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第49話 新婚旅行

後半、大震災について、マリの回想という形での描写があります。

トラウマになられている方は、回避して下さい。

 結婚式が式が終わった後、私とアーサーは別室でいろんな書類にサインをしていった。

 結婚証明書を始め、私のイギリス在留許可変更届や、その他諸々の書類。私達がハネムーンへ行っている間に、アーサーの顧問弁護士が必要な手続きをしてくれるのだそうだ。

 その後、アーサーに連れられて教会の玄関へ出てみると、ライスシャワーで迎えられた。知り合って数か月しか経ってない人々に、こんなにも祝って貰えるなんて、私は何て幸せ者なのだろうと、うれし涙がにじんだ。

 参列者に対して後ろ向きになってブーケトスをすると、ブーケはカリンさんの手に渡った。カリンさんは「恋人もいないのに」と苦笑いしていた。


 新婚旅行はアーサーが約束してくれた通り、ロンドンも含まれた。「マリのパスポートがあれば、気候の温暖な地中海に連れて行けたのだが……」とアーサーに残念そうに言われたけれど、ないものは仕方がない。

 パスポートがなければ、私はイギリスから動けない。


 新婚旅行の前半5日間は、イギリス北方、スコットランドにあるリーフ侯爵の別荘で過ごす事になった。スキー場にも近く、透明度の高い湖が近くにある事から、保養地としては有名の土地なんだとか。

 リーフ侯爵はまだ私のクリスマス誘拐事件の事を気に病んでいるらしく、お詫びも兼ねて、新婚旅行に使って欲しいと提供してくれたのだった。

 アーサーは学生時代に冬になると何度も友人達を引きつれて、この地でスキーを楽しんだそうだ。

 別荘に着くと、そこにはリーフ侯爵から私に向けてスキー用品一式が揃えられていた。スキーウェアを着てみると、どれも体にぴったりだった。

 翌朝、アーサーと一緒にスキー場へと出かけた。スキー板をブーツに装着する手際の良さを見て、アーサーが私に言った。


「マリはスキーをした事があるのかもしれないな。俺がスキー板の付け方を指導する前に、正しい方法でブーツに装着している」

「体がこういった作業を覚えているのかもしれない。記憶がなくても、できる事は割とあるんだね」


 記憶の手掛りが一つ得られるかもしれないという期待から、満面の笑顔をアーサーに向けた。アーサーは一瞬だけ苦虫を噛み潰した表情をした。

 あれ? 今のは何なんだろう? アーサーは私の記憶が戻って欲しくないのだろうか? まさか、そんな事ないよね……。


「スキーを付けれたからと言って、スキーの技能がどれ位まであるかは別だ。いきなり上級者コースに連れて行って、山から下りられない、なんて事がないように、初歩からスキーをやってみようか」


 アーサーはそう言うと、ストックを持っていない方の手を引いてゲレンデへと私を誘導した。

 結論から言うと、私はそこそこスキーが滑れるようだった。

 アーサーはボーゲンから教えてくれたが、私はアーサーが出す課題を次々とクリアして、一時間後にはパラレルターンで中級者コースのゲレンデを滑るまでになっていた。

 風を切る感覚、スキー板に押されて雪が滑っていく感触、何もかもがすんなりと体に馴染んでいった。

 やはり私はスキーをした事があるようだ。それも数回という頻度ではなく、かなりの回数をこなしていると確信した。だって、とても楽しいのだから。


「スキーに連れてきてくれて、ありがとう。久しぶりに体を思いっきり動かせたせいか、とても楽しい」

「そうか。それは良かった。喜んでもらえれば、俺も嬉しい」


 スキー帽を被っている私の頭をアーサーの手袋を着けている手が撫でていく。


「私、日本でも雪の多い地域に住んでいたんじゃないかな? スキーで滑れるし、雪にも慣れている感じがする。雪が多い所と言えば、北海道、新潟、東北、北陸あたりになるのかな? 日本大使館の小林さんに伝えれば、僅かだけど私が日本人かどうか調べて貰う手掛りになるかもしれない」


