02:私だけが知っている
天進橋に雪が降る。
作戦日まで残り6日。いつものように森林で隠密活動における行動のひとつひとつを再確認し、旧市役所を模した廃墟に手榴弾を投げ入れ、爆炎爆風でちらつく雪を吹き飛ばし、SG精鋭を相手に近接格闘に汗を流す。
日も暮れて冷え込みはいよいよ厳しくなり、食堂の暖かさが体をほぐした。夕飯にはわかめと玉ねぎのスープがあって、それを一口入れたら隊員たちの唇から吐息がすべり出る。
「ああ。あったかい」
と、杏奈がつぶやいていた。彼女がにこにこと笑うと、向かいの洋瑛がホワイトシチューのほうが良かったと言って杏奈を笑わせる。圭吾が首を出してきて玉ねぎを20個も切らされて大変だったと暴露すると、皆が驚き、笑い、でもあれはうまかった、と、真奈が言う。
「お兄ちゃん、ホワイトシチュー作ったの?」
皆がワイルドキャットにうなずくと、彼女は自分の作ったホワイトシチューのほうがうまいはずだと言い出した。すると、千鶴子が、「あれは食べられたもんじゃなかった」と振り返った。由紀恵も笑いながらうなずいていた。
「ヒロも食べたでしょ。クルちゃんの作ったの」
由紀恵の言葉に洋瑛は「さあな」と首をかしげる。
「私もチヅちゃんも食べられなかったけど、ヒロだけ食べてた」
「近田くん妹思いなんだね」
杏奈にそう言われても洋瑛は無視する。
ワイルドキャットが言う。
「チヅちゃんとユキちゃんの口の中がおかしかっただけ。私が作ったシチューのほうがお兄ちゃんなんかより絶対おいしいから。今度、みんなに作ってあげるから」
遠慮しとくと雪村が言って、ワイルドキャットは雪村に中指を立てた。そんなことをするとアイドルじゃないと片岡に言われ、ワイルドキャットはそそくさと指を引っ込める。
皆が笑う。
有島も笑う。
彼女の胸のうちは押し潰れそうである。
彼女をこらしめているのは、杏奈と由紀恵だった。杏奈と由紀恵が洋瑛をずっと取り囲む指定席になってしまっており、洋瑛は杏奈にやたらと優しい。由紀恵には親しげにちょっかいを出す。しかも、有島の知らない昔話まで持ち出される。
作戦日が近づくたび、有島の胸底の苦しみは大きくなってきている。
有島にとって洋瑛は唯一無二の特別な存在である。その思いは単純な思春期の恋慕をはるかにしのいでいる。
ベッドルームに戻った有島は、ほかの女どもが洗濯機室に行ったのを見計らって、荒砂山から持ってきた物を思わず取り出した。
洋瑛から貰ったクリスマスリースの折り紙であった。洋瑛から貰った唯一の「情」であった。しかし、それを汲み取ろうとしたところで、ただの折り紙にしかすぎないクリスマスリースはかえって有島の思いをしめつけた。
(ヒロくんは――)
有島を知らない。
彼女の母親の有島恵少尉が生前残していったものに、大量のフォトアルバムがある。
その中に、2歳のときの有島とともに、洋瑛も映っているものがあった。
――ヒロくんが愛の誕生日に来てくれました。ヒロくん、兵学校に入るときまで愛のこと覚えていてね。
と、写真に添えられたメッセージには書かれてあったのだった。
有島の両親、有島瑛一中尉と有島恵少尉は、近田咲良少尉と専門兵学校同期生である。
そして、咲良少尉と交際、結婚をした1歳年上の近田洋次郎少佐を加えた彼ら4人は、天進橋駐屯地内の付き合いでは留まらない仲の良い友人仲間だった。
それらの様子が有島恵少尉が残していったフォトアルバムには大量に残されている。
また、洋瑛の名――。
と。ワイルドキャットの鼻歌が聞こえてきたので、有島は折り紙をあわててバックパックにしまいこむ。
「どうしたの、アリシア」
ベッドルームに戻ってきたワイルドキャットは、有島の挙動不審を目ざとく見て取っており、薄べらな唇をにやにやと緩めた。有島は普段は洗濯機室に行っているはずであったし、ワイルドキャットの前で落ち着きもなく洗濯物をかき集めてもいた。
「ううん」
と、有島は事もなさげに首を振り、洗濯物を抱えてベッドルームを出ていこうとする。
ワイルドキャットがぬうっとして小柄な体を有島の行く手に持ち出してくる。
小生意気に瞼を薄っすらと緩め、悪戯好きそうにして唇から八重歯をこぼしている。
「何を隠してんの?」
「か、隠してなんかないよ?」
すると、ワイルドキャットの瞳が突如として不敵に輝いた。
「アリシア、お兄ちゃんのこと好きでしょ?」
「えっ?」
図星すぎて、有島は衝撃の雷にでも打たれたかのよう、全身の筋肉が固まってしまうかのようであった。
棒立ちの有島へと、ワイルドキャットは1歩踏み出してくる。
