第20話 腕の中で目覚めた朝
先に謝っておきます。すいません。サブタイトル倒れの内容となっています。
心地よい温かさの中で、私はぼんやりと目を覚ました。寝起きの頭はまだよく働いていなかったが、時間を確かめようとして枕元に置いてあるはずの携帯電話を取ろうとした。
時間が早いなら、二度寝しよう。
そんな呑気な事を思えたのは、身じろぎをするまでだった。
携帯電話を取るために伸ばそうとした腕は、何かに拘束されて動かすことができなかった。
何故!?
体の動きが自由にならないという非常事態に意識が一気に覚醒する。
背中に感じる人肌。首筋に感じる穏やかな寝息。腰を包み込むように回る腕。私の両脚を挟み込むように絡められた筋肉に覆われた硬い脚。
体の各所から伝わってくる情報は、誰かが私を背後から抱きしめて眠っているのを示唆していた。自由になる範囲で辺りを見渡せば、ここがスィートルームの主寝室だと分かった。
背後にいる人物を確かめるべく、体を反転させようともがいていると、不意に拘束が緩んだ。寝起きの低く掠れた声が降ってきた。
「おはよう、マリ」
その声は紛れもなくアーサーのものだった。なんでアーサーと私が同じベッドで寝ているのか、理由を問い正そうとアーサーの腕の中から抜け出し、起き上がってアーサーに向き直った。
アーサーは上半身裸で、首元にあるチョーカー以外は何も身に着けていない。体脂肪15%切っているんじゃないかと思うほど、贅肉は付いてない。ほどよく鍛えられた筋肉を纏っているアーサーの体躯は、美術を志す者ならスケッチを取りたくなるぐらい美しい。
寝起きの気怠さを漂わせているアーサーには、うっかりすると堕ちてしまいそうになる色香があった。
「な、な、なんで」
なんで私とアーサーが同衾しているのよ、と言おうとした矢先、アーサーはベッドから上半身だけを起こし、彼を指さして動揺する私を面白そうに見て英国紳士らしからぬ言葉を落とした。
「透けてないのが惜しいが、扇情的なネグリジェだな。わざわざロンドン滞在の為に用意してくれたのか?」
一瞬、その言葉の裏に潜む意味を理解できずにいると、アーサーは私の肩を柔らかく掴んで私を仰向けに押し倒した。背中が弾力のあるベッドに沈み、視界が流れて天井と意地悪な笑みを浮かべたアーサーが映る。
「誘ってくれていると思っていいのか? それなら、喜んで誘いに乗らせてもらうよ。日本の諺にも『据え膳食わぬは男の恥』とあるからね」
ダークブルーの瞳が情欲に塗れた不穏な光を湛え始める。熱を宿した指先が私の首筋から頬へと這い上がってくる。
アーサーが言わんとしていた事をようやく理解して、私は青褪めた。誤解だ。
誘惑する気があるなら、主寝室のベッドに超絶薄いベビードールでも着て潜り込んでいるわよ。ゲスト用の寝室で寝ている時点でその気がない事は分かるでしょうが。
「ま、待って。何かの手違いでスーツケースの中にこれしか夜着が入ってなかったの。だから、そういう意図はないから!」
「なんだ、残念」
アーサーが私の上から退いてくれた事にほっとする。正直、焦った。実際に彼の問いに答える声は、情けないほど上擦って震えていた。
彼はベッドから降りるとサイドテーブルに置いてあったガウンを着てから、もう一着のガウンを私に渡してくれた。
「その恰好じゃ、寒いだろう。これを着るといい」
差し出してくれたガウンを素早く身にまとってから、中断された彼への質問を思い出した。
「アーサー。私、どうして主寝室のベッドであなたと一緒に寝ていたの?」
昨日の夜はゲスト用の寝室で私は寝ていたはずだ。睡眠薬を飲んで寝たから、夢遊病者のように寝ぼけて主寝室まで歩いて、しかもそのベッドの中に潜り込むなんてあり得ない。
「ああ、それはね。あっちの寝室でマリが寒そうに眠っていたから、温めてあげようと思ったんだ。風邪はひきたくないだろ」
アーサーは事もなげにそう言った。
お気遣いありがとう。でもね、それなら毛布一枚掛けてくれるだけで済んだような気もする。