 記憶へと繋がる糸をこの手に掴めたという希望から、顔を輝かせて喜べば、アーサーの低い声が耳を打った。


「……。マリは、そんなに記憶を取り戻したいのか?」

「できれば、取り戻したいとは思っていますよ。私を育ててくれた家族や友人達を覚えてないのは、寂し過ぎますから」

「そうか」


 アーサーの声は心なしか気落ちしているように聞こえた。アーサーの表情はゴーグルに隠れて見えなかったが、頬まで降りてきた手がアーサーの不安を私に伝えていた。


「アーサー?」


 どうしたんだろうと声をかけると、アーサーは私の頬から手を離した。何でもないと頭を振る。


「そろそろ昼食の時間だ。一度、別荘へ戻ろうか」


 アーサーは自分のスキー板を外すと、その手で私のスキー板まで外してくれた。私のスキー板まで肩に担ぎあげると、別荘へと歩き始めた。


「自分のスキー板は自分で運びます。返して下さい」


 イギリスはレディーファーストの国かもしれないけど、アーサーは過保護すぎる。スキー板は軽いのだから、それ位私にも持てる。

 ぴよんぴょん跳ねてスキー板を奪還しようと手を伸ばしたけど、身長差は如何(いかん)ともし難い。スキー板に手が届く事はなかった。


「あまり雪道で飛び跳ねていると、そのうちに滑って転ぶぞ……、ほら言っただろ?」


 アーサーの忠告が終らないうちに、本当にずっこけそうになってアーサーに支えられてしまった。


「あ、ありがとう。助かった」

「あまり聞き分けが良くないと、マリもスキー板の様に担いで別荘まで運んでしまおうか?」


 本気とも冗談とも取れない調子で、笑いを含みつつアーサーに耳元で囁かれる。心臓がとくんと跳ねた。

 それだけの力がアーサーにはあるから、実行されてしまうと、周りにいるスキー客から注目を集めてしまうだろう。それは避けたい。


「謹んで遠慮させて頂きます」


 引き攣った笑顔で言葉を返すと、私は大人しくアーサーの後を付いて行った。



* * * * * * * * * *



 在英日本大使館に北島由紀さんの捜索願を出していた喫茶店のマスター、風間秀樹さんが姿を現したのは2日前のことだ。

 日本国内で捜索願を出しても失踪した地はイギリスだ。当然、イギリスに日本の警察権は及ぶはずもない。

 遅々として進展しない捜索に痺れを切らした風間さんは、紅茶とティーカップの仕入れにイギリスに来たのに合わせて、北島由紀さんの捜索願をロンドン市警に出そうとしていた。その為に在英日本大使館にアドバイスを求めて夫人と一緒に訪れたのだった。

 私と神崎さんが対応に出たが、神崎さんは風間夫妻と面識があったらしく、顔を合わせた途端、軽く目を見開いていた。風間夫妻に椅子から立ち上がって、秀樹さんに至っては神崎さんを指差していた。


「あ、あんた、何でこんな所にいるんだ!? 由紀ちゃんの捜索をしてくれたんじゃなかったのか!」

「1月7日付けでこちらの大使館に異動となりまして、北島由紀さんの捜索は、引き続き後任の者が当たっていると思います」


 神崎さんが丁寧に答えたが、それは私達の体裁を守るための嘘だ。

 政府の圧力によって、国内での捜索は打ち切られている可能性が高い。そして、在英日本大使館においても、北島由紀ことナカガワ・マリについての調査について丹後大使から停止の指示が出ている。

 つまり、日本政府はこの事件を闇に葬ろうとしていた。そんな事を目の前の風間夫妻に告げる訳にはいかなかった。


「あなた、興奮しないで。この刑事さんは最初に捜査願を出した警察署の警察官もしなかった聞き込みをして下さった方よ。この方を責めるのは、間違っているわ」


 奥さんに諭されて、秀樹さんは神崎さんに向けていた指先を下した。神崎さんはイギリスでの捜索願の出し方や、警察機構の仕組みを分かり易く噛み砕いて風間夫婦に説明していった。

