02:天高く激甚
ポニーテールの葛原由紀恵。
右手には戦闘用刀子を逆手に握っている。
教室の窓枠から下りた。
彼女の陶器のような両足が、一転、脹脛に太腿に、流れめぐる血液から筋肉の繊維に、すみずみの細胞までが活性化されていく。
三白眼が喝として見開く。標的の化け物を捉える。とともに、雷電が龍の形のごとく虚空を裂いていくようにして、膝丈の植木を飛び越えていった。
次の瞬間、ブラックスクロファに対面している。
ブーツの甲を鼻面に叩き込んでいる。
蹴撃が激烈に食い込んでいる。
その右足、振り抜くままに振り払えば、頭骨が破砕した衝撃音とともに、化け物の巨体は成すがままのかたまりとなって宙に飛んでいった。
その飛跡を追った由紀恵。
無口な彼女の一言一句のようにして黒髪の尾が柔らかくそよいでいる。
その左手はファルモスの毛を掴み上げていた。
そのままに地面に叩き込んで押しつけた。
右手の刃物の先を化け物の首根に突き落とした。
柄まで刺し込んだ。
抜く。
血がどっとして噴き出してくるのもいとわずに、由紀恵の三白眼は次を睨む。
2番手に駆け込んできたブラックスクロファを由紀恵と同じようにして蹴り飛ばしたのは、荒砂山22期生のエース、有島愛である。
「有島っ!」
と、由紀恵が放つ。
「サルは私がやるっ!」
169cmの長身を土煙の中に幻影とさせていた有島は、こくりとうなずいた。生まれながらの殺戮兵器である有島の両眼は、すでに一輪の花草に芽生えた鋭利な茨であった。
瞬発力と破壊力のデュアルトランセンデンス。
彼女の呼吸はSGになるべくして生を保つための呼吸であり、彼女の鼓動は英雄になるべくして血潮を繋ぐための鼓動である。
(私が――)
やる。
ブラックスクロファの影が怒涛に襲い立ってくるのを跳ねてかわし、着地した反動で飛び込む。
(私がやる――)
化け物の腹から蹴り上げた。
その巨体を宙に飛ばした。
さらに自身も跳躍すれば、
組んだ両手をひとつの鉄槌にしてその巨体に叩き込む。
ブラックスクロファというかたまりは衝撃でもって割れんばかりの激突音とともに地面を陥没させる。
そうして、ブラックスクロファと離別していたファルモスを由紀恵が仕留める。
ブラックスクロファとファルモスの一群は、この戦闘の女神のような2人を前にして、突撃の足をゆるめた。おそらくはこの獣の化け物たちはためらっていた。
集団性に高い化け物たちのためらいは、次の一手までの束の間だったかもしれず、事実、ファルモスが次々にブラックスクロファから下りてくる。
だが、そこに、細い髪をなびかせつつ、銃弾を放ちながら菊田雄大が突っ込んでいった。
玉砕的にも見える彼の突攻であったが、それがアタッカーの彼に叩きこまれた戦術であった。走行掃射の銃弾はファルモスの2体ばかりを薙ぎ倒し、
(俺がやる――)
ブラックスクロファが影となって襲い掛かってきた刹那、軌道から身をかわす。
(俺は荒砂山のSG――)
ワッペンはかかげていない。天進橋のSGが装備していたようなハイテクな代物も身につけていない。手にしているものは小銃ひとつ。しかし、彼は親分――というより、荒砂山22期生たちのリーダー格、兄貴分、皆を(一部を)守ると言って公言してはばからなかったSG候補生である。
能面のような顔つきだが、奥二重に切れ長の瞼には睫毛もある。透けるような色白の肌に眉は燃える。