心の中で考えた事が顔に現れたのか、アーサーはくすりと笑って、ベッドの端に座っている私に手を差し出した。
「少しは俺を信用して欲しいな。婚約者だからと言って、許可なしにマリを襲ったりしない。今日は朝からマリがロンドン市内のアリストン総合病院で精密検査を受ける日だから、そろそろ身支度しないと約束した時間に遅れる」
そうだった。カリンさんと病院で待ち合わせしているのだった。
誘拐されて頭を強く打っていたこともあり、記憶喪失に繋がるような脳の損傷がないか、また、総合的な健康診断と検査を受ける為にカリンさんがロンドン滞在に合わせて手配してくれたのだ。
アーサーの手に私の手を乗せると、手を軽く引いて立ち上がらせてくれた。アーサーと目が合うと、抱きしめられて眠っていた事を思い出し、耳まで赤くなる。それに対して、アーサーは動揺の欠片も見せていない。
女性のこういう姿は見慣れているという事なのだろうか。記憶喪失前の私はどこまでアーサーに許していたのか。考えれば考えるほど頭がぐちゃぐちゃになってくる。駄目だ。考えるのは一時保留にしよう。出かける準備をしないと待ち合わせ時間に遅れてしまう。
「ゲスト用の寝室で着替えてきます」
赤くなった顔をアーサーに気付かれないように俯けて、私は逃げる様に主寝室を後にした。
カリンさんが検査を手配してくれた病院は、投宿しているホテルから車で15分ほど走らせた所にあった。アーサーが経営している病院の一つで、最先端技術を積極的に取り入れ、高い医療水準を誇る病院として有名なのだそうだ。
病院の自動ドアを通って受付へ行くと、白衣を着たカリンさんが待っていた。
「おはようございます。カリンさん」
「マリ、おはよう。昨夜は、よく眠れた?」
白衣姿のカリンさんから、今の私にとっては微妙な質問を投げかけられて、頬が熱くなる。視線が泳いでいるのは自覚できるけど、カリンさんもアーサーも直視できないほど、今朝の出来事は思い出すだけでも恥ずかしい。
「眠れたことは眠れたのですが……」
「眠れたけど、なに?」
もごもごと言いづらそうに口を動かす私を見て、カリンさんは私にぴったりと寄り添っていたアーサーに明らかに作り笑顔と分かる笑みを向けた。でも、目が全然笑ってない所が怖い。
「アーサー、今朝は随分と顔色が良いわね。ここ数年見たことがないくらい爽やかな表情をしているけど、今日検査漬けになるマリに無体を強いたって事は、まさか無いわよね?」
「ただ、抱きしめて眠っただけだ。疾しい事は何もしていない」
肩をすくめてとぼけるアーサーを不信感も露にじと目で睨んだ後、私を見遣った。
「アーサーはああ言っているけど、マリは一緒に寝る事を承諾したの?」
カリンさんに呆れたように聞かれて、私は頬を朱に染めたまま、千切れるのではないかと思うほど激しく首を横に振った。
眠っている間にベッドを移動させられたのだから、承諾なんてしてない。
やっぱりね、とでも言いたげに大きなため息をつき、腰に両拳を当ててアーサーを威嚇した。
「マリは承知してないみたいね。同意もなく女性が寝ているベッドに潜り込むのは、十分に疾しい事でしょうが!」
アーサーは両手を肩の上に上げて降参の意志を示す。乳兄弟のカリンさんと乳母だったライラさんだけには、頭が上がらないらしい。
「婚約者だから大丈夫かと思ったんだ。寒そうに眠っていたから、温めようとしただけだ。神に誓ってもいい」
「日曜礼拝にも行かないアーサーが神に誓っても全然重みがないわね」
カリンさんの言葉には容赦がない。
「ここで言い争っても、しょうがないわね。検査項目が多いから、できるだけ数をこなしておきたいのよ。上手くいけば、検査を今日一日で終える事ができそうだから。そうなれば、マリのロンドン滞在中の自由時間が増えるわ。夕方になったら私がホテルまで送るから、アーサーは迎えに来なくていいわよ」
時計をみてカリンさんは話を切り上げた。そろそろ病院の診察時間が始まるようだ。カリンさんがカルテらしき物を持って、レントゲンから始めるわよ、と私を促した。
