第29話 事情聴取
ロンドン市警の警察官立会いのもと、傷害の証拠を取るために、私はアリストン総合病院で診察を受けていた。髪を掴まれて強く引っ張られた時に、髪の毛が随分抜けてしまったみたいで、後頭部がひりひりと鈍い痛みを訴えていた。
両手首には誘拐未遂犯の指の跡が赤く残り、掴まれた肩にもうっすらと指の跡がついていた。
「両手首の跡は、二、三日は消えないですね……」
立ち会った女性警察官がぽつりと呟いた。デジカメのシャッター音が診察室に響いた。私の主治医という事でカリンさんが診察をしてくれたが、そのせいで今日乗るはずの飛行機を逃してしまっていた。
「ごめんなさい、カリンさん。私の軽率な行動のせいで、スケジュールを狂わせてしまって……」
診察が終わって、カリンさんはロンドン市警に提出する診断書を書いていた。私が申し訳なく思って謝ると、彼女は首を振って答えた。
「いいのよ。ナントの館にある診療所は私以外にも医者はいるし、十分カバーできると思うわ。今はマリの誘拐未遂事件に対処する方が先よ」
カリンさんが診断書を書き終えて女性警察官へ渡すと、私は警察署への同行を求められた。
「事件の経緯をお聞きしたいので、警察署へ来て頂けますか? マリさんが疲れているようでしたら明日にする事もできますが……」
「大丈夫です」
「私も付き添います」
カリンさんは白衣を看護師に渡すと、ボストンバッグを抱え、女性警察官の後についていく私の横に並んで歩きだした。
本当は精神的にも疲れていたが、ロンドンの滞在するのも残りの日数は少ない。事情聴取の為に予定より滞在期間が延びて、アーサーに迷惑をかける事はしたくなかった。そもそも私の行動が原因で、こういう事態を招いたのだから。
診察室を出て病院の正面入り口まで来ると、そこにはロンドン市警のパトカーが待っていた。私とカリンさんは後部座席に乗り込み、女性警察官は助手席へと座った。
ちらつき始めた雪の中をパトカーは静かに走り出した。
警察署に着くとアーサーとレグルスさんが待ち構えていた。
雪が降っている中で寒いだろうに、アーサーは警察署の入口で両腕を組み、彫像のように身じろぎもせず立っていた。
パトカーから降りると、アーサーは足早に階段を下りてきて私の前に来ると、こわごわと腕を伸ばして私を柔らかく抱きしめた。
「大きな怪我もないようで良かった。誘拐されかけたと聞いて心臓が止まりそうになった。俺の寿命を縮めるような事はもうしないでくれ」
耳元で聞こえたアーサーの声は心なしか震えていた。私の怪我が大した事がなく、抱きしめても傷に痛みが響いていないのを確認したのか、僅かに抱きしめる力を強くした。
そっと触れ合った頬。アーサーの頬が冷たいのに気づいて、彼が長い時間ずっと寒い警察署の入口で待っていてくれた事を申し訳なく思った。
「ごめんなさい。ごめんなさい、アーサー。『一人で出掛けない』という約束を破ってしまって、ごめんなさい」
ひたすら謝るしかなかった。私が全面的に悪いのだから。あのメモを受け取った時、アーサーかカリンさんに相談していたら、こんなにアーサーを心配させる事は無かったはずだ。
『後悔先に立たず』というけれど、悔やんでも遅すぎた。
「マリさんには、まだこれから事情聴取がありますので、感動の再会もその辺にして頂けますか? それに、ここは警察署の入口になりますので、いつまでも道を塞がれると周りの迷惑になります」
病院から一緒にパトカーに乗ってきた女性警察官が、私達の真横に来て物怖じしない冷静な口調で諭した。
「すまない」
私を腕の中から解放して、アーサーは彼女に素直に謝った。
「事情聴取には一時間ほどかかりますので、お待ちになるなら待合室でお願いします」
こちらです、と女性警察官は先導するように私を警察署の中へと促した。
警察署の自動ドアを通り抜け、建物の中へ入ると廊下の向こう側から足早にハンプティ・ダンプティ並みに太って頭が禿げ上がった中年男性がやってきた。彼は私をちらりと見た後、女性警察官を見上げて言った。
「ジーナ巡査長、これから彼女の事情聴取かな?」
