第19話 石坂書記官の分析
説明ばかり続く話になってしまいました……。
何故、丹後大使がアーサーに大型投資案件を持ちかけたのか、その背景の説明になります。また、アーサーの経歴もここである程度明かされます。
昨日、アーサー・リーフ伯爵が在英日本大使館を訪れてから、外務省と経済通産省所属の大使館員は資料作成や本国との折衝に慌ただしく動き回る羽目になった。
丹後大使がリーフ伯爵と会談した際に大型投資案件に興味を示した事で、本格的な交渉を始めるために、日本から東日本電力副社長、経済通産省副大臣、官房副長官が今日の夕方に在英日本大使館を訪れる事になっていた。
「石坂書記官、リーフ伯爵に関する調査報告書はできていますか?」
「はい、こちらになります」
明日の会談を控えて、リーフ伯爵の人柄や経歴、彼の率いるフェンリル・ファンドの実態を纏めておくように、昨日の午後に丹後大使から指示を受けていた。
深夜まで及ぶ資料の取り纏めには苦労したが、交渉相手を熟知する事は交渉術の初歩でもある。実際に交渉にあたる彼らが短時間で理解できるように、簡潔かつ的確に纏め上げる必要があった。
丹後大使が報告書を目の前で黙読し始めた。
窓口にも近い場所で立ち読みするとは、他の職員もいるというのに情報の取扱いに無頓着すぎやしないか。読むならば、ご自分の部屋に戻ってからにされるべきだ。
そう心の中で思っても実際に口にするのは憚られる。苦々しい思いを口元に浮かべる笑みでコーティングする。腹の中をいちいち顔に出していては、官僚の世界は渡っていけない。
「ふむ。よくできているよ。石坂くん、ご苦労様」
たっぷり10分は経った頃に、丹後大使は報告書を土産に事務フロアを引き上げて行った。
リーフ伯爵は調べれば調べるほど尋常ではない能力の持ち主である事が浮かび上がってくる。交渉役になる二人の政治家と一人の民間人に相手が務まるとは到底思えなかった。
リーフ伯爵は日本語を含む15ヶ国語を操り、大学では経済学と経営学を修め、優秀な成績で卒業している。また、フェンシング部のキャプテンを務め、全英大学選手権大会で二度優勝した事もある文武両道の人だ。
ナント伯爵位を祖父から18歳の時に継承し、伯爵家が所有する数多の不動産と農場経営もその頃から手掛けている。
母親のソフィア・リーフさんは病弱だったためか、リーフ伯爵が24歳の時に死亡している。父親のベルトン・リーフ侯爵は健在で、貴族院議員としても活躍している。もっとも、貴族院には法案を成立させるような権限はなく、議員と言っても無給で、名誉職みたいなものなのだが。
私生活では女性を近づけることなく、まるで修道士のように禁欲的な生活を最近まで続けていたようだ。ほとんどナント伯爵家の領地に引きこもり、ロンドンに来るのは月に一度あるかないか。社交界での付き合いも必要最小限しかしていない。
物静かで理知的な人物だか、人嫌い。
それがリーフ伯爵の性格ではないかと私は分析していたが、昨日見た婚約者に対する溺愛ぶりを見た後では、自分の分析結果に自信が無くなってくる。
ケンブリッジ大学卒業後、彼は24歳で数人の友人と共に投資会社フェンリル・ファンド設立し、僅か10年の間に300兆円の規模に投資会社を発展させた。ただの一度も勝負所での投資に失敗したことがないという実績から、業界では「神の目を持つ男」という称号を欲しいままにしている。リーマン・ショックを無傷でやり過ごしただけでなく、世界的な混乱の中で50兆円近い利益を叩き出している。まさに、投資術の天才だ。
レバレッジを掛けない真水の部分で300兆円の資産を持つ民間ファンドはリーフ伯爵が代表を務めるフェンリル・ファンドしかない。政府系のファンドでも、これほどの資産を持つところは数えるぐらいしかないだろう。
日本は約1000兆円の国債残高があるが、その95%は国内の金融機関や機関投資家が買って消化している。日本国債は利率が低く、海外の投資家は見向きもしないのだが、フェンリル・ファンドは数年前から日本国債を買い増しており、今や国債残高の3%を保有するまでになっていた。
しかも、ここ数か月に渡って円高を阻止する為に行った為替介入の原資調達に発行した10兆円規模の政府短期証券(国の借金)の約七割を彼のファンドが買い占めていた。フェンリル・ファンドが日本円の投資に比重を傾けているのは明らかだった。
日本政府がフェンリル・ファンドに持ちかけようとしている大型投資案件とは、東日本電力への六兆円、利率2.5%、期間20年の融資だ。