 説明が終り、風間さん達が席を立とうとした時、神崎さんは彼らに問うた。


「何故、お二人は北島さんをイギリスに来てまでお探しになるのですか? 血の繋がりもなく、アルバイトの一人でしかない彼女を探す理由は何なのですか?」

「由紀ちゃんに誰も身寄りがないからですよ。私達が諦めてしまえば、あの子を探す人はいなくなる」


 秀樹さんが静かに決意をたたえた目で、神崎さんを真っ直ぐに見つめた。風間夫人が目を潤ませながら話した。


「あの子は真面目で優しくて思いやりのある良い子なんです。何の連絡もなしに失踪するなんて、何かの事件に巻き込まれたに決まっています。とても、放っておけません」


 暫くの沈黙の後に、神崎さんは口を開いた。彼の中で何かか吹っ切れたような、迷いのない表情を風間夫妻に向けていた。


「これからロンドン市警に捜索願を出されるなら、同行させて頂きしましょう。僅かながらお手伝いさせて頂きます」



 ロンドン市警に風間夫妻が北島さんの捜索願を出してから、私達の活動も慌ただしくなった。ロンドン市警から北島さんの生体情報の提供を求められたり、出入国履歴を求められたりもした。

 幸か不幸かマリ・ナカガワの捜査は停止されていても、北島由紀については「ロンドン市警の要請」という大義名分を得て、捜査できる状態になりつつあった。二人は同一人物なのだから、実質、丹後大使の命令を跳ね返したに等しい。


 まさか、イギリスに定期的に仕入れに来ている喫茶店のマスターを炊き付けて、北島さんの捜査願をロンドン市警に出すように仕向けたのは、葉山さんじゃないよな……?

 恐ろしい推測が頭の中に浮かんで、隣に座る葉山さんを盗み見るが、私の探るような視線に気づいてないのか、涼しい顔をして資料を読み込んでいた。



* * * * * * * * * *



 遮光カーテンから漏れた朝日の光が瞼に差し込む。目覚ましのアラームを掛けないで良い日なのに、その光のおかげで意識が浮上してくる。

 目覚めれば、すぐ横にアーサーの寝顔があった。いつもは私の方がアーサーに寝顔を見られている割合が断然多いけれども、今日は朝日の光のおかげでアーサーの寝顔を見る事ができた。安心しきった穏やかな顔。滅多に見せてくれない表情を見て私は嬉しくなった。

 アーサーを起こさないように腕の中から抜け出ようとして周りを確認すると、いつものように腰に腕を回され足を絡められて、私はアーサーにがっちりと抱き込まれていた。

 ……身動きが取れない。しかも、体にあまり力が入らない。新婚旅行に入ってから、毎朝ずっとこんな調子だ。


 スキーを堪能できると思っていた新婚旅行の前半は、風と雪が激しくせめぎ合い、激しく吹雪いたので二日ほど別荘に閉じこもって過ごせざるを得なかった。

 アーサーは新婚旅行に来ているのだからと、静かに天候の回復を待つ事はせずに、私を朝からベッドに連れ込んだ。

 吹雪で昼でも薄暗い寝室の中で、食事とトイレと入浴の時間以外は、文字通りアーサーに貪られた。時折、口移しで生ぬるい水を飲まされ、疲れ果てて眠る時以外は体を揺さぶられ続けられたような気がする。

 それでも拒めなかったのは、アーサーが必死に私に縋りついているように見えたからだ。

 俺の傍にいて。離れて行かないでくれ――。

 言葉では言わないけれど、全身全霊で私を繋ぎ留めようとするアーサー。何かそうさせているのか、私には分からなかった。


 それでも、ふとした事でアーサーが見せる強すぎる独占欲と執着を差し引いても、私は幸せだと言えた。温かい腕の中で眠り、目を覚ます。愛せる人を見つけられて、その人から愛してもらえる。

