第24話 押し付けられる歪み
マリこと由紀が日本人で同一人物だと分かったのに、統治能力のない政治家のせいで、見捨てられるお話になっています。
カタ、カタ、カタ……
午前に届いたナカガワ・マリさんのDNA検査結果を本国の警察庁の神崎さんにメールで送ってから、葉山さんはたびたび貧乏ゆすりをしてデスクを小刻みに震わせていた。おかげで私のデスクの上のマグカップに入っているコーヒーが細かい波紋を描いていた。
「葉山さん、日本時間は20時ですよ。科学警察研究所の職員にDNA検査結果の照合をしてもらうにも、職員が帰っているかもしれませんから、照合結果が出るのも明日になるかもしれません。気長に待たれては如何ですか?」
頭の回転が速い人は気が短い。
仕事で葉山さんと組むようになってから、私の辞書に新たに加わった教訓だ。
「いや、あれだけ神崎に念押ししておいたからな。研究所の職員の首根っこを引っ捕まえてでも最短時間で照合結果を出してくれるさ」
はあ、そうですか。それにしても、貧乏ゆすりは止めてもらえませんかね? 報告書作成するのに気が散るのですが。
「落ち着かないなら喫煙所でタバコを吸ってきたらどうですか? DNA照合結果が届いたら、すぐに連絡を入れさせてもらいますから」
「ああ、そうさせてもらうよ」
葉山さんは、上着を引っ掛けると部屋を出て行った。
不意に電話が鳴った。
受話器を取って応対すると、昨日、電話を掛けてきた神崎さんからのものだった。葉山さんは席を外していて不在だと告げると、彼はDNA照合結果を伝えてきた。
『ナカガワ・マリさんと北島由紀さんのDNAが完全に一致しました。葉山さんに伝えてもらえますか? 今から科学警察研究所の鑑定書のコピーをメールで送ります』
「了解です。こんなに早くDNA照合結果を出して頂いて助かりました。葉山さんも喜ぶと思います」
お礼を言うと、神崎さんは電話の向こうで苦笑しつつ私に励ましの言葉を掛けてくれた。
「葉山さんは有能過ぎるので一緒に仕事するのは何事もキツイと思いますが、小林さんも頑張ってください。僕は捜査の基礎を彼に仕込んでもらいましたが、なかなか一人前扱いされなくて悔しい思いをしました。もっともそれをバネにして、認めてもらえるよう努力を重ねる事ができたのですが」
私の苦労を理解してくれる人がいる。それだけで嬉しかった。
「ありがとうございます。神崎さんのように一人前と早く認められるように仕事に励みます」
電話を終えると、すぐに葉山さんの携帯電話へ連絡を入れた。ゆっくりタバコを吸い終わってからでいいのに、暫くするとパタパタと急ぐ足音が部屋のドアの前で止まった。
勢いよくドアが開けられ、閉める事もせず、葉山さんは電話にかじりついて何処かへ電話をかけ始めた。繋がった途端、早口で相手にまくしたてた。
「神崎、頼んでいた例のもの、すぐにメールで送ってくれ」
私があっけにとられていると、葉山さんはパソコンのメールソフトを起動して、先ほど送られてきたDNA照合の鑑定書を確認した。数分後、ピコーンと電子音がなって、新着メールがある事を知らせた。
素早くパソコンのキーボートを連続して叩いたあと、葉山さんは私に向かって確認するように催促した。
「ひよっこ、神崎から送ってもらったメールを転送した。中味を見ておけ」
葉山さんに言われてメールソフトを起動し、転送されたメールについていた三つの添付ファイルを開くと、それは北島由紀さんの携帯電話の通話とメールの受送信記録、銀行口座の出入金記録、入国管理局から提出された彼女の出入国履歴だった。
きっと神崎さんは葉山さんの指示で、DNA照合結果が出る前に、これらの記録を取り寄せたのだろう。こちらに送付されたのはDNA照合結果が出た後とはいえ、これは立派なフライングだ。
胡乱な目を葉山さんに向けると、彼は開き直ったかのように嘯いた。
「こんなに早く資料を寄越してくるとは、最近の警察は優秀だな――――」
「うわ、すごい棒読み」
「うるさい」
資料を読み取っている葉山さんの顔が次第に険しくなる。負けないように資料を読み進めていくと、不自然な点が幾つも浮き上がってきた。
「何ですか、これ」
