第42話 すれ違う思惑
酒は飲んでも飲まれるな。
柔らかな朝の光。一日の始まりを告げる様に囀る小鳥たちの声。朝特有の冴えわたるひんやりとした空気。爽やかな朝を迎えた私は、爽やかさとは程遠い頭を抱えてベッドに沈んでいた。
頭が痛い。ガンガンする。脈拍が打つ度に鈍痛が頭の中に走る。この症状はもしかしなくても、二日酔いなのだろうか。こんなに私はお酒に弱かったんだ。あの甘いカクテルはほんの数口しか飲んでなかったはずなのに。
アーサーの前でお酒を飲んだ事がなかったのかな? 知っていれば事前に注意を促してくれたはずだ。
お酒のせいなのか変な夢を見た。私がアーサーに愛していると告白して、自分から彼にキスをしている夢。力強い言葉で愛していると告げられ、共に生きると誓いあった。
夢には見る人の隠れている願望を現しているという説があるけれど、あれが私の願いなのだとしたら、もっとアーサーに愛されたいという事なのだうか? 自分の欲深さにあきれてしまう。私が同じだけ与えられないものを求めるなんて。
突然、夢の中でした濃厚なキスを思い出し、残像を頭の中から追い出すために頭を激しく左右に振る。その途端、二日酔いの頭に鈍痛が走り、思わず力なく柔らかい枕に突っ伏した。痛みに呻きながら心に誓う。
もう二度とお酒は飲まない。
幸いなことに、パーティで着ていたドレスは脱がされてパジャマに着替えさせられていた。あのままベッドで眠ってしまっていたら、ドレスは見るも無残にしわしわのよれよれ状態になっていただろう。
たぶん、ライラさんが着替えさせてくれたんだろう。意識のない人間を着替えさせるのは結構大変なのに……。申し訳ない気持ちになる。
寝室のドアが躊躇いがちにノックされた。私がどうぞと頭痛に耐えながら小さな声で返事をすると、ライラさんが入ってきた。
「おはようございます。マリ様、お加減はいかがですか?」
屈み込み、私の顔を覗き込むようにしてライラさんは体調を気遣ってくれた。きっと私の顔色も良くないのだろう。その顔には心配で堪らないと書いてあった。
「頭が痛いです。横になっていても痛いけれど、動くと更に痛みが増すようで、暫くはベッドから起き上がる気力が湧きそうにありません」
弱弱しい声でライラさんに答える。こめかみに手を当てて、少しでも頭痛が治まるように祈ったが、全く効果はなかった。
「おそらくその頭痛は二日酔いの症状だと思われます。まずは水を飲んで頂きませんと。マリ様、上体を起こせますか?」
はい、と応じると、ライラさんはベッドのヘッドボードを背にクッションを積み上げて簡易の背凭れを作り上げた。私は頭痛を堪えながら上体を起こし、背中をどうにかクッションに預ける。
「アルコールは摂取した以上の水分を体から奪っていきます。ゆっくり少しずつでいいですから、水分を取って下さい」
水差しからコップに注いだ水をライラさんは私に差し出した。二口飲んでコップをサイドテーブルへ置いた。
「水分ってどれくらい取ればいいのですか?」
「そうですね……。このコップ2杯分は朝食をお持ちするまでに飲んで頂きたいですね」
疑問に思って聞くと、ライラさんはにっこりと微笑んでもう一つコップをワゴンから取り出して、そこへ水を注ぎ始めた。
あと2時間もしないうちに朝食の時間になる。そんなに水を飲んだら、朝食を食べる前に水でお腹が膨れてしまうんじゃないだろうか? 朝食は遠慮しようかな……。
私の考えを読み取ったのか、ライラさんはしきりに朝食を取るように勧めた。
「カリンから昨日のパーティでは、マリ様はほとんど食べていらっしゃらないと聞いています。消化の良い物を用意させて頂きますから、朝食はお食べになって下さい」
まるでできの悪い娘を心配する母親の様で、思わず私はライラさんの言葉に頷いてしまった。彼女は満足そうに微笑んだ。
寒くないようにマジャマの上からカーディガンを私に羽織らせて、ライラさんは水差しを私の手が届くサイドテープルに置いて寝室を出て行った。
「ああ、醜態晒しちゃったなぁ……」
お披露目とマックスさんが言っていたパーティで酔い潰れて倒れるなんて、参加した人達には悪い印象を与えてしまったに違いない。
また、アーサーに迷惑を掛けてしまった。
二日酔いを抱えながら落ち込んでいく気分を私は止める事ができなかった。
結局、その日は二日酔いがお昼まで治まらず、乗馬の練習も中止になり、パーティに参加していたフェンリル・ファンドの幹部の方達のお見送りもする事はできなかった。
マックスさん達はパーティの後片付けに忙しく働いていた。それに比べて私は鈍痛が走る頭を抱えてベッドの上でぐったりと横になっているだけだった。
お昼を過ぎてようやく頭痛が治まった頃、アーサーが温室でお茶にしないかと誘ってくれた。いつもは仕事でこの時間帯は書斎に篭っているはずなのに、年末年始はイギリスでもお休みにあたるのだろうか?