ジーナ巡査長はにこりともせずに淡々と事務的に答えた。彼との身長差が頭一つ分はあるので、どうしてもジーナ巡査長が彼を見下ろす形になってしまう。
「はい、ノース刑事局長。取調室で事情聴取を行うつもりです。何か不都合でも?」
ノース刑事局長は軽くため息を吐いて首を横に振った。そして、ジーナ巡査長を見上げて右手の人差し指を立てて左右に振った。
「駄目駄目。彼女はリーフ伯爵の婚約者で誘拐未遂事件の被害者だ。事情聴取をするにしても応接室を使いなさい。くれぐれも失礼のないようにな」
ジーナ巡査長が私を見て目を丸くしているのを尻目に、ノース刑事局長は私に会釈すると、また早足でアーサーがいる警察署の入口へと向かっていった。
二人がが挨拶を交わした後、ノース刑事局長に案内されてアーサーがエレベーターの中に入って行くのが見えた。
何かにショックを受けていたジーナ巡査長は、ほんの数十秒で自分を立て直したらしく、私を応接室へと案内し始めた。
私達が応接室に入ると、ジーナ巡査長は私に三人掛けのソファーに座るように勧めた。大人しく指示に従って座ると、お尻が沈み込むほど柔らかいソファーだった。ここが応接室の中でも上等な部屋のような気がした。
彼女は使い古された感のある黒い鞄の中からレポート用紙とボールペンを取り出すと、次々と質問を私に浴びせかけた。
「まずは、誘拐されるまでの経緯を話して下さい」
「泊まっていたホテルのベルボーイがメッセージを持ってきて、私の過去を知っているから指定された場所まで正午までに来るようにと指示があったんです。一人でその場所へ向かっていたら、怪しい人が出てきて、案内するって言ってきたので、怖くなって逃げました。追いかけられて捕まったところをレグルスさん達に助けられました」
「犯人に見覚えは?」
「今まで会った記憶がありません」
レポート用紙にボールペンを走らせながら、ジーナ巡査長は意地の悪い聞き方をしてきた。
「あなたは人に知られたくない過去でもあるのですか? 傷害事件が起こらない日はない地域に女性が一人で行くなんて、襲ってくれと言うようなものですよ」
挑発するような物の言い方に、私はぐっと堪えて務めて冷静に答えた。
「私は記憶喪失なので過去の事を覚えてないんです。だから、どうしても自分の過去を知りたくて、あの場所に向かいました。そんな危険な地域だという事は知らなかったんです」
「記憶喪失ね……。今までに恨みを買った事があるか、なんて覚えいないか……」
ボールペンでこめかみをぐりぐりと押し付ける様にして揉んで、ふと思いついたように聞いてきた。
「誘拐犯があなたを追いかけていた時、何か言ってなかったですか? 覚えていれば教えてくれませんか?」
「一人は私が理解できない言葉で喋っていたので何を言っていたか分かりませんし、もう一人はスラングが混じっていたので、意味が掴めなかったのですが……」
そう断って、犯人が私に怒鳴っていたスラング混じりの英語を、聞いた音そのままに再現してみせると、彼女は途中で右掌を前に押し出してストップをかけた。
「もう、結構です。口に出すのもおぞましい言葉が散りばめられていたので、その辺で止めて下さい」
どういった意味だったんだろうと、私がきょとんとしていると、彼女は冷たい笑顔で忠告してくれた。
「意味なんて知らない方が幸せだと思いますよ。常識のある人間ならそんな言葉、絶対口にしませんから」
私は怖くてそれ以上は聞けなかった。ジーナ巡査長の目が、私から説明させるなという妙なプレッシャーを宿していたから。
うん、怖い人には逆らわない方が身のためだ。
「それにしても、こんな未成年者を婚約者にするなんて、リーフ伯爵は何を考えているのやら……」
何だかアーサーを悪く言われたような気がして、私は懸命に反論した。
「私は未成年ではありません。これでも21歳です」
「えっ!? 嘘ですよね? 身分証明書を見せて下さい。マリさんは、どう見ても15歳ぐらいにしか見えません」
「身分証明書は失くしてしまって、今はありません……。でも、アーサーが私の年齢を覚えてくれていたんです」
はあ? と、ジーナ巡査長は呆れた顔をして、私をまじまじと見つめた。私は何か変な事を言ったのだろうか?