大震災時に原子力発電所においてメルトダウンを一部伴った放射能漏れ事故を引き起こした東日本電力は、巨額の損害賠償の発生により経営不安が囁かれていた。円滑な損害賠償金の支払いのために、原子力損害賠償支援機構が設立された。原子力発電所を持つ電力会社からの負担金と国庫からの支出、銀行からの融資を受けた原子力損害賠償支援機構が供給する資金によって、東日本電力は資金的な問題は発生しないはずだった。
しかし、想定よりも遥かに賠償金額が膨らんでしまったため、原子力損害賠償支援機構は更なる資金提供を求めた。各電力会社は原子力発電所の再稼働を得られないまま、火力発電増加による燃料費を転嫁できない電気料金を政府から押し付けられ、赤字経営を強いられていた。その中での負担金の大幅増額には難色を示した。
銀行は数度にわたる巨額融資を原子力損害賠償支援機構に対して行っていたが、この時期になっても特例公債法を始めとする予算関連法案が国会を通過していない事もあって、機構に対しての融資実行に不安を感じ始め、融資を凍結していた。
そして、予算とその関連法案を成立させる責任を負う政府と与党は、自らの無能を棚に上げ、妥協も譲歩も修正も議論もせずに、野党に責任をなすりつけるべく野党批判を繰り広げていた。任期切れが迫る中で自らの不手際を認める事は、自殺行為に等しいとでも思ったのだろう。
いくら予算が衆議院優先で成立するとしても、その財源の裏付けとなる予算関連法案が国会を通過しなければ、その執行に支障をきたすのは当然と言えた。原子力損害賠償支援機構に渡るべき国庫負担分の資金が特例公債法案成立――この法案が成立しないと赤字国債を発行できない――まで停止されることになったのである。こうして、資金が枯渇し無い袖を振れなくなった原子力損害賠償支援機構は、東日本電力にとっては命綱といえる資金供給の道を途切れさせることになった。
政府はこの事態を乗り切るために、数兆円規模で資金を貸し付ける余裕のありそうな世界各国の金融機関に東日本電力への融資を要請したが、政府主導で昨年に借入金を株式化することで東日本電力の財務体質を改善しようとした――情報が洩れて東日本電力の株価が急落しすぎたため実行できなかったが――こともあって、どの金融機関も融資には応じなかった。
当たり前といえば当たり前の話だ。金融機関が欲するのは、貸出金元本の保全と利子の収入であり、配当の見込みもなく今後数十年に渡って賠償義務を負い続けなければならない会社の経営権ではないのだ。
政府は実行性も実現性も薄い方策を希望的観測だけを頼りに強行しようとして、時間を徒に浪費していた。
資金供給の道を断たれ、孤立無援の状態になった東日本電力は、迫りくる資金のショートに備え、会社更生法申請の準備を始めていた。日本の半分の人口と工業地帯に電力を安定供給する役目を担っている以上、無秩序な倒産などできるはずもない。電力の供給は一瞬たりとも止める訳にはいかないのだ。
会社更生法の手続きが開始されれば、損害賠償を含めた一般債権も、銀行が融資した貸付金も大幅な削減を余儀なくされる。それがどれだけ日本経済に影響を与えるか想像もしたくない。政府に説得されて、東日本電力は会社更生法の申請をギリギリまで待ってくれるようだが、それほど残された時間は多くは無いと言えた。
政府と与党がまともな政権担当能力を持っていれば、こんな喜劇は起こらなかっただろう。しかし、そんな人々を選挙で安易に代議士に選んでしまったのは、他ならぬ日本国民なのだ。まさに、今、そのツケが回ってきている。
「石坂さん、相談したい事があるのですが……」
思索に耽っていると、昨日リーフ伯爵とその婚約者の聴取を一緒に行った小林君が声を掛けてきた。熊のような体格を持っているが、外見に似合わず心根の優しい青年だ。
「何ですか?」
「明日、リーフ伯爵が丹後大使と会談されるそうですね」
「ええ」
リーフ伯爵が丹後大使だけではなく、日本からやってくる東日本電力の副社長と政府高官の二人とも会う事は、一部の大使館職員以外には伏せられていた。マスコミに嗅ぎつけられると周囲でいろいろと騒がれて、交渉に支障をきたす怖れがあるためだ。
「実は葉山さんからリーフ伯爵の調書に関してダメ出しをされまして、可能ならもう一度聴取してこいと指示かあったのです。それで、会談の後の予定がなければ、リーフ伯爵に聴取に協力して頂きたいのですが、構いませんか?」
