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第43話 思わぬ再会

 ニューイヤーパーティから二日経つと、マックスさんの講義がまた始まった。今まで歴史やテーブルマナー等の一般教養的な講義だったのだが、講義の再開と共に内容が新しく付け加えられた。

 その一つが紋章学。「紋章の仕組みと数百ある貴族の紋章の中でも代表的な紋章を覚えて頂きます」とマックスさんに宣言され、思わず幾つぐらい覚えればいいのか尋ねると「80ほどです」と返事が返ってきた。


 そんなに覚えられるだろうかと不安になっていると、「日本にも似た物がありますね。家紋と言ったと思いますが……。それとは少し仕組みが違いますが、マリ様にとって全く馴染みがない物ではありませんから、十分習得できるかと思います」とマックスさんに言われてしまった。

 もう一つは貴族としての立ち振る舞い方、心得。これはアーサーとの結婚を前提にしている講義だと思ってしまったが、「イギリスにいる以上、学んでおいて損はないと思います」と欠点のつけようのない笑顔で返されて私は押し黙った。


 特に、紋章学については分厚い教科書をマックスさんから渡されて、空き時間に読んで下さいと言われてしまった。

 勉強するのは嫌いじゃない。でも、その方向性がナント伯爵夫人として求められるものになっているのが、本当に外堀をこれでもかと埋められてきていると感じてしまう。

 午前中はマックスさんの講義、午後は牧場で乗馬の練習と以前よりも自由時間は少なくなった。でも、乗馬の時間は体を動かしていられるので、ストレス発散にもなった。


 新年が始まって、新しい一日のスケジュールにも慣れた頃、私とアーサーは再びロンドンへ行くことになった。

 今回は、アーサーのお仕事が占める割合は二日だけで、残りの三日間は私をロンドン観光に連れて行ってくれるらしい。

 アーサーの仕事が済むまでナントの館にいて、後から合流する方が良いんじゃないかとアーサーに提案したら、即座に却下されてしまった。前回泊まったカーリントンホテルのスイートルームは一泊何ポンドするのか怖くて聞けないほど落ち着きのある上品な部屋だった。庶民の私は、お金はもっと大事に使おうよと思ってしまう。

 理由を聞かれて「宿泊費がもったいない」と素直に話すと、「そんな心配は無用だ。俺にとってはマリの顔が毎日見れる方が何十倍もはるかに大切だ」と言われて赤面するしかなかった。


 ロンドンについた初日は、フェンリル・ファンドで打合せをしていたようだ。そして今日、私はアーサーに連れられて、アリストン総合病院の応接室に座っていた。

 今日はアリストン総合病院の年二回の経営会議があり、アーサーは理事長を務めているので、どうしても出席しなければならないらしい。夕方までかかるとアーサーに告げられて、ここでお待ち下さいとアリストン総合病院の院長秘書に言われて応接室で待つのは良いけれども、それから30分以上が過ぎてさすがに退屈になってきていた。


 ふと窓辺から芝生がおおい茂る庭を見下すと、入院患者や外来患者とおぼしき人達が、体育館のような建物へと向かっていくのが目に入った。

 院長秘書のラナエルさんが気晴らしの為の雑誌を数冊もって応接室に入ってきた。


「ラナエルさん、あちらの建物に大勢の人が向かっているようですが、何かあるんでしょうか?」


 微笑みを崩さずに私の所までゆったりと歩み寄ってくると、私が差し示した建物にできはじめた行列を見て、得心がいったように頷いた。


「あれは、フレデリック・キャンパー氏のチャリティーコンサートを見るために集まっているんです。彼の事はご存知ですか?」

「イギリスに来て日が浅いので、知らないんです。有名な方なのですか?」


 持ってきていた雑誌中から一つの雑誌を取り出すとパラパラとページを送って、とある特集記事を私の目の前に差し出した。その記事の題名は『天才バイオリニスト、フレデリック奇跡の復活』とあった。


「当病院の患者さん達を病気に負けないように励ます為に、わざわざ講堂でコンサートを開いて下さったのです。もちろん、入場は無料です」


 ラナエルさんは、羨ましそうに講堂に入っていく患者さん達を見つめていた。

 私は記事にざっと目を通す。

 脳腫瘍でバイオリニストとしての道を断たれたフレデリックさんは、アリストン総合病院で治療を続けていた。1年に渡る闘病生活。治療中なかなか成果が上がらず、途中何度も挫けそうになったり、周囲へ八つ当たりをしてしまったらしい。名前も知らぬ同じ患者の少女から叱咤され、脳腫瘍であっても音楽を続けていこうと希望を持った途端、脳腫瘍が小さくなって消えてしまったそうだ。