「アーサー、送ってくれてありがとう」
「また、夕食の時に会おう。カリン、マリをよろしく頼む」
「任せて」
アーサーはカリンさんに私を委ねると、長い脚をさばいてリチャードさんが運転手を務める車へと戻って行った。
朝一番のレントゲンから始まった検査は、昼食抜きで続けられていた。尿検査、血液検査、心電図、脳波、心臓エコー、胃カメラ、MRI、CTスキャン、視力検査、聴力検査、眼底検査、アレルギー検査等々……その合間に行われる専門医の診察。数々の検査室と診療室をカリンさん連れられて病院内をあちこち回った。お昼はとっくに過ぎたのに口にできたのは少量の水だけで、朝食も摂ってない体が糖分を求めてストライキを起こしそうになっていた。
最後の検査はPET-PCというもので、点滴を打った後、一時間ほど安静してから行う検査なのだそうだ。何でも細胞の活動状況を調べる検査で、レントゲンやCTでは発見しにくい小さい癌細胞もこの検査なら見えるのだとか。
「本当は癌の疑いがなければ、この検査はしないんだけど……。アーサーは母親のソフィア様が病弱で若くして亡くなられているから、念には念を入れておきたいそうよ。寝ている間に検査が済むから、もう少し我慢してね」
そうカリンさんに言われたが、40分も検査機の台の上に横になってないといけないと聞いて、検査時間が長いと思ってしまった私に罪はないだろう。
PET-CT検査の待合室は点滴台が二つあり、それぞれが白いカーテンで仕切られていた。私は30分ほど前に点滴を終えて、待合室のソファーに座って検査時間を待っているところだった。時々、看護師さんが点滴の様子を確認しに来るが、忙しいのかすぐに出て行ってしまう。
カリンさんも同僚の医師に呼ばれて、今は待合室にはいない。
朝から検査と診察に追い回されて疲れたせいもあってか、何もする事がないと自然に瞼が降りてくる。うとうとし出した私の意識を引き戻したのは、声を殺して泣いている若い男性の声だった。
その声は奥の点滴台から聞こえているようだった。カーテンに仕切られて状態が分からなくて気になった。ナースコールを押せば、看護師さんが来てくれるはずだけど、それも点滴台にしかない。
まさか、ナースコール押せないほど体調が悪くなったとか!?
声の主が心配になって、奥の点滝台へ歩み寄り、カーテンをそっと開けて中を覗いた。
坊主頭に森の木々を思い起こさせる涙に濡れた深緑の瞳。点滴が刺さってない左手で口元を覆い、その男は嗚咽を堪えていた。私と同じ薄緑色の検査着を着ていて、神経質そうな細い指は神経が昂っているのか細かく震えていた。
「あの……、大丈夫ですか? 何か問題があるなら、看護師さんを呼んで来ましょうか?」
「いや、呼ばないでくれ。自分に絶望していただけだから。放っておいてくれないか」
彼は不貞腐れたように私から目をそむけた。誰に聞かせるでもなく、嘆きの言葉を彼は紡ぎ続けた。
「もう、僕には何の価値もないんだ。音楽だけが僕の全てだったのに。手が、指が思うように動かないんだ。もう駄目だ……」
言葉の端々から感じられる彼の絶望に私は胸が痛んだ。彼は、何かの病気で音楽ができない状況になっているのだろう。音楽が彼にとって人生の重要な要素である事は窺い知れたが、人の価値は音楽だけで決まるものでもないのだ。
彼の姿が記憶喪失になって不安に怯えていた私に重なって見えた。私の周りにはアーサーやカリンさん達がいて、私に援助の手を差し伸べてくれた。だから私はこうやって前を向いて立っていられる。
今度は私が手を差し伸べる番じゃないのか。誰だって病気の時は苦しい。不安や病気に対する怯えを吐き出してもらう事で少しでも軽くできるのなら、お節介かもしれないけど検査までの間、話し相手になってみよう。
カーテンの中に踏み込んで点滴台へ傍まで行き、私は目線の高さを合わせる為に膝を床に付けた。
「この世に無価値な人間なんていません。貴方にとって、音楽は大切なものなのでしょう? だったら、音楽ができるように病気を治す努力をしないと。嘆いてばかりだと、治るものも治りませんよ」