 幸せすぎて怖いくらいだ。

 アーサーの腕の中から抜けだそうと身じろぎすると、すぐにアーサーが目を覚ました。


「おはよう、アーサー」


 頬に手を添えてアーサーの顔を引き寄せ、習慣となった朝のキスを頬にした。アーサーも頬にキスを返してくれる。


「おはよう、マリ」

「ロンドン滞在二日目の今日は、アーサーの母校、ケンフリッジ大学を案内してくれるって約束でしょ? そろそろ起きないと」

「そうだな。準備しようか」


 アーサーは私を拘束していた腕を解いた。




 ケンブリッジ大学はアーサーの母校で、世界トップレベルを誇る名門大学でもある。歴史も古く、オックスフォードに次いで古い歴史を持っているのだとか。

 レンガや石の外壁を持つ建物が、大学の歴史を裏打ちしているようだった。敷地もとても広大で、ケンブリッジ大学の全てを見て回るには、骨が折れそうだった。


「マリが大学に興味があるなら、聴講生として通うという方法もある。月に一回数日俺はロンドンに仕事で出張に来るから、その時に講義を受ければいい」


 私が羨ましそうに大学生を見ていたのに気づいたのか、アーサーは思いもかけない提案をしてきた。


「世界に誇る大学に聴講生として入るのも、何だか恐れ多いわ。中途半端な気持ちでは、ついていけそうにないから止めておく」


 学費ももったいないからね。心の中で付け加えると、廊下の向こうからアーサーに向って声がかけられた。


「アーサー、久しぶりだな。どういう風の吹き回しで我が大学に来たんだい?」

「レナード。お前、ここの職員になっていたのか。大学卒業してから、便りがないから気にはなっていたんだ」

「それは悪かった。研究論文を書き上げるのに必死でさ。とても周りを見る暇がなかったんだ」


 レナードさんはアーサーとがっちり握手を交わして、背中を叩きあい、今までのお互いの状況を交換し合っていた。

 これは長くなりそうだなと思い、アーサーに一言断りを入れて、中庭を見学しようと歩き出した。

 背後からレナードさんが親切に教えてくれた。


「中庭なら、今、桜が綻び始めているよ。日本人なら、桜が好きだろう? 固まって植えられているから、目印になる。そこで待ち合わせすればいい」

「そうします」


 目的の桜はすぐに見つかった。淡いピンクの花びらが風にさわさわと揺れた。それを見て、私の頭の中で何かが音を立てて溢れ出してきた。


 それは記憶の奔流。


 大震災で津波が押し寄せ、波に呑まれた我が家。高台から見ている事しかできなかった。

 2週間、父を母を妹を探し続けて遺体でしか対面できなかった時の無力感。臨時の遺体安置所の庭に咲いていた桜が、死者の魂を慰めるかのように風に吹かれて花びらを揺らしていた。

 火葬の順番を待って、三つの骨壺に納まってしまった家族を前に、避難所の片隅で蹲って声を殺して泣いた。

 進学を断念し、都会へ出て生きる為に必死に働いた。初の海外旅行。飛行機に乗るのも初めてだった。誘拐されて、地下室でアーサーに出会い、生気を啜られて……。それから、それから……。


「あ……、ああっ」


 自我も押し流されそうになるほどの情報の洪水に、私は頭を両手で抱えて桜の木の下に崩れ落ちた。処理しきれないと本能が判断したのか、私の意識のスイッチが強制的に落とされた。


2012.12.03 初出

2012.12.04 脱字修正、章の区切りを追加

2012.12.08 脱字修正


 イギリスは暖流が流れ込んでいる関係で高い緯度に位置しているにも関わらず、温暖な気候に恵まれてます。年間の温度差もそれほど大きくはありません。

 雪もあまり降らず、スキー場はスコットランドまで足を延ばさないとないそうです。桜が咲くのも早く、開花の早い種類ですと2月中旬には開花し始めるそうです。


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