パジャマから普段着に着替えて温室へ向かう。頭痛が治まるまでは食欲もあまりなくて、朝食も昼食もあまり食べれなかった。
温室は館と廊下で繋がっているので、防寒着を着ることなく、そのまま入っていける。温室の中の温度はボイラーから供給される温水で常時22度前後に保たれている。寒い外気は完全に遮断され、ここだけ花の楽園が生み出されていた。ハイビスカス、水連、セントポーリア、アロエ等々熱帯の花が咲き誇っていた。
温室はガラスが天井にも壁にも張り巡らされ、その素材は強化ガラスであるため、ある程度の大きさの雹が降ってきても割れる事はないという。しかも、二重構造になっているので断熱性は抜群なのだとか。
幼少の頃から病弱で花が好きだったソフィアさんの為に、アーサーの祖父、つまりソフィアさんの父は植物園と見違う規模の温室を造り上げていた。その管理を一手に引き受けるのはトムさんだ。数人の部下と共に日々温室と庭のお世話をしている。
温室に入るとトムさんが土を掘り返していた。傍らには苗が十数個置かれていた。何か新しい花を植えるようだ。
「こんにちは、トムさん」
私が挨拶すると、トムさんは帽子と手袋を取って立ち上がった。
「こんにちは、マリ様。アーサー様でしたら温室の中央にある東屋でお待ちになっています」
「新しく温室に植物を植えるんですね。どんな花が咲くか楽しみです」
くしゃりと皴が目立つ顔を笑みで崩して、トムさんは嬉しそうに語り始めた。花や木々の話をする時、本当に幸せそうな笑顔をみせる。
「今、植えようとしているのは、紫陽花でさぁ。わざわざ日本から苗を取り寄せました。丁度、桜をナントの敷地に植えて桜並木を作れないか日本の植木職人の方に見に来てもらっているんで、彼に植え方や育て方を教えてもらったんでさぁ。それで今温室に植えてるんでさぁ。マリ様はイギリスから出れないから、せめて花だけでも日本の花を見せてあげたいとアーサー様がおっしゃいまして……」
そこで不意にトムさんは口を噤んだ。言ってはいけなかった事を言ったのか、気まずそうに頭の後ろを節くれだった手でかいた。
「どうも、喋り過ぎましたようでさぁ。アーサー様からはぬか喜びさせるといけないからと、桜の植樹計画はマリ様に黙っておくように言われたのをすっかり忘れちまってました。アーサー様には私が喋った事、内緒にして下さいませんか?」
「内緒にしておきます」
トムさんを安心ざせるように笑顔としっかりとした口調で請け負った。アーサーは目に見えない所でも、何かと私に気にかけている事実を教えられて胸が温かくなった。
アーサーは私に相談したら、遠慮されて断られると思ったのだろう。相談されない事は寂しいけれど、彼の気持ちは心臓が一瞬跳ねるほど嬉しかった。
「さあ、アーサー様がお待ちかねでさぁ。早く行って差し上げて下さい」
トムさんに促されて、温室の中心部へと向かう。
白い屋根と壁板と柱に囲まれた東屋は、腰の高さぐらいまでしかない壁と屋根の間は解放空間となっていた。温室に振り注ぐ太陽の光がそこから入ってきて東屋の中を十分明るくしていた。
東屋の中ではアーサーとマックスさんが私の到着を待っていた。白いテーブルクロスが掛かった丸いテーブルと茶色の椅子が並べられていた。テーブルの中央には3段のティースタンドが置いてあり、サンドイッチ、スコーン、ケーキが各段に載せられていた。
「遅くなって、ごめんなさい。待った?」
東屋に入って開口一番にそう言うと、アーサーは静かに首を横に振った。
「いいや、大して待っていない。マックス、紅茶を出してくれ」
「かしこまりました」
