たったひとつの拠り所であった由紀恵のそれは自分への裏切りであったし、由紀恵や千鶴子の考え方が浅はかにも映ったし、それに、自分とてそういう気持ちを噛み殺して生きているのだと、強い憤りを覚えたのだった。


 今は後悔している。


 天進橋駐屯地に連れてこられて、体から心までぼろぼろにされた果て、最後に残っていた自分自身と向かい合ったとき、どうしてあのとき由紀恵を応援しなかったのか、悔やんだ。


 無理だとわかっていても、それでよかったじゃないかと。


(俺たちはトランセンデンスだ。でも、人間だ)


 人それぞれ多種多様、さまざまな思いを抱えて生きている。それを否定する資格など持たないし、否定されるいわれもない。自分だけの世界で生きていられるなら、それは至極安易な生き方だが、そんな人生をやっていける人がこの世にどれだけいるのだろうか。


 トランプ賭博を中座し、小便飛ばしの奇行を終えた洋瑛は、ズボンを上げて、ベルトを締めていく。


 何者かに銃口を突きつけられているのは気づいている。


 ベルトを締めつつも、親指と人差し指を擦り合わせようとした。


 が。


「無駄だよ。指を鳴らして高速運動化するんだろう。やっても無駄だ。俺も高速運動トランセンデンスなんだから」


 聞き覚えのある声に洋瑛は吐息をついた。ベルトを締め上げると、銃口を突きつけられるままに顔を振り向ける。


「久しぶりだね、近田くん」


 洋瑛は口許を緩めて笑った。


「知ってたのかよ、ヨッシー」


「ブラックスクロファが1匹だけ出てきたとき、それをやっていたのを見ている」


「そっか」


 と、唇を緩ませながらも、視線を落としていく。銃口を突きつけられていると知ったときにつき上がった緊張感も、こうして会話を交わしたら、力が抜けていくとともに散っていってしまった。


「俺の名前は相馬悠っていうんだ」


 言いつつ、悠も拳銃を下ろした。安全装置のレバーを押し上げてロックをかけると、ジャケットの内のホルスターにおさめていく。


「そっか。吉沢琥太郎って名前じゃないってのは聞いたよ。お前が高速運動とかいうトランセンデンスなのも。G地区のテロリストだっていうのも」


「テロリストなんかじゃない」


 悠の声音が厳しくなって、洋瑛はちらりと上目にする。溜め息をつくと、両手をポケットに突っ込み、うつむいたまま右足を動かしてブーツの裏を見たり、隠したりとした。


「俺はヨッシーがテロリストだろうがどうだろうがどっちだっていい」


「近田くんはSGか」


 洋瑛は眉をしかめながら目を瞑った。太ももを揺らしながら、溜め息をまたつく。


「そうだな」


「俺だってキミがSGだろうがそうでなかろうがどっちだっていい。でも、キミたちの言うG地区に来ちゃ駄目だ。国防軍が機密作戦部隊を投入して双葉さんを殺そうとしているのを俺は把握している。キミはその作戦部隊に選ばれているんだろう。そうなんだろう」


「そうだよ。なんだか知らねえけどそうなったんだよ」


「俺は天進橋を渡ってG地区に帰ろうとしていた。そうしたら、この兵舎を偶然見たんだ。キミ以外にも荒砂山の人たちがいるよな。作戦部隊はキミだけじゃなく、荒砂山の学生もいるのか」


 洋瑛は目を瞑ったまま、黙した。


「穂積さんも――、穂積さんもいるのか」


 洋瑛は瞼を開くと、睨めつけるように悠を見据える。


「いるよ。雪村も藤中も。有島もチヅもユキも」


「来ちゃ駄目だ。みんな死ぬ。国防軍は何もわかっていない。放水路の内側はキミたちが考えているほど甘くない。俺を見ればわかるだろ。これだけのSGがいたって、天進橋なんか簡単に渡れるんだ」


「ヨッシー。俺には何もできねえ」


 悠は吐息を震わせた。


 悠の目からして、洋瑛からは荒砂山にいた頃のぎらつきがすっかり失せてしまっている。それは何かを達観したようにも見えるが、放水路の内側の悠からしてみれば、洋瑛がSGに飼い慣らされてしまったかようにも見える。


「ヨッシー。俺はどうあがいてもSGだ。東原双葉ってやつを殺すことしかできねえ」


「俺は双葉さんを殺そうとする人間を殺すしかない。俺は玄福を守るしかない」


「じゃあ、殺せよ。俺をそのチャカで殺せよ」


「殺せるはずがないだろ」


 洋瑛はうつむく。鼻をすすり上げる。ものの、鼻水が垂れてくる。それを拭うこともせずに、無残に鼻先から垂れ流れている様子に構わないでいたら、悲しくてたまらなくなってきて、嗚咽が喉奥から漏れてきた。


 悠の目にも光るものがあった。


「近田くん。俺だって好きでこんなことをしているんじゃないんだ。俺だってやりたくてスパイになっていたわけじゃないんだ。正体が知れるのが怖くて友達も作れなかった。でも、荒砂山の短いあいだ、キミを見ていて楽しかった。一生懸命に生きている近田くんが好きだった。あのときに貰ったポテトチップスも、シチューも、忘れられないし、忘れたくない」


「だったらよお――」


 洋瑛は嗚咽で唇を震わせながら、悠を見つめた。涙が溢れるままの霞んだ景色に悠を見た。胸板が波打ち、なんて言葉をかけたらいいものか、どんな言葉を吐き出せばいいものかわからずに、ただただ、共に涙を流している悠を見つめる。


「だったら、だったら、戻ってきてくれよ。俺が、俺が、なんとかしてやるって。だから、ヨッシー、帰ってきてくれよ。誰もお前を責めやしねえって。みんな待ってんだって。カピちゃんだって。カピちゃんだってヨッシーを待ってんだよ」


「戻れるわけないだろ。俺は玄福の人間なんだ。キミはSGなんだ。絶対に一緒になれないんだ。だから、1つだけ、最後に伝えたい。玄福に来ないでくれ。絶対に来ちゃ駄目だ」


 しかし、トイレの外、廊下の向こうから話し声とともに扉の開く音がして、悠は真っ赤に潤んだ目で振り返る。


「絶対に来ちゃ駄目だ」


「行くなよっ! 今からあいつらに挨拶しに行けばいいだろっ!」


 悠は頬を濡らしたままに微笑む。


「ありがとう。さよなら」


 その瞬間、悠は洋瑛の前から消えた。忽然として、神にさらわれてしまったかのように、その空間には一切の名残りがなかった。


 洋瑛は両肩を落としてうなだれた。瞼を掌で覆うも、涙と嗚咽は止まらない。


「ど、どうしたの、近田。誰と喋ってたの? 負けすぎて泣いてるの?」


 顔を覆うままに首を振り、片岡を押しのける。トイレから出ると、兵舎の外にも出た。


 冷たいばかりの闇には夜目の視界にも誰の姿も見つからない。


 洋瑛は唇を噛みながら、天進橋主塔に瞬く赤色灯を見つめた。




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