彼は勢いよく頭を反転させて私を睨みつけた。深緑の瞳に底光りする怒りの炎を宿し、左手を握りしめて点滴台に叩き付けた。突然響き渡った大きな音に私は身を竦める。
「僕の病気がどんなものか知らないくせに、安っぽい同情で慰めの言葉なんか掛るな!」
至近距離で怒鳴られて、負けず嫌いの気性に火がつく。瞬時に頭に沸いた言葉を気遣いというフィルーターも通さずに言い放っていた。
「あなたの病気を治そうと、看護師さんや、お医者様が協力してくれているのに、本人が絶望してどうするの。あなたはまだ生きているんでしょう? あなたがどんな病気か知らないけど、生きている限り何か出来る事があるはずよ。生きているのに生きる事を諦めるなんて、死者に対する冒涜だわ。生きたくても生きれなかった人が一杯一杯いたのに!」
悲しいと心が訴える。でも、何故悲しいのか分からない。失った記憶は闇の果てにあり、感情に結びつく情報は頭の中には浮かんでこない。
「……お前、泣いているのか」
彼に指摘されて初めて自分自身が泣いている事に気付いた。目尻から数粒連続して点滴台に涙が落ちて染みを作った。
検査着にはポケットなどついていないため、ハンカチも手元にない。仕方なく手の甲で涙を拭う。
自暴自棄になっている彼に対しては無性に腹が立っていたのに、何故、涙が沸いてくるのだろう。人前で感情をコントロールできないなんて、子供じゃあるまいし、本当にみっともない。
「悪かった。僕が言い過ぎだ。謝る。だから、泣き止んでくれ」
ばつが悪そうに彼は自由になる左手を伸ばし、親指で拭い切れなかった私の涙をふき取った。彼の売り言葉に釣られて、感情を曝け出してしまった自分自身を思い出し少し恥ずかしくなる。
彼も謝罪してくれたようだし、ここは素直に謝っておこう。
「私こそごめんなさい。初対面の人に偉そうな事を言ってしまいました」
俯けてた顔を上げると、彼の頭に黒い靄がかかっているように見えた。何だろうと思って、彼を刺激しないようにゆっくりと右手で靄を払うように幾度か動かすと波が引くように消えていった。
あれ? 目の錯覚だったの? お腹空きすぎて、幻覚でも見えたのかな……。
目をこすって、もう一度黒い靄が見えた彼の頭をじっと見たけど、そこには白い頭皮だけがあった。
「頭を撫でたのは僕を慰めてようとしてくれたのか?」
彼の問いに思考が現実へと引き戻される。
慰めようと思った訳ではない。ただ、黒い靄が気になっただけ。
「あの、ごめんなさい。また、失礼な事してしまって……」
見ず知らずの人に触れられたら、いい気はしないだろう。後先考えずに行動する悪い癖が私にはあるのだろうか。
「頭を撫でてもらうのは、案外、気持ちのいいものなんだな……」
彼は目を細めて、しみじみと呟いた。怒っていない様子に、心の中で胸をなで下ろした。
「お前、名前は? この検査を受けるという事は、僕と同じ病気……なのか? 親はどこにいるんだ? お前に付き添ってないのか……かわいそうに」
彼は矢継ぎばやに質問を浴びせかけた。待合室に私と彼以外の気配がないのに気づいて、最後には何故か同情されてしまっていた。
私をお前呼ばわりするのは頂けないが、彼が纏う雰囲気は刺々しいものから、凪ぎの海面のように穏やかなものへと変わっていた。
「マリ、検査を始めるから検査室へ入ってきて」
カリンさんの私を呼ぶ声が検査室の方から聞こえた。すぐ行きます、と返事をして彼にもう一度向き直る。
「検査が始まるので、もう行きますね。色々と失礼な事をしてしまって、ごめんなさい」
立ち上がってから一礼して彼に謝罪の言葉を述べる。そして、きびを返してカリンさんの待つ検査室へと入ったのだった。
2012.05.26 初出
2012.09.14 改行追加
後半、名前も出てこなかった彼にマリは子ども扱いされています。この場面は削ろうとも思ったのですが、無意識のうちに「癒しの力」をふるう場面なので入れることにしました。