マックスさんは一礼して紅茶を入れ始める。温めたティーポットに紅茶の葉を人数分入れ、沸きたての熱湯を勢いよく注いだ。ティーポットの蓋をすぐに閉め、そのままティーコーテージの中へと入れる。数分蒸らしてからティーポットの中をスプーンでひと混ぜして蓋を閉めた。茶こしで茶がらをこしながら二つの白いティーカップに鮮やかな琥珀色の液体が注がれた。
ふんわりと香る紅茶の良い香。丁寧な手つきでティーセットが私の前に置かれる。
「ライラから今日の朝食も昼食もあまり食べていないと聞いた。頭痛が治まった今なら、多少でも食べれるのではないかと思って、軽食を用意させた。ケーキやクッキーの甘いものも用意させた。何でも女性にとって甘い物は別腹らしいからな」
にやっと笑ったアーサーは、紅茶の香りを楽しんでから一口紅茶を含んだ。満足げに息をついてマックスさんの紅茶を淹れる手腕を褒める。
「マックスの淹れてくれる紅茶はいつもうまいな」
「恐れ入ります」
確かに今なら少しは食べられるかもしれない。サンドイッチを手に取って一口かじる。ハムとレタスとマスタードの効いたバターの味が口の中に広がった。順調に咀嚼していく様子をアーサーは紅茶を飲みながら見ていた。
その後、スコーンにジャムをつけて平らげ、チーズケーキを完食した所で満腹になった。一息ついてると、アーサーが尚も食べる様にと勧めてくる。
「もっと食べないのか? 昨日から今日にかけてあまり食べてないから、あとケーキを一つや二つ食べたところで太らないと思うぞ」
「もう、お腹一杯です。ごちそうさまでした」
「俺はマリが出会った頃よりも二回りほど痩せてしまっているから心配しているんだ。腰回りの肉もすっかり落ちてしまっているし、毎日確認しているのに一向に元に戻っていない。それでは体力がつきにくい」
毎日ベタベタ抱きついてくるのには体調管理の意味もあったのですか。体力は日本人女性にしてはある方だと思うけれど、イギリス人女性と比べると見劣りするんだろうか。
私が体力なさそうだから、アーサーはあんなにも過保護になるのだろうか? これから時間を見つけて運動するようにしよう。
「体力は乗馬の練習もするようになったし、牧場まで歩いて行ってるから、そのうちについてくると思います」
「そう……。そうならいいが……」
完全にアーサーは納得してくれた様子ではなかったが、それ以上この話題を持ち出すことはしなかった。
いい感じで間が空いたので、私は昨日の失態をアーサーに謝った。
「昨日のパーティでは途中で倒れてしまってごめんなさい」
「酒に弱かったと覚えてなかったのだから仕方がない。次に失敗しなければいいだけだ。マリは気に病む事はない。それよりも倒れた後、どこまで覚えている?」
なんでそんな事を聞くのだろう? 頭の中を疑問符で埋めながらも、私はほんの少し虚偽を混ぜ込んで答えた。
「倒れた後の記憶は全くないけど、変な夢を見たのは覚えている。……内容までは覚えていないけど……」
変な夢の内容は恥ずかしくて口には出せない。自分からキスした夢なんて言ったら、アーサーなら夢でできたのだから、現実でもできるだろうとか言って、キスを要求してくるかもしれない。想定できる事態を避けるために夢の内容は覚えていないと言ってしまった。
食い入るように私を見つめていたアーサーの頭が、落胆したのかがっくりと下がった。
「? どうしたの?」
暫くアーサーはショックから立ち直れなかった様だが、力なく首を振ってようやく頭を上げた。
「いや、なんでもない。こちらの問題だ。マリは心配しなくていい」
「う、うん……」
いつになく落ち込んでいるアーサーにそう言われた以上、あまり彼の抱えている問題に触れない方が良いのかもしれない。そう判断した私は原因を追究するのを止めた。
2012.10.15 初出