「リーフ伯爵がナカガワ・マリさんに出会って彼女が記憶喪失になるまでについて供述した内容は嘘が含まれているという事だ」
由紀さんの携帯電話は失踪後一度も電源を入れられた形跡がなく、携帯電話会社のメールサーバーにはメールが溜まりっぱなしになっていた。
日本へ彼女が戻ったのなら、携帯電話をもう一度入手しようとするだろう。今や人口よりも携帯電話の数が多い日本で、携帯電話なしの生活は考えられない。
また、銀行口座の出入金記録には、現金を引き出した形跡がなかった。日々の生活で現金を使わない人間がどこにいるのだろうか。
最後の極めつけが、彼女の出入国履歴。失踪後一度も日本へ帰国した形跡がない。リーフ伯爵は、彼女が日本へ一度帰国したと言ってなかったか? 正規のパスポートで出国したのに、日本に戻る時と再出国時に偽造パスポートを使う事も考えにくい。
ナカガワ・マリさんと北島由紀さんが同一人物と証明できた事で、吹き出してきた矛盾。これを見過ごせるはずもなかった。
「石坂さんに知らせてきます」
「ああ」
階段を下りて石坂さんのいる事務フロアへ向かう。事務フロアに到着して、あたりをぐるっと見回したが石坂さんの姿はなかった。近くにいた外務省組の相沢さんを捕まえて尋ねた。
「石坂さんは、今どこにいますか?」
「第一会議室で会議中ですよ。さっき始まったばかりのようですから、終わるまでかなり時間がかかるかと思いますが……」
手帳の未使用ページを一枚破り、用件を書き込んでから彼に押し付けた。
「急いでいるので、メモだけでも石坂さんに渡してもらえませんか」
相沢さんは頷くと会議室のある一角へ歩いて行った。
部屋に戻ると、葉山さんは苛立って狭い部屋の中を行ったり来たりしていた。まるで檻に入れられた猛獣のように、不機嫌さを隠しもしなかった。
「石坂さんはどうした?」
「会議中でいませんでした。メモを会議室に差し入れてもらうように頼んではきましたが……」
仕方ないな、と言って、葉山さんはコートと手袋を手に取った。
「ナカガワさんの宿泊場所と連絡先は聞いているな? 石坂さんに断りを入れてから動こうと思っていたが、会議中ならどうしようもない。彼女に会いに行くぞ。準備しろ」
葉山さんに急かされてロッカーから防寒着一式を取り出すと、ドアがノックされた。どうぞ、と答えると、先ほどメモを押し付けた相沢さんが入ってきた。
「石坂さんがお二人を呼んでいます。会議室まで来て頂けないでしょうか?」
器用に右眉だけを吊り上げて、葉山さんは呼びに来た彼を斜めに見据えた。
「大事な話をしている最中じゃないのか? そんな所に俺達が入ってもいいのか?」
「とにかく、来て下さい」
相沢さんは強くそう言うと、会議室まで先導するように歩き始めた。
何だか嫌な予感がする。
嫌な予感ほど当たるという経験則を持つ私は、内心戦々恐々としていた。まさか、フライングで由紀さんのあれこれの資料を手に入れた事がばれたんじゃないだろうな、と思っているうちに会議室に着いてしまった。
相沢さんが会議室のドアをノックすると内側からドアが開かれ、私達は中へ招き入れられた。
会議室には、丹後大使、石坂さんと見慣れない面々が三人ほどいた。そのうちの一人は、どこかで見た事があるような気がした。
「石坂さん、藤田官房副長官、山野経済産業省副大臣と部外者一人が入っている会議に、何故、私達が呼ばれなければいかんのですか?」
ここに私達を呼んだ理由を葉山さんが質すと、石坂さんは赤地に金色の菊の紋が描かれている日本のパスポートを黙って差し出した。
私かパスポートを会議室の大テーブルから拾い上げて中味を見てみると、そこにはあり得ない人物の顔写真と名前が記載されていた。
ナカガワ・マリ。
つい先ほど北島由紀と同一人物と証明されたその人だった。
「これは、一体どういうことですか!?」
日本人と証明できない限りパスポートは発行しないのではなかったのですか? 何のために私達は調査を行っていたのか。急に虚しくなる。
「後で説明します。先に、ナカガワ・マリさんが北島由紀さんであった事についての報告をして下さい」
藤田官房副長官と山野経済通産省副大臣は政府側の人間だから良いとしても、あとの一人は完全に部外者だ。それなのに、この場で調査結果を報告しろと言うのだろうか?