「記憶喪失を利用して、未成年だったあなたを手っ取り早く結婚可能年齢に仕立て上げたとは考えないのですか? だいたい貴族なんて長年権力闘争が渦巻く社会の中で生き残ってきた連中なのですよ。目的を達成するためには手段を選ばない腹黒さぐらい標準装備していると思っておくの方が無難です」
「アーサーは、そんな人じゃない。優しくて誠実な人です。私が初めてロンドンに来た時に、所持金を奪われて困っていた所を助けてくれた」
「ノーブレス・オブリージュですか。今時、そんな世迷言、律儀に実践している貴族なんているのでしょうか? 不自然とは思いませんか? そもそも、あなたは記憶喪失なのにその事件だけは覚えているんですね」
彼女は私の言葉を鼻先で笑って否定した。まるでブラック企業で採用試験の際に行われる圧迫面接を受けている感じがした。
「覚えてないけど、アーサーからそう聞いています……」
「もしかして、婚約していることもリーフ伯爵から聞いただけで、記憶にないのではありませんか? それどころか、あなたの知っている過去というのは、全てリーフ伯爵から聞かされた物なのでは?」
「う……」
ジーナ巡査長に言い当てられて私は口ごもった。確かに、彼女の指摘通り、自分が日本人である事だけは記憶を留めていたが、それ以外はアーサーから聞かされた過去しか私は知らない。
「やれやれ、図星ですか」
疲れたようにがっくりと肩を落として、彼女はレポート用紙とボールペンを脇へ置いた。
「マリさん、あなたは人を信じ過ぎています。確かに記憶喪失になって不安だったでしょう。与えられた自分の過去を無条件に信じてしまっても、無理ない事だとは思います。ですが、あなたは少しでも与えられた情報が本物かどうか裏付けを取ろうと思われた事はありますか?」
「だって、婚約者が嘘をつくなんてあり得ないから、そんな事はしようとも思わなかった」
「リーフ伯爵が婚約者だというのも、与えられた情報でしょう?」
ジーナ巡査長に言われて、私はぐうの音も出なかった。
アーサーは私を大切にしてくれているし、私の不利益になる事は今まで一切していない。それどころか適切な治療と居場所を私に与えてくれた。
「それでも、私はアーサーを信じます」
そう言い切った私を見て、これ以上言っても効果がないと思ったのか、彼女は唐突に話題を変えてきた。
「あなたを誘拐犯から助けた二人は何者ですか?」
私は知っているありのままの情報を答えた。
「レグルスさんはナント伯爵家にある牧場の管理者で、アランさんはレグルスさんの下で働いている人です。二人とも牧場で作った乳製品を売り込みにロンドンに来たって言ってました」
彼女の目が僅かに細められ、静かに首が横に振られた。彼女の動作からは心の中でそんなはずはないと感じているのが分かった。
「誘拐犯を身体検査した際にスタンガン、ジャックナイフ、拳銃が出てきました。荒事に慣れている人物を相手に凶器を使用する暇を与えず、瞬時に相手を無力化するのは凡人にできる技ではありません。我々警察官であっても難しい」
「でも、犯人達は私を捕えるのに意識が向いていたから、レグルスさん達に気づいてなかったのかもしれませんよ?」
レグルスさんとアレンさんは若い頃、武術かボクシングでもやっていたのかもしれない。それだったら犯人を制圧できても不自然じゃないような気がする。
「本当に疑う事を知らない人ですね。犯罪を犯す者が他者の気配に鈍感になれるはずもないのに」
まるで私が能天気だと彼女が言っているような気がして、思わず言い返してしまった。
「何でもかんでも疑ってかかるよりは、精神衛生的に良いんじゃないでしょうか」
言い返されるとは思ってなかったのか、彼女は目を大きく見開いた後、自嘲するように微笑んだ。
「職業柄、人を疑うのが仕事ですからね。忠告はしました。生かすも生かさないも、あなた次第です。自分を守れるのは自分自身でしかない。この事は覚えておいて下さい」
ジーナ巡査長の真剣な眼差しと彼女がくれた教訓が心の奥に焼き付いた。
再び彼女はレポート用紙とボールペンを手元に引き寄せて事情聴取を再開させた。
2012.07.16 初出
2012.07.28 誤字修正
2012.09.15 改行追加
ノーブレス・オブリージュ
社会的に高い地位にいる者は、それに見合った高い責任を負うという考えです。
イギリスでもフォークランド紛争というのがありましたが、この時貴族の方は真っ先に志願して軍に入ったのだとか。こういった義務を果たしてないと、貴族として尊敬されないのだそうです。
貴族でいるのも大変ですね。