ブラックスクロファの跳躍をかわした菊田は引き金を引く。着地していたブラックスクロファに銃弾をぶち込んでいく。化け物たちに取り囲まれつつあれど、俊敏性を活かして跳ねまわる。小銃を鳴らし続ける。汗を拭う暇もなく引き金を引き続ける。
そして、彼の銃弾が化け物を取り漏らせど、由紀恵と有島が始末する。
彼らはいつか近いうちに天進橋で遭遇するであろうウィアード。それに想定した訓練のとおりに体を動かしていく。
が。
天進橋のSGの戦闘でもそうであるように、兵学校の常日頃の戦闘訓練でも、アタッカーと呼ばれている彼らには、援護が付いている。
それは動体視力トランセンデンスの狙撃手である雪村のようなカバーアタッカーである。
あるいは、風神雷神の仕組みで千鶴子がやっているような戦闘補助のコラボレーターである。
救護に回る治癒トランセンデンスのリカバリーも必要である。
戦闘においては射撃だけしかできないが、10人1組の分隊の作戦行動をそれぞれの役割でいざなうサポーター。聴力のトランセンデンスの二本柳や、夜目の洋瑛である。
これらアタッカーの援護をする連中は、今、ファルモスの乱入によって、教室で混乱していた。
菊田、由紀恵、有島たち3人の勇猛なアタッカーたちは、ここにあって、盾を持たず、鎧もまとわず、貧相な木綿の布切れ1枚だけをまとって、剣のみを振り回しているような状況であった。
有島がファルモスの攻撃を見落としていた。背後から覆い被されて、強靭な顎で肩を噛みつかれた。
「有島っ!」
由紀恵が即座にファルモスを蹴り払ったものの、生まれながらのアタッカーがここで脱落した。
さらに由紀恵は有島の命はあるというのに、目の前の敵ではなく、有島の救護を優先してしまった。有島の肩を抱きながら、彼女のもう一方の肩に手を当てた。ここでまた1人、アタッカーが脱落した。
「由紀恵ちゃん、私はいいから――」
有島が顔を歪めながら言うが、由紀恵はどうすればいいかわからない。有島をここに放置すればブラックスクロファの胃袋にされてしまう。しかし、有島を見捨てなければ菊田が胃袋にされてしまう。
菊田はたった1人で勇敢に動き回っていたが、ファルモスを始末していけども、警戒し始めたブラックスクロファがむやみに飛び込んでこず、銃弾を見極めるようになってしまった。
(クソッ)
さすがに菊田は疲れてきた。
(何をやってんだよ、あいつらっ)
腹も立ってきた。集中力を欠いた。ファルモスを仕留めているうち、にじり寄ってきていたブラックスクロファどもに間合いを許し、飛び込まれて組み伏せられてしまう。
由紀恵は悲愴な表情で教室を見やった。
チヅちゃん――、と。
教室は大混乱していた。雪村がファルモスに殴られたのを契機に、まだ息の根のある雪村を藤中が抱え込んだものの、ファルモスに飛び込んでいった田中中尉の右拳がかわされてしまい、逆に田中中尉が組み伏せられた。
「カピちゃんっ!」
真奈が叫んだ。大嫌いなぶりっ子の杏奈を真奈は求めた。
杏奈は決死の覚悟でファルモスに駆け込んでいく。田中中尉からファルモスを引き剥がす。
杏奈は歯を食いしばった。ファルモスの頭を両手で鷲掴みにして挟みこんだ。そして、潰し、破裂させた。
グロテスクなさまに他人事のような悲鳴が上がり、杏奈も血と肉まみれの自分の両手を震わせてしまう。己の所業に付いていけない。つぶらな瞳を点にし、ほのかに紅い唇を開け放し、放心してしまう。
さらに田中中尉はファルモスに頭を噛まれてしまっていた。気力でもって腰を上げたものの、血液が顔を覆い尽くすとともにその場に片膝をついてしまう。