「ちょっと待って下さい。政府関係者でない方がお一人ここに居ますね。彼は誰なんですか? 誰か分からない方がいる場所で調査報告をするのは、不適当ではないのですか? 情報の管理があまりにも甘すぎます」
私が丹後大使に抗議すると、彼は何か問題があるのかという顔をして、あっさりと許可を出した。
「彼は竹内東日本電力副社長です。今回の交渉の関係者ですから、完全な部外者ではありません。我々としても時間が惜しい。速やかに報告して下さい」
ああ、もう。この御仁は何が問題なのかも理解できていないのか! 竹内東日本電力副社長は国家公務員の守秘義務に縛られない存在なんだぞ。ここで話した情報を外で喋られたら、どうするんですか。
半ば自棄になりながら、予備のノートパソコンを借りて、報告に必要な関連資料を丹後大使と石坂さんに配布し、在英日本大使館のLANにアクセス権限を持たない藤田官房副長官達には資料を印刷して配布した。
「先日、ナカガワ・マリさんの日本人であるかどうかの調査の為にDNA検査用の血液を採取しました。海外失踪者リストの中に良く似た人物がいましたので、本国の警察庁に協力を要請して北島由紀さんのDNAと照合したところ、両者のDNAが完全に一致しました。彼女は記憶喪失のため、失踪後どういう行動を取ったかは不明ですが、リーフ伯爵が供述した内容とこちらで判明している彼女の失踪後の形跡は明らかに矛盾しています。リーフ伯爵に再聴取の要請をすると共に、彼女の保護が必要だと判断します」
私が概要を一息に報告し終えると、藤田官房副長官が読み終わった資料を大テーブルの上に投げ出すようにぱさりと置いた。大テーブルの上に両肘をつき、両手を組んだ上に顎を乗せると質問してきた。
「北島由紀さんは、身寄りがいないのですね?」
「そうです」
「それは好都合です。北島由紀さんには記憶が戻るまでナカガワ・マリでいてもらいましょう」
藤田官房副長官の口から信じられない言葉が紡がれて、私は一瞬何も反応できなかった。何故、そんな事をするのか意味が分からない。
「……なんだって?」
いち早くショックから立ち直った葉山さんが、剣呑な光を瞳の奥底に宿して一歩前に進み出た。
「彼女にあんたは北島由紀だと告げるのに、何の不都合がある? 地元の警察署に捜索願も出ているんだぞ。少なくとも彼女には日本で待っている人がいるんだ。事実を事実として伝えてはならないという法はねぇだろ」
正論を突き付けられて藤田官房副長官は渋面を作った。
「我々には不都合なのですよ。ここから私達が話す内容は他言無用に願いたい」
そう言ってから、彼は訥々と不都合な理由を説明し始めた。
「政府は、今、リーフ伯爵が率いるフェンリル・ファンドと東日本電力への融資、もしくは東日本電力が持つ送電網の買い取りの交渉をしています。東日本電力は原子力発電所事故で発生した巨額の損害賠償により経営が不安定になっています。その救済の為に巨額の資金が必要なのですが、今の所、我々の交渉に応じているのは、かのファンドだけなのですよ」
藤田官房副長官が竹内東日本電力副社長の方を向き顎で指図した。その様子は、政府と東日本電力の力関係を端的に示すようだった。
「竹内君、東日本電力の経営状況を彼らに説明してくれたまえ」
竹内東日本電力副社長は力なく頷いた。目の下にできた濃いくまが、彼の疲労を物語っていた。
「東日本電力は日々の損害賠償請求の支払いが滞るほど、資金難に直面しています。銀行の融資も受けられず、原子力損害賠償支援機構からの資金提供も特例国債法案が成立しないために停止されている状態では、経営を維持するのは極めて困難です。ですから、私どもはこの交渉がまとまらなければ、会社更生法を申請するつもりでいます」
私は絶句した。そこまで東日本電力の経営が悪化していたなんて。日本ではどのマスコミも報道していなかったから知る由もなかった。
「なんでそれが彼女に事実を教えてはならない事に繋がるのか、さっぱりわからん」
なかなか見えてこない話に、葉山さんは苛立ち始めていた。腕を胸の前で組んだ右手の人差し指が神経質に左の二の腕を叩いていた。
「リーフ伯爵はナカガワさんを溺愛しています。彼女にパスポートの発行をしなかった件について、わざわざ交渉中に言及して席を立とうとしたほどですから、リーフ伯爵から彼女を引き離すようなまねをすれば、この交渉自体が頓挫してしまいます」
石坂さんがその時の事を思い出したのか、げんなりした様子で、パスポートの表面をなぞりながら顔を俯けてそう言った。