「私って戦うときはワイルドキャットだけど、恋に関してはキューピッドキャットだからわかるんだよねー。お兄ちゃんがさ、ユキちゃんと仲良くしているときさー、アリシアって黙ってご飯食べているんだよねー。それでさ、あとで気になってユキちゃんのこと見てんだよねー」
有島の全身は、どっ、として熱くなった。朱に染まった頬がまったくもってして返答であった。しかし、有島は精一杯ながら小刻みに首を横に振る。
「そ、そんなことないって」
「ユキちゃんとお兄ちゃんがどういう関係だったか知りたい?」
関係――。有島の脈はさらに早まったが、懸命に笑みを繕った。
「う、ううん。幼なじみだったんでしょ。それにべつに、うん、私はべつに」
「ふーん。あっそ。だったらいいんだけどさ」
ワイルドキャットがようやく道を譲ってくる。有島は逃げるようにしてベッドルームを出る。が、廊下の少々を行って気にかかった。ベッドルームに残っているのはワイルドキャットだけである。引き返して中を覗きこんでみる。案の定、ワイルドキャットは有島のバックパックをあさっていた。
「ちょっと! 久留美ちゃん!」
有島は洗濯物を投げ捨ててまでワイルドキャットに飛びついていったが、ワイルドキャットは瞬発力を活かして逃げてしまう。そして、なんと、右手にクリスマスリースの折り紙を掲げていたのだった。
愉快そうに八重歯を唇からこぼし、玩具を得た子供が跳ね回るようにして騒ぎ立てる。
「これってお兄ちゃんが作ったやつでしょっ! 私、お兄ちゃんが折り紙好きなの知ってんだかんねっ! まさか、お兄ちゃんと付き合ってんのっ? ねえ、これお兄ちゃんが作ったやつじゃーんっ!」
「付き合ってないってば。違うってば。それ、近田くんじゃないってば」
「ふーん。じゃあ、ほんとのこと言わないんなら、みんなに訊こっかなあ。ヤナギだったら知っているかなあ」
「お願い。やめて。返して、久留美ちゃん」
「じゃあ、返す。でも、本当のこと言わないんだったら、みんなに訊いてみる。だって私は来間山のワイルドキャットだから、荒砂山のことはよくわかんないし、アリシアとお兄ちゃんが付き合っているのに、アリシアがユキちゃんに嫉妬しているだなんて思っていたら、私、バカみたいじゃん?」
「だって付き合ってないよ。本当に近田くんと付き合ってないよ」
「じゃあ、これは誰に貰ったの? 次、嘘ついたら、知らないよ?」
ワイルドキャットは右手のクリスマスリースを振りながらしたり顔でいる。有島は唇を結びながらうつむいた。こんな真似を誰かにされたのは初めてなものだから、折り紙は洋瑛に貰ったものだと馬鹿正直に答えた。
有島は洗い物を洗濯機に放り込んだあと、誰もいない食堂へとワイルドキャットに連行された。
「でさ、結局はお兄ちゃんのこと好きなんでしょ?」
ワイルドキャットはいつもの指定席に座って頬杖をつき、鼻先を持ち上げながら、どこか得意げな笑みを浮かべている。
有島もまたいつもの指定席である。ワイルドキャットの斜向かいで、とんでもない罪を犯してしまった者かのようにしてうつむいている。ワイルドキャットに訊ねられると、なんら抵抗せずにこっくりとうなずく。
「でも――」
と、有島はあわてて顔を上げた。罪人が情状酌量を求めるみたいにして泣き出しそうな眉のすぼめ具合である。
「誰にも言わないで。近田くんにも言わないで」
「なんで?」
「だって、恥ずかしいし――」
そして、とうとう指先で瞼の裾をぬぐう。なにせ、すべてにおいて処女である。有島にとってワイルドキャットのそれはイジメである。胸の中の宝箱にしまっておいた大切なものを乱雑に荒らされたようなものである。
「恥ずかしいって何が恥ずかしいの? 好きになった人なんだからいいじゃん。好きな気持ちは正直な気持ちなんだから」
いじめっ子の理論は有島にはわからない。有島は首を振る。
「ま、いいけどさ、黙ってても」
「ほんと? 言わないでくれる?」
「でもさあ――」
ワイルドキャットが頭の後ろに手を組みながらまたにやつき始めたので、有島の両目もまた潤む。
「なんでお兄ちゃんなんか好きなの?」
「それは――」
有島はうつむく。
「確かにイケメンかブサメンかで言ったら、お兄ちゃんは私みたいな可愛い女の子を妹にしているから、百歩譲ってイケメン寄りかもしんないけど、でもさ、どう考えても性格は最悪じゃん」
有島はうつむくばかりで何も答えられない。
「ま、なんだっていいけどさ。でもさ、カピバラさんもお兄ちゃんのこと好きっぽいよね。アリシアも可愛いけど、カピバラさんも可愛いからなあ。それにカピバラさんのほうが積極的だもんね。妹の私から見てさ、どう考えてもアリシアは不利な戦いだよね」
「戦いだなんて、そんな。べつに私は」