 同じ病の悩みを抱えている人々の為に、これからは積極的に慈善活動に参加していきたいとフレデリックさんは決意表明していた。


 フレデリックさんの復活後の演奏を聴いた音楽評論家は、「以前はテクニックばかりが目についていたが、病と言う人生の苦境を超えて、感情表現に深みが増し、百年に一人という逸材にまで成長した」と手放しで褒めていた。

 ふーん。この人、天才と言われている割に苦労しているんだ……。

 記事を読み終えて顔を上げると、ラナエルさんのキラキラと輝く目と私の目が至近距離でかち合った。


「どうです? フレデリックさんのバイオリン演奏、見に行きたくなりませんか? 見に行きたいですよね!? ね?」

「み、見に行きたいです」


 ラナエルさんの勢いに押されて、思わずそう言ってしまったのが運の尽きだった。彼女は当然ですねと言わんばかりに何度も何度も深く頷くと、ジャケットのポケットから病院内で使用できる専用のPHSを取出し内線をかけた。


「アーサー理事長のお連れ様がフレデリックさんの演奏を見に行かれたいそうです。ご案内してきてよろしいでしょうか? はい。はい。承知しました」


 上機嫌でPHSの電源を切ってポケットにしまうと、ラナエルさんは雑誌を応接室のローテーブルに置いた。そして、にこやかに微笑むと私の右手を左手で握った。


「秘書室の上司から許可を頂きました。さあ、参りましょう。会場の中は混んでいると思われますので、私の手を離さないで下さい。迷子にならないようにお願いします」


 私の歩調に合わせながらも、やや急ぎ足で歩くラナエルさんの背中を追いかけて私も歩いた。

 本当にラナエルさんはフレデリックさんのバイオリンが好きなんだな。許可をもらった時の顔がとても幸せそうだったから。これだけ熱心なファンを持っているバイオリン奏者なら、演奏もきっとすごいのだろう。

 ラナエルさんに導かれるまま、エレベーターで一階に下り、一度庭に出てから講堂に向った。到着すると座席はほとんど埋まっていて、あぶれた人達が壁際に立ち見していた。まだ、演奏は始まっていなかった。


 私達は完全に出遅れたようで、講堂の入口付近で立ち見する事になった。

 講堂奥に設けられた舞台にタキシードを着てバイオリンを手に持った青年が現れた。スポットライトの光が青年を追いかける様に動いた。

 司会が青年の所までマイクを持って歩いて行った。客席へ向きなおると、コンサート開始の口上を述べた。


「フレデリックさんのご厚意により、この病院でコンサートを開く幸運を頂きました。開始にあたり、フレデリックさんから一言お願いします」


 司会はマイクをフレデリックさんの口元へと掲げた。


「アリストン総合病院の皆さん、日々病と闘っておられる患者の皆さん。僕の演奏を聴きに来て頂きましてありがとうございます。ご存じの通り僕は脳腫瘍で一時期は指を思い通りに動かせないほど、苦しんでいました。化学療法と放射線治療のおかげで丸坊主になり、今ようやく髪が生え始めたところです」


 そう言って弦を持った手でフレデリックさんは頭の頂きを撫でて会場から笑いを取った。


「遅々として改善しない病状に絶望しそうになる事もあるでしょう。辛い治療に心が折れそうになる事もあるでしょう。それでも、生きている限り諦めないで下さい。生きていれば必ず何かできる事があるはずです」


 フレデリックさんはバイオリンを肩に乗せ顎で挟み込み弦を構える。舞台の左端からピアノ伴奏の音がゆったりと響いてきた。一曲目は「アヴェ・マリア」だった。優しく包み込まれるような旋律に心が穏やかになる。

 音楽の事はよく分からないけれど、確かに天才と称されるだけはあるみたい。涙をこぼす人がちらほらと見られた。私の隣にいるラナエルさんも目にハンカチを当てていた。

 この後、五曲が演奏され、どの演奏にも盛大な拍手が送られていた。


 司会がコンサートの終わりを告げようと舞台の中央に進み出てくると、フレデリックさんはバイオリンと弦を司会に押し付けて、舞台を飛び下りて走り出した。予定にない突拍子もない彼の行動に誰もが呆然として動けずにいた。

 私達がいる講堂の入口へと時々立見の人にぶつかりながらも近づいてくる。近づいてくるにつれ、遠くて見ていただけでは分からなかった瞳の色が顔の輪郭が体の細部が次第にはっきりしてくる。