ナカガワ・マリ名義のパスポートが用意された理由が、私にもこの時わかった。リーフ伯爵を交渉に引き留めるために、ただそれだけのために、日本人と確認できなければ発行できないと言っていたパスポートを用意したのだ。
法も何もあったものじゃない。腹の底から湧き上がる憤りを宥めながら、説明の続きを待った。
「リーフ伯爵は失敗できない交渉相手だというのは、もう君達にも分かりますね? 電力の安定供給のために東日本電力を破綻させるわけにはいきません。我々には日本国民の半数の生活と首都圏の機能を維持する責任がある。記憶喪失になった身寄りのない人間を安い正義感で保護して、この交渉を決裂させるわけにはいかないのです。それに、彼女にとってもリーフ伯爵の傍で暮らす方が幸せでしょう」
藤田官房副長官が感情の揺らぎの無い蛇のように冷たい目を私達に向け、抑揚のない声でそう言った。
怒りで目の前が真っ赤になりそうだった。こんな人物が国家の中枢にいる事が信じられなかった。身寄りがなければ、保護すべき国民をどう扱ってもいいって言うのか。
「ふざけるな!」
怒声と共に目の前にある大テーブルが派手な音をたてた。みしっと嫌な音もした気がする。横を見ると葉山さんが今まで見たこともないくらい本気で怒っていた。
雲の上の存在であるはずの藤田官房副長官に彼は正面から食って掛かっていく。
「リーフ伯爵は北島さんの失踪や記憶喪失に関わっている疑いだってあるんだぞ。そんな人物の保護下にいて彼女が幸せなわけあるか!」
「リーフ伯爵への疑いはあくまでも可能性に過ぎません。確証がない以上、聴取を認める事はできません。交渉を邪魔しないでくれませんか」
「東日本電力の経営状態を資金繰りに困るほど悪化させたのは、あんたら政治家が何も手を打たなかったからだろ! そんなに電力の安定供給が大事なら、東日本電力への融資に政府保証付けるなり、国有資産を売却するなりして資金を作れたはずだ」
「総選挙前にそんなことすれば、政府が特定の企業を支援したと非難を浴びて、支持率が落ちてしまう。選挙で議席を減らす事は、何よりも避けなくてはなりません。とてもできない相談です」
「だからといって、政府の無策のしわ寄せを彼女に全部押し付けようっていうのか! それが政府のする事か!? あんたら何様だ!」
延々と続きそうな二人の言い合いに、丹後大使が待ったをかけた。
「葉山君、いい加減にしなさい」
葉山さんは発言こそ止めたが、激しい怒りを含んだ眼差しは、真っ直ぐに藤田官房副長官へと向いていた。彼も葉山さんに怯むことなく、感情のこもらない目で睨み返していた。
二人の間にある緊張を破るかのように、山野経済通産省副大臣が割って入ってきた。
「ナカガワ・マリさんについてのパスポート発行と戸籍の作成については、政府が既に決めた事です。また、藤田官房副長官は、菅原首相からリーフ伯爵との交渉について一任されている。君も公務員の一員であるなら、この決定に従って下さい」
ギリッ、と葉山さんが悔しさのあまり奥歯を噛み締める音が私に伝わってきた。政府という権力の前には一公務員はあまりにも無力だ。追い打ちをかけるかのように、丹後大使が私達に指示を下す。
「ナカガワ・マリさんの調査については、この交渉が片付くまで停止して下さい。彼女への連絡・接触も一切禁止します。何かあれば石坂君か私まで報告するように」
手を上下に振って、丹後大使は私達に会議室からの退出を促したが、葉山さんはその場を動こうとしなかった。
「葉山さん、行きましょう」
私が声を掛けると、葉山さんは挑むように彼らに問うた。
「邦人の保護は大使館の重要な任務のはずだ。ナカガワさんが記憶を取り戻して保護を求めてきたら、どうするんだ?」
「それは、その時に考えますよ」
何も考えていない丹後大使の頭の中が透けて見えたような気がして、私は思わず頭を抱え込みたくなった。
こんな行き当たりばったりの人が大使館のトップで良いのだろうか……。任命責任者出てこい! と心の中で叫ぶ。
「そうか。よくわかったよ」
何故か葉山さんは何かを企んでいるような悪い笑みを浮かべて、挑発的に彼らを見渡してから会議室を後にした。
2012.06.11 初出
2012.06.11 誤字修正
2012.09.15 改行追加
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