「それにユキちゃんだっているし? ちなみにユキちゃんはお兄ちゃんの元カノだから」
「えっ。そうなのっ?」
思わず顔を持ち上げてしまう。恋の競争相手と位置づけていないが、しかし、杏奈も由紀恵も有島からすれば否が応にもそれに近い感覚である。胸がぐっとしぼられて、気が気でなくなってしまう。
「とっくに別れているし、昔より仲もすっごく悪くなったけど、でも、ユキちゃんはなあ、お兄ちゃんのこと今でも好きっぽいんだよなあ」
ワイルドキャットのイジメのせいで有島はますます押し潰れそうである。杏奈も由紀恵も仲間である。有島とすれば、恋敵だなんていう邪悪な気持ちになりたくない。しかし、ワイルドキャットという小悪魔は槍で突っつくように有島をもてあそぶようである。さすがの有島でももてあそばれていると思わざるを得ない。
「好きなら好きでさ、もうちょっとアタックしないと駄目じゃないのお。アタッカーなんだからあ」
「そういうんじゃないもん……。久留美ちゃんにはわからないよ……」
「だから」
と、ワイルドキャットは語気を荒らげる。
「私は来間山のワイルドキャットだって言っているでしょ」
「だって、私、久留美ちゃんのこと昔から知ってるよっ」
と、思わず声を荒げた。いじめられているのがいよいよ気に入らなくなってきたのもあった。しかし、思わず口走ってから、しまった、とも有島は思った。
にやにやしていたばかりのワイルドキャットが、一転、眉をしかめている。
「は? 何を言ってんの?」
「千鶴子ちゃんとか由紀恵ちゃんみたいに、昔から知っている……」
「私、アリシアのこと知らないし」
有島は黙った。洋瑛があのとき表情を険しくさせたように――、公衆電話の前で思い切って洋瑛に訊ねたとき、洋瑛は嫌悪感をあらわにした。
さすれば、妹の彼女にも言っていいものかどうなのか悩んでしまう。ただ、言いたくてたまらない自分もいる。たった1人で抱えているにはとても寂しい。教えてあげたいし、知ってももらいたい。
有島が難しい顔でうつむいてばかりいるから、ワイルドキャットは苛立ってきたようだった。
「なんで」
「お父さんかお母さんに――。聞いたことないの……?」
「なにが」
有島はそっと視線を上げる。ワイルドキャットは薄べらな唇をへの字に曲げて椅子にふんぞり返っている。有島を怪訝そうに見つめてきている。
「近田くんも久留美ちゃんもご両親が嫌いなの?」
「嫌いじゃない。お兄ちゃんはパパとママを嫌ってたけど。てか、パパのことは私もよく覚えてないし。小さいときに死んじゃったから」
「私も小さいときにお父さんもお母さんも」
「あっそう。で? なんでアリシアは私のことを昔から知ってるの? もしかして、私のパパとママとアリシアのパパママが仲良しとかだったの?」
有島はうなずいた。しおれそうでいながらも、上目にワイルドキャットをうかがう。
「お祖母ちゃんの家に写真もいっぱいある。近田くんと久留美ちゃんのご両親がSGだったころの。私の両親と一緒に写っているの。それに、近田くんの赤ちゃんのときの写真も」
「ふーん」
言ってしまったので、有島は身を乗り出して頑張った。この思いを伝えたくてワイルドキャットに視線の先をにじり寄せ、懸命になった。
「私のお父さんね、瑛一って言うの。近田くんの下の名前の字で、瑛一って言うの。久留美ちゃんのお父さん、洋次郎さんでしょ? 二人の名前から取っているんだよ」
すると、ワイルドキャットは鼻で軽薄そうに笑う。
「知っているし」
「えっ?」
「アリシアのパパとママの写真、うちにもあったし」
有島は時間が止まってしまったかのようにして、ふてぶてしいワイルドキャットを呆然と眺め見た。
「ママが昔教えてくれたし。お兄ちゃんの同級生にはこの人たちの娘がいるって。お兄ちゃんはパパのこと思い出したくない人だから、ママは教えなかっただろうけど」
「そ、そうなの? 久留美ちゃんは知ってたの……?」
「お兄ちゃんの名前も私のパパとアリシアのパパから取ったって。パパが名前思いつかなくて、そうやってやったんだって。ちなみに、私の名前はパパが来間山出身だから」
「そ、そうなの?」
「ママから言われてた。大人になったらきっと愛ちゃんに会うだろうから、そのときは仲良くしなさいって」
「じゃ、じゃあ、なんで?」
「なにが」
「なんで、久留美ちゃんは私に何も言わなかったの。洋瑛くんはあれかもしんないけど、久留美ちゃんだって私のこと昔から」
ワイルドキャットは腕を組み、やたらと偉ぶった眼差しで、有島をしばらく見つめていたが、やがて、言った。
「アリシアって可愛いし美人だし背が高くてイヤだから」