悲鳴のままに教室から飛び出して逃げる者も現れた。というより、ほとんどが廊下へとなだれを打って逃げ出した。二本柳も逃げた。圭吾も逃げた。片岡はどうしてよいかわからずに小銃を抱えたまま右往左往していた。
このとき、田中中尉以外の教官たちがようやく来ていた。逃げこんでいく学生たちを誘導しつつも、笹原少尉がなだれをかいくぐっていき、教室の惨憺たる光景を目にした。
「田中っ!」
と、笹原少尉は叫んだ。
彼女が叫んだと同時に2体のファルモスが教室に乗り込んできた。笹原少尉は拳銃を取り出した。
「全員っ! 逃げろっ!」
片岡が窓に乗り、転がり落ちるようにして脱出した。しかし、杏奈が放心したままでいた。さらに、千鶴子が叫んだ。千鶴子の声圧は、ファルモスから、笹原少尉から、逃げ遅れていた学生たちから、教室にあるものすべてを圧に呑み込んで吹っ飛ばしてしまう。
そうして、信じられないことに千鶴子は小銃を構えた。ファルモスに照準を定めた。
「やめろバカ野郎っ!」
と、叫び、千鶴子の銃把の指先を止めさせたのは洋瑛である。
「みんなに当たるだろうがっ!」
このとき、洋瑛は外に出ていた。杏奈がファルモスを花火にしてしまったあと、洋瑛は窓を乗り越えて外に出ていた。屋根に飛んでいったファルモスの残りを殺傷するために、天高い青空に銃口を向けたのだった。
しかし、間抜けなことに銃弾は当たらず、むしろ、洋瑛が掃射したことによって、ファルモスは追い立てられるようにして屋根から下りていった。洋瑛が取り逃がしたファルモスは教室に入っていき、入っていってしまったものだから、外部からは撃つに撃てなくなって、挙げ句には千鶴子がめちゃくちゃにしてしまったのだった。
千鶴子が小銃を構えたまま叫ぶ。
「じゃあ、どうすりゃいいってんだよっ!」
「どうすりゃいいっつったってよっ!」
洋瑛は校庭に視線を向けた。アタッカーを求めた。ところが、由紀恵が有島を抱え、菊田が追い詰められているという状況を初めて目の当たりにする。
さらに室内ではファルモスが起き上がってくる。
(チヅと俺のなまくらな腕じゃ、狙い撃てねえ――)
菊田っ、という由紀恵の声がして校庭に再度振り向けば、洋瑛の天敵の菊田がブラックスクロファに組み伏せられていた。
(駄目だ――)
洋瑛は小銃から右手を離した。瞼を絞って閉じ、苦渋の決断を表情にする。
指を鳴らした。
洋瑛が目の前には虚しさが張り詰めている。
おびただしい銃弾によって舞い上がっていた土煙は、ただの色彩であった。いや。それを色彩とさせている朝日にもぬくもりはない。日差しの温かみや柔らかみは皆無であり、ただただ、破片のようにまばゆい。
まるで、この世界すべてが1枚のガラス板であった。
時間が止まっていると洋瑛が誤解してもおかしくはない。
彼は、溜め息をついた。
(どうして)
まずこの事態に対する疑問、そして、ほのかな怒りが湧いてくる。
ウィアードの群れが兵学校を狙ってきているのは、洋瑛の目にも明らかであった。
(まさか、1ヶ月前のあいつは斥候だったのか)
ウィアードは調教されている、というよりも、誰かがウィアードを操縦していると洋瑛は考えた。
(誰が)
過激派の左翼集団だとは妄想していない。これらのウィアードを飼い慣らすには一般常人には不可能であろう。強力なトランセンデンス集団でなければ御せないであろう。
洋瑛は突っ立って足元に視線を落とす。
SGか?