リーフ伯爵は日本政府が縋りつきたい交渉相手だ。些細な事が交渉破綻に結びつく事もある。この交渉に失敗したら、東日本電力は間違いなく会社更生法申請に踏み切るだろう。
――もう、時間はないのだ。
「それは、難しいかもしれませんね。丹後大使はリーフ伯爵をランチにお誘いするような事を言ってましたから」
交渉を波風立たないようにするために、私は小林君に嘘をついた。この交渉を成功に導く。それが国益になると信じるからだ。
「そうですか。では、今回は諦めます」
小林君は、お邪魔しましたと一礼して去って行った。
明日から、東日本電力の命運が、ひいては日本の半分の国民の生活に関わる重要な交渉が始まる。
2012.05.25 初出
2012.09.14 改行・あとがき追加
2012.11.18 あとがき更に追加
経済について興味のない方は、飛ばして下さい。話の中で出てきた「特例公債法案」「日本国債」「為替介入と政府短期証券」について補足しておきます。
「特例公債法案」
財政法では赤字国債の発行を認めていません。赤字国債の発行を可能にする一年限りの法律が特例公債法です。成立した2012年度の予算規模は歳出90兆円。歳入に占める新規国債発行は44兆円です。この後書きを書いている時点で、この法案は成立していません。
普通は、予算提出と同時に特例公債法案を提出するものなのですが、ここ二年はそれができてないですね。
これが成立としませんと、いずれ資金が足りなくなって政府機関が止まります。その時期は8月とか9月とか言われています。作中のように12月まで活動できている事はないでしょう。
平成24年9月、安住財務大臣が予算執行の抑制を発表しました。その時の記者会見によると、政府は特例公債法案が成立しないと12月の支払いができないそうです。
12月の支払いを資金繰りのあてにしていた企業はどうなるんでしょうかね?仕入れ先の支払を免除してもらえますか?従業員の給与の支払いを政府が払ってくれるまで待ってもらいますか?できるわけありませんね。そんな事をすれば、信用を一瞬にして失います。
銀行から借り入れできなければ、不渡出して倒産するという事にもなりかねません。企業が潰れてしまったら、そこで働く人の雇用は失われます。ド素人の私でも、このぐらいの想像はつくのに、政府は何をやっているんでしょうね――――――――。
政権与党の某党は、「国民の生活が第一」というスローガンを掲げていたと思いましたが、その行動はその真逆を行くものばかりですね。
→特例公債法案は平成24年11月16日に成立しました。この間、政府の予算執行抑制により、地方自治体は銀行にお金を借りて資金繰りをし、余分な利息を支払う等、地方財政に影響が出ました。
予算の執行抑制なんて前代未聞の事態です。予算の円滑な執行の責任は政府が負います。予算執行抑制する前に、あらゆる手段をそうならないようにするのが責務のはずなのですが、その自覚もなかったようです……。
「日本国債」
日本国債はすべて円建て(自国通貨建て)です。しかも金利は世界最低水準です。債権の世界では金利が低い=「安全と市場が見ている」となります。また、ほとんど国内機関投資家で消化できています。本当に日本は良い意味で特殊な国です。アメリカ国債だと半分ぐらいが海外が買っているらしいです。
自国通貨建ての国債は、デフォルト(債務不履行)しようがありません。極端な話、返すお金がなければ刷ってしまえばいいのですから。よく「日本国債はデフォルトする~」と言っている人がいますが、それなら日本国債の金利が世界最低水準だということをどう説明するのでしょうかねぇ?
今までデフォルトを起こした国債は、外貨建ての国債です。外貨は刷れませんからね。
「為替介入と政府短期証券」
たびたび、円安に誘導するために為替介入をしていますが、この原資はどこから来るのでしょうか? 実は民間の金融機関から借金して集めているのです。
政府が政府短期証券を発行して、それを民間の金融機関に買ってもらって資金を調達しています。それをドルに両替して円安に誘導します。2011年10月28日~11月28日の一か月間で9兆円もの為替介入を行ったとニュースで流れてましたが、それだけ国の借金を積み上げたということになりますね。
しかも、ドルに換金しただけなので、景気対策の足しにもならないという非常に効率の悪いお金の使い方をしています。




