離婚と一人立ち
看護師から明日退院ですねと言われた。病院にいるのもつらかったが、実家に帰るのもつらい。
婚家の桜林からは代理人がきて、離婚届けを置いて行った。真司さんの署名はされていて、後は私が記入して市役所へ持っていけとのことだ。
もう涙も出なかった。
産婦人科のデイルームは居心地が悪いため、屋上へ上がろうとエレベーターに乗り込んだ。そこにショートカットのきりっとした女性が乗ってきた。彼女も屋上まで上がった。
屋上に三十代前半くらいの女性がいて、私たちを見ると避けるように小さな子供の手を引いて、入れ違いに去っていった。泣いていたようだった。
それまでずっと無言だったが、ショートカットの女性は煙草を取り出して吸いながら言った。
「彼女、二か月前くらいに出産したの。でも、赤ちゃんの心臓に欠陥があったんだって。それでずっと入院。上の小さな子を連れて毎日通ってる。時々、ここへきて一人で泣いてるのよ。旦那さんはそういうことに理解がなくて、赤ちゃんの心臓はお前のせいだと言わんばかりなんだって」
「そう・・・なんですか」
どう返事をしていいかわからない。
「私も二か月前に出産したのよ。予定日は今月末なのにね」
ギョッとして、彼女の顔を見る。
「未熟児だから、私の赤ちゃんも家に帰れないの。ほうら、新生児室にいたでしょ。保育器に入れられている子。あの子、私の子なの」
新生児室は一度だけちらりと見たことがあった。そういえば、一人、保育器に入っていたかもしれない。
「本来ならまだ、おなかの中にいる子が出てきちゃった。私があの子を見た時、しわしわで赤くて、背中にはうぶ毛が濃くて・・・・。ショックだった。最初は抱けなかった」
「赤ちゃんって、産み月になると自然に余計なうぶ毛が抜けて、ふっくらするんだって。私、いけないんだけどどうしても他のかわいい赤ちゃんと比較して、病院へ来るのが嫌だった。看護師さんや夫にまで叱られて、しぶしぶ授乳にきてた。でも、まだおなかの中で寝ているはずの未熟児ちゃんは、眠くて眠くて中々飲んでくれない。普通なら15分くらいの授乳に2時間かけてた。もう、ノイローゼになりそうだった」
「でもね、か細い声で泣かれた時、思ったの。この子が悪いんじゃないって。ちゃんとおなかの中で守ってあげられなかった私が悪いんだって。泣けてきちゃってさ、それからは、搾乳もちゃんとして、冷凍したのも持ってくるようになった。毎日来て話しかけて、そしてごめんねって言うの」
「あ、私・・・・。」
涙が込み上げてきた。そうだ、子供が悪いんじゃない。それだけは言える。
「知ってるよ。あなた、外人さんっぽい子のお母さんでしょ。日に日にかっこよくなっていくって評判よ」
「え・・・」
「彫りが深くってちょっと浅黒くって、他のお母さんたちも看護師さんたちも大きくなったらすごいハンサムになるって噂してる」
そんな、そんなことって・・・・。まだ、一度も抱いていない子。ちゃんと顔も見ていない。私が産んだ子なのに。
「みんな、それぞれ人に言えない事情がある。でもさ、子供には関係ないんだよね。生まれてきてくれたんだから、まずはそれを受け入れる。自分から変われば、周囲もそれなりに変わってくるよ。それからどうするかを考えていけばいいんじゃないかな。特にあなたの子は健康なんだから」
「ありがとう」
私は授乳室へ向かった。ショートカットの彼女は私の背中に「どういたしまして」とつぶやいた。
胸がはっていた。手を洗って授乳室に入ると他のお母さんたちが驚いてみていた。看護師がにっこり笑って、私の子供を連れてきてくれた。
ああ、少し浅黒いが彫りの深い顔をしている。でも、口元が私そっくりだった。髪もふさふさでちょっと見では、日本人の子供と変わらない。
母親は私なんだと思った。慣れない手つきの私を看護師が手助けしてくれる。赤ちゃんはおなかがすいていたようで、ぐいぐいと母乳を飲んでいる。
まわりの母親たちは無言で見ていたが、目が合うと笑顔を向けてくれた。
本当だ、自分がこの事実を受け入れたら周囲が変わった。
私はこの子を連れて退院し、姉のアパートへ転がり込んだ。姉が一緒に育てようかと言ってくれたのだ。
今まで疎ましかった姉なのに、今回は他の誰よりも親身になって助けてくれた。
優等生だった姉、実は両親と本気で喧嘩する私がうらやましかったという。優等生は常に期待されている。それもつらかったし、両親の目がいつも私に合ったことも、私のように感情をぶつけられることが姉にはできなかったことだったらしい。もっと早く、姉の心情がわかっていたらと思う。
私はまだ、百パーセントこの子を受け入れられていないけれど、この子には罪はない。これだけを胸に刻みつけて、一緒に歩んでいこうと思う。