06:たしかにそれは人間であったのだ
『特殊保安群教育部教育課人事調査書』
(姓)近田/Chikata(名)洋瑛/Hiroaki
現年齢:17
性別:M
血液型:B
所属:特殊保安群
階級:一等兵
配属:荒砂山専門兵学校
兵種:斥候 サポーター
トランセンデンス:夜目 高速運動(未確認)
トランセンデンスクラス:SS
反乱危険レベル:5
身長175cm 体重68kg
思想:右派
性格:直情的 好戦家 猟奇的 傍若無人 虚無主義
備考:奇行癖あり。統率力皆無。奔放である。国防軍最大の武器にして、国家を揺るがしかねない最大の凶器である。
ときに銃声がこだまする荒砂山も穏やかに静かであった。
兵学生たちの大半が両親を喪っているが、先述したように英雄を取り囲む親類なら大勢いる。それに兄弟姉妹もいる。
SGは結婚と出産、育児を奨励されている。極端に言えば、子供手当てが破格である。トランセンデンスの子はトランセンデンス、国防軍はSGを増やすために、この種が拡大することに全力で取り組んでいるのだ。
大晦日。昼食は寮母手製のカレーライスである。食堂の席についているのは、洋瑛と笹原京香少尉だけである。
「私が宿直当番させられているのは、あなたがどこにも行かないせいだからね。いい? 女子棟に忍び込もうとしたって駄目だからね。あなたの行動は逐一、カメラでずっと追いかけてあげるから」
「GPS持たされているじゃないですか。カメラで追う必要ないじゃないですか」
外出予定のない洋瑛であるが、ジャージのポケットに機器を常に入れさせられている。
「寮にいるってのにこんなもん持たされて、心外です」
「だいたい、外に出たがるもんでしょ。私が兵学生だったときは外に出たくて仕方なかったし、寮に残っている学生なんて1人もいなかったんだから」
「自分は天涯孤独なので」
「なわけないでしょ。近田に妹さんがいるのも、お偉いの叔父様からたまに電話がかかってきているのも存じ上げていますよ」
「よく知ってますね」
「当然でしょ。SG候補生の教官なんだから。あなたたちの家族構成ぐらい頭に入ってますよ」
洋瑛は大きく溜め息をついた。去年の正月休みもそうであったが、洋瑛が外の世界よりも内の世界を選んでいるのは、近田少将などの縁戚がわずらわしいというのもあるにはあるが、いつもはうるさいこの寮の死んだような静けさを満喫するためだった。
誰もいない大浴場でいつもは入れない浴槽に浸かり、鳥の声しか聞こえない中庭でぼうっとたたずみ、誰もいない食堂で慎ましく座っていたい。
が。笹原少尉がやかましい。
「田中教官だったら、悪ささえしなけりゃとやかく言わねえってのに」
「そこが男性と女性の違いね。重々承知しておきなさい。あなたもいずれお嫁さんをもらうんでしょうから」
(お嫁さん――)
近頃、一足早い春を感じつつある洋瑛は、咀嚼していた顎を止め、なんとなく、食堂の中庭を眺める。ゆるやかな日差しに染められていた。ちょうど、2羽の雀が降り立っており、芝生をついばんでいる。つがいなのか、兄弟なのか、はたまた仲間同士か。
「どっちなの?」
笹原少尉は誰に見せるためのものなのか、口紅を塗った唇をにやにやと緩めている。
「有島と穂積。それとも大穴で葛原のどっちかだったり?」
「そういうのはないです」
と、洋瑛はつまらなそうにして、スプーンのカレーライスを口に運んでいく。
「素直じゃないんだから。応援してあげてもいいんですけど? 依怙贔屓はしませんけどね」
洋瑛は無視する。
(教官に頼んだのは間違いだったな。寮母のババアに渡してもらえばよかった)
有島と杏奈に好意を寄せているという点では間違いないかもしれない。クリスマスイヴの催し物の翌日には有島にも杏奈にもそれぞれに礼を告げられ、のぼせた。足取りも軽くなっている。
しかし、洋瑛のそれ自体が一種の奇行――であった。有島や杏奈を視界にすると感情がときめく。だが、洋瑛は絶対に認めないだろうが、彼の潜在意識めいたところには由紀恵がいつもいる。ゆえに最後には恋というものに冷めてしまうのである。
素直じゃない。正解である。ただ、笹原少尉はほかの教官たちとともに洋瑛を観察し尽くしていても、彼と由紀恵、また千鶴子たちとの過去は知らないでいた。
「どちらにしろ」
と、笹原少尉は姉のようにして言う。
「有島や穂積は競争率が高いんだから、まずはあなたは品行方正になることね」
的外れなので、洋瑛の奥底にはたいして響かない。ライスをカレーに混ぜ合わせていき、スプーンで運んで咀嚼するだけでいる。
だが、この気配――、1年に1度だけ訪れるこの日の独特の気配が洋瑛を鋭敏にさせていたし、近頃の心の鎖の緩みが洋瑛を少々は素直にさせていた。