「違う」
洋瑛は首を振る。
「SGが俺たちを襲う理由なんてねえ」
トランセンデンスに莫大な投資を続けてきている。500人余のSG部隊は、1人1人が短命であるから、年々減っていってしまう。ゆえに兵学校生を年々投入していかなければならない。
洋瑛は歩み出し、窓をまたいで越える。散らばっているガラスの破片を踏みしめながら、砕いていきながら、ファルモスに歩み寄っていく。
真っ黒な瞳をいからせ、口角を広げて牙を剥き出すファルモスの頭に銃口を突きつける。
「お前らはどこから来たんだ」
ファルモスは剥製にでもなったかのようにそうしているだけである。
(放水路のこっち側のはずがねえ。1匹2匹だけならあれだけど、こんな奴らを大量にペットにしていたらすぐにバレる)
国防軍の網の目が張り巡らされている。事実そうであるが、洋瑛は幼なじみが連れ戻された件もあって、事実よりも過度にそう思っている。
「おい、化けもん。G地区には人がいるのか? トランセンデンスがいるのか?」
化け物は何も答えない。
(たぶん)
と、洋瑛はひとつの結論に至る。ときに誇大すぎる妄想をする彼であるが、このときばかりは妄想と現実の境目を冴え冴えとしてと区切った。
(教官も軍も国も嘘をついてやがる)
洋瑛は銃口をファルモスからゆっくりと下ろした。自らの中に沸き立つ何かを――業をなだめるようにして細長い吐息をつき、今一度、普段の自分に戻ろうとして、目許に陰を忍ばせながら辺りを見渡していく。
教室に在りし日の営みはない。ついさきほどまで当然のようにあったものはことごとく破壊されており、むしろ、人と獣が流した血によって、穢れている。
洋瑛はぐっと瞼を閉じる。全身の肌を震わせる何かを押さえようとする。
(俺はただのお調子者だ。天進橋の手すりをおどけて歩くために生きているお調子者だ)
憎しみ。
とてつもない憎しみが湧いてくるのだった。
しかし、洋瑛はそれを必死に押さえようとする。その憎しみの矛先が、営みを破壊したもの――、彼が仮想するG地区のトランセンデンス。
いや、そんなものがあるのかどうかわからない。
だから、自分たちをこんな目に合わせている国防軍、SG、そして、トランセンデンスという宿命が憎くなってくる。
洋瑛はわかっている。突然ある日、父が帰ってこなくなったときのように、それを憎んでも致し方ないことをわかっている。自分に湧いてしまう憎悪の対象が、いつも、無であり虚であるのを、彼は肌感覚でわかっている。
「ウィスダムトゥース、トゥ、マイマザー」
と、彼はSGのモットーをつぶやいた。
途端、彼は鼻で笑う。
「気持ち悪い。クソだな」
洋瑛の脳内のセレクトレバーはニヒルなものに切り替わった。一挙、彼の瞳は貪婪に輝いた。薄べらな唇から八重歯をこぼす。再びファルモスに振り返ると、わけもなく騒ぐ。
「おいっ! バケモンッ! 俺は親知らずなんか生えてねえんだっ!」
銃口を上げる。
(いや。やっぱりモルモットにはなりたくねえ……)
洋瑛は銃身を握ったまま悩みこむ。
(まあ、トランセンデンスが35人もいりゃ、疑われるのは俺だけじゃねえか。こんなにめちゃくちゃになってんだしな)
「あばよ、バケモン」
ファルモスの額に銃口を突きつけ、引き金を引いた。が、銃口は火を噴かない。
「あれ?」
セレクトレバーを確認する。安全装置は解除されている。
「排莢不良か。ご機嫌斜めですね、相棒くん」
コッキングレバーを引いて強制排莢する。すると、弾丸の詰まった薬莢が出てこない。
「なんだよ、相棒」
リリースボタンを押して弾倉を外す。すると、弾倉も外れ落ちてこない。
「チッ。ガラクタが。どんだけ俺がお前を可愛がってきたと思ってやがるんだ」
と。
弾倉が、ゆっくりとであるが、徐々に徐々に滑ってくるのを洋瑛は発見した。ぽかんとしながらもまじまじと眺める。
ようやく気づいた。
(時間が止まっているんじゃなくて、俺が速く動きすぎているってことなのか?)