 フレデリックさんの森の木々を思い起こさせる深緑の瞳、神経質そうな細い指。どこかで見たような気がしていた。

 どこでだっただろう? 首を捻って考えて、ふと思い出した。私がPET-CT検査の控室で怒鳴りつけてしまったあの青年だ。あの時、ひどく彼を怒らせてしまったから、出会えば二言三言辛辣な言葉を投げつけてくるかもしれない。それは避けたい。

 ここで顔を合わせるのはどういう因果なのだろうか。フレデリックさんがこっちへ来ているという事で狂喜しているラナエルさんのジャケットを引っ張って注意を引いた。


「コンサートも終わった事ですから、もう、戻りましょう。会議も終わる頃じゃないですか?」

「もう少し待って下さい。こんなに近くからフレデリックさんのお姿が見れるなんて滅多にないんですから」


 ラナエルさんは全く動こうとはしない。熱烈なフレデリック・ファンであるらしい彼女は蕩けた目で黄色い歓声を上げていた。この人、頼りにならない!

 間違ってもフレデリックさんの視界に入らないように、立ち見の人ごみの中に紛れようと動くと背後で彼の声が聞こえた。


「待って!」


 待てと言われて待つ馬鹿がどこにいますか! 人の壁をかき分けて講堂の外へ出ようとするが、非力な私では騒ぎが起こった講堂の中へと入ろうとする人の流れに打ち勝てなかった。右腕を後ろから強く引っ張られてフレデリックさんに捕まった。

 こうなったら怒られる前に先に謝ってしまえ。その方がこの身に受ける怒りも少なくなるはず。

 腰を折り深く頭を下げて謝った。


「前回お会いした時は、フレデリックさんが天才バイオリニストだったとは知らずに、酷い事を言ってしまってごめんなさい」

「僕はあなたに謝ってもらうために追いかけてきたんじゃない。感謝を伝える為にあなたを探していたんだ」


 少しだけ息を切らしていたフレデリックさんは、深呼吸して息を整えると一気にまくしたてた。頭上で響いた彼の言葉に、どうやら怒ってはいないようだと安心して顔を上げる。


「あなたが諦めるなと叱ってくれたおかげで、僕はこうやって脳腫瘍を完治させて音楽活動に戻る事ができた。本当にありがとう」

「怒ってないんですか?」


 私が確認すると、フレデリックさんは首を横に振った。怒っていないなら、私の腕を掴む強さが緩まないのはどうしてだろうと不安に思っていると、真横から腕が伸びてきて、私の腕を掴んでいたフレデリックさんの手首を捻って外した。


「マリ、こんな所で何をしているんだ?」

 アーサーの声だ。アーサーは私の肩を抱きこみ、フレデリックさんから私を引き離した。

「高名なバイオリニストのコンサートがあると聞いて、見に行きたくなってラナエルさんに案内してもらったの……」


 行きたいと言ったのは確かに私だ。こんな騒ぎになるなら、行かなければ良かったと後悔した。

 講堂の入口には野次馬が集まって、身動きが取れない状態になり騒然としていた。取り立てて美しくもない貧相な女性を挟んで良い大人二人が対峙している様は、ゴシップのネタになってしまうだろう。

 居たたまれなさを感じて俯いていると、フレデリックさんが動いた。


「来月、僕のコンサートが開かれます。マリさんには感謝しても感謝しきれないほど、一番苦しい時期の僕を励ましてくれた。是非、見に来て欲しい」


 タキシードの内ポケットから封筒を取り出すと、私に断る暇も与えず強引に押し付けた。封筒を受け取ると、フレデリックさんは私の前に跪き、封筒を持っていない手の指先をすくうように引っ張って、手の甲にキスを落とした。傍にいるアーサーから何かドス黒いものが漂ってくる気がした。

 フレデリックさんが去り際、挑発的な眼差しをアーサーに向けた。どんどん不機嫌になっていくアーサーに泣きそうになりながら、私はアーサーを振り返った。

 すると、アーサーは無駄に紳士的な笑顔を振り撒いて言った。


「フレデリックとマリとの間に何があったかをホテルでじっくりと聞こうか」


 ひいぃぃ。

 こういう顔をするときは、アーサーはとても機嫌が悪いんだ。夕食までに機嫌が直ってくれていると良いなと思いつつ、アーサーに促されるまま歩き出した。


2012.10.22 初出

2012.10.23 脱字修正

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