「来年は優しい男の子になりなさい。そうしたら、私も頑張ってあげてもいいよ?」
洋瑛はふとしてスプーンを止めた。どこかで聞いたことのある言葉だと思った。またぞろぼんやりと中庭を眺める。2羽の雀はいなくなっている。日差しのうちにのんびりとして時間が流れており、洋瑛は何かしらを追いかけるようにして睫毛を瞳にかぶせ、目を凝らしていく。
(母さんか――)
この、1年が今日をもって終わる感触――、穏やかにして静けさの中にある日なたの寂寞が、誰かがそこに立ってたたずんでいるもののように洋瑛には感ぜられてくる。
「教官」
洋瑛の顔つきは澄んで真顔でいた。
「俺たちの家族構成は頭に入っているって言ってましたよね」
洋瑛の表情が急に変わったので、笹原中尉はあえて微笑んだ。
「ええ。どうして?」
「俺の親父とおふくろの名前を有島が知っていたんです。普通、他人の親父やおふくろの名前なんて覚えていますか。不思議なんです」
「そう。でも、教官が教えるはずはないよ。そんなこと教えたって何もならないんだし」
「べつに疑ってはいませんけど」
「訊いてみればいいじゃない。有島に。どうして知っているのって。いいきっかけにもなるじゃない」
「それとこれとは違いますよ。それに自分はあんまりそういう話はしたくありませんし」
「どうして?」
「さあ」
洋瑛は平らげた皿を手に取り、席を立つ、厨房の中に入ると、食器を洗い始める。
「いいこと教えてあげる」
と、同じく皿を平らげた笹原少尉が、厨房に入ってきながら言った。
「私とか田中教官が兵学生だったとき、主任教官だったのはあなたのお母さんの近田咲良少尉よ」
「えっ?」
「SGは狭い世界だから。あなたが話したくなくたって、知っている人は知っているの。昨日、お墓参りに行ったんでしょ? 素直になればって近田咲良教官は何か言っていたんじゃない?」
洋瑛はしばしのあいだ洗い物の手を止めていたが、再びスポンジを動かすと、食器を片付けてさっさと出て行った。
「寮母さん、ごちそうさまでした。年越し蕎麦もよろしく」
「よろしくじゃないでしょ。まったく」
管理棟をあとにすると、洋瑛はロータリーにしばらく突っ立っていた。たまに自室から窓の外を眺めることはある。ものの、時間を忘れたようにしてそうしているのは、奇行ばかりの彼からすると珍しい。
青空にはきわめて薄い雲が流れている。冷たくも澄み切ったものが風に運ばれてくる。畑と枯れ田ばかりの荒砂山からの景色は、知り尽くせない何かの営みがただただ広がっている。
(SGじゃないトランセンデンスはただの化け物。強くなくても逞しくなくても、優しくないトランセンデンスはただの化け物にすぎない)
小動物をなぶり殺すような洋瑛に対し、母親の近田咲良少尉は口うるさく言ってきた。
(ただの化け物。ウィアードと変わらない)
父親の近田洋次郎少佐は洋瑛が物心ついたときから、あまり自宅に帰ってこない人だった。
ましてや、母もSGである。
そんな洋瑛に、父は言ったのだった。
「オッカサンやクルミはお前が守るんだからな」
5歳のときまで、父は洋瑛の憧れであった。英雄であった。しかし、英雄に託された自分は無力であった。
洋瑛がいくら頑張っても、年子の妹が駄々っ子すぎたのである。「パパがいない」と言って泣きわめいては、振り回されるばかりの毎日であり、洋瑛は父の代役を果たせないでいた。そして、父は永遠に帰ってこなくなったのだった。
SG。
洋瑛のすべての根源はSGであった。父や母を家に帰してくれないのはSGであった。自分や妹を苦しめたのはSGであった。千鶴子や由紀恵に将来の夢を断たせたのもSG、圭吾がいじめられていた理由もSG、何もかもがSGであった。
無論、SGという宿命に対して洋瑛は無力だった。無力を痛感するほど、また、その先は無力であった。
己の力を証明するために残忍行為に走り始め、また、自身を保つためには閉じこもるしかなかった。宿命を受け入れるために、厄介な記憶は消し去るしかなかった。覆い隠すしかなかった。父も、母も、幼きころの記憶も、恋人も、憧れも。
だが――。
洋瑛は荒砂山の頂上から見つめる。
1年がすぎゆくこの静寂が、洋瑛に狂おしい感触を与えている。
それは人肌のように生温かくもあって、しかし、墓石のように冷たくもある。骨壷のように重くもある。棺桶の中の花々のように鮮やかでもある。
(母さん、俺は――)
それらすべての感触が、無言の風となって、洋瑛を撫でていく。
(母さん――)
洋瑛は瞼をこすった。もしかしたら、洋瑛の1年に1度きりの涙は、己を偽り続けた罪を清算するためのものかもしれなかった。




