第18話 追いつかない心
日本大使館のアーサーへの聴取が終わるのを待って、私達はロンドン市街のレストランで少し遅めの昼食をとった。
私は日本大使館でのやり取りを思い出して、あまり食が進まなかった。アーサーは日本大使館側から大きな商談を持ちかけられたらしく、秘書のリチャードさんとお仕事の話をしていた。
「マリ、どうした? あまり食べてないようだが……。病み上がりの体でロンドンに来るのは早すぎたのか?」
アーサーがあまり減っていない私の皿の上の料理に気付いて、心配そうに私を見た。
二日後にはDNA検査用の血液採取もある。ここで体調不良を理由にナントの館へ強制送還されて血液採取をすっぽかせば、小林さん達に逃げたと思われるかもしれない。そんな風に思われたら、真面目に調査なんてしてもらえなくなるだろう。それだけは避けたい。
「ごめんなさい、アーサー。ちょっと考え事をしていただけだから、心配しないで。体調の方は大丈夫よ」
できるだけ明るく聞こえる様にアーサーに答える。
「社長が中で聴取を受けている間に、マリさんから聴取の様子を聞きましたが、大使館員達はマリさんの訴えを疑ってかかったようではないですか。体調は何ともなくても、疑いの目で一時間もみっちり聴取を受けていたら、精神的に疲れてしまいますね」
リチャードさんは、私が指紋を採取された事を知って、信じられないと驚いていた。今はDNA検査の精度が飛躍的に高まっているのだから、指紋を採る必要はそれ程ないはずなのにと同情してくれた。
「疲れているなら、この後の予定はまた今度にしよう。マリは、ホテルで休んでいるといい」
「ごめんなさい」
昼食の後、私はカーリントンホテルにアーサーと一緒にチェックインした。
このホテルはアーサーの父親が経営しているホテルの一つで、ロンドンでも五指に入る歴史のあるホテルなのだそうだ。
重厚な装飾が散りばめられたエントランス。ロビーの絨毯は足が埋まるのではないと思うほどふかふかで、受付のホテルマンも一分の隙もなくホテルの制服を着こなしている。流れる様に美しい動作は、ホテルの教育が十二分に行き届いている事を示していた。
こんな高級感も上品さも溢れる場所に、私なんかが居て良いのだろうか。場違いな感じがする。
黒いスーツに身を包んだ支配人の挨拶を受けた後に案内された部屋は、最上階にある広いスィートルームだった。
主寝室にはキングサイズのベッドがあり、居間に置かれたソファーもカウチもその上に置かれたクッションも上質の物だった。主寝室の奥には浴室があり、居間の続きには簡易キッチンまで設けられていた。主寝室とは居間を挟んで反対側にあるゲスト用の寝室にはシャワー室がある。
ベルボーイが荷物を主寝室に運び込んで出ていくと、アーサーは早速フロントへ内線を掛けた。それが終わると、今度は携帯電話で誰かと話しながら、アーサーはトランクの中からノートパソコンと薄い書類ケースを取り出して、ビジネスバッグへ入れた。
コートを脱がないところをみると、すぐにどこかへ出かけるようだ。
「マリ、これから俺は本社へ行ってくるけど、一人でホテルの外に出歩かないように。約束してくれるね」
「約束する。『ここは日本と違って治安が良くないから』でしょ?」
ロンドンに来てからアーサーに何度も聞かされた科白をそのままなぞった。ふっ、とアーサーの顔が綻ぶ。
「夕食は部屋で食べられるように手配しておいた。仕事で遅くなりそうだから俺を待つ必要はない。早めに寝て、疲れをとるといい」
「お仕事、上手くいくと良いね。行ってらっしゃい」
「ああ、行ってくる」
アーサーをドアの前で見送ると、私はスィートルームに一人ぽつんと残された。
アーサーから聞かされた話だと、私はロンドンで誘拐されかけた事があるらしい。車の後部座席に押し込められそうになっていた所を、誘拐犯を殴ってアーサーが救出してくれたのだそうだ。それがアーサーと私の出会いだったと教えてくれた。所持金を奪われて途方に暮れていた私を保護してくれ、婚約して日本に帰るまでの一週間、ずっと傍に居てくれたという。
私が誘拐されかかったロンドンについてからのアーサーは不安なのか、事ある毎に私に触れたがった。車の中では指を絡めて手を繋ぎ離そうとしなかったし、ふとした事で手を私の頬へと伸ばしてくる。
記憶喪失になる前となった後の私を比較して、アーサーを婚約者として受け入れる事ができないでいる私にもどかしさを感じているようにも見えた。
ナントの館では、アーサーは仕事の合間に可能な限り時間を作って、体調が悪くて伏せていた私を励ましに会いに来てくれた。優しいし頼りがいのある人だとも思う。
記憶喪失になり不安な気持ちで過ごす私に安心させてくれる言葉を与えてくれる。理想的な婚約者だと十人中九人は、そう言うだろう。
ここ一週間ほどアーサーに接して人なりはそれなりに掴めたと思えるのに、何かとても重要な事を忘れてしまっている気がして、アーサーに心を全面的に預けられない私がいた。
正直なところ、スィートルームへ案内されて、部屋を一つしか取ってないのかと焦っていた。主寝室と比べれば小さくまとまったゲスト用の寝室を発見した時はどれだけほっとしたか言い表せない。
アーサーは嫌いじゃない。どちらかと言うと友人以上恋人未満の好きだという感情は芽生えてきてはいると思う。でも婚約者として全てをアーサーに委ねられるか問われれば、今は否としか答えられない。
当たり前のように主寝室に運び込まれた私とアーサーの荷物。周りが私達をどう認識しているかを如実に物語るそれを見るにつけ、現実に心が追い付かない状況に、ため息が一つ零れた。
私のスーツケースを自力で主寝室からゲスト用の寝室へ移動させた。スーツケースを開けて、当面必要になる服をクローゼットへ掛けていく。
その過程で、荷造りしていた時にスーツケースの中に入れたと思ったパジャマがなく、新しく入ったメイドのポピーさんが熱心に勧めてくれた肩と背中が大きく開いているネグリジェしか夜着がない事に気付いた。
スーツケースに詰め切れない服を荷造りし直した時に、間違って仕分けてしまったのかもしれない。裾が膝の下あたりまでしかないような、服としてはあまり機能的でない物だけど下着姿で寝るよりはマシだろう。ただ、ちょっと足が冷えるかもしれない。まあ、いいか。数日我慢すればいい話だし。
この時、私は呑気に考えていたが、翌朝思いっきり後悔する羽目になった。
* * * * * * * * * *
リチャードが運転する車の窓から見えるロンドンの夜の街並みは、クリスマスが近づいてきていると感じさせるイルミネーションで溢れていた。
マリの体調を気遣ってホテルで休ませている間、俺は丹後大使から誘いかけられた投資案件の情報収集と分析を進めるべく、フェンリル・ファンドの本社で業務を精力的にこなした。そのため仕事を終えてホテルへ戻ろうとする頃には、すっかり夜も更けてしまっていた。
ロンドンに着いてすぐにマリのパスポート再取得に向かったのは、俺にとっても避けて通れない課題だったからだ。
マリはビザを持っていない。日本から観光目的でのイギリスへの入国ではビザは必要ないが、最大六か月間しか滞在できない。
マリがすぐにでも俺との結婚を決断してくれれば、マリの在留許可を取る事はそれほど難しくない。しかし、マリに婚約を押し付けるような事はしないと誓った以上、マリに結婚を決断させるのは長期戦になる事を覚悟しなければならない。
不法滞在で入国管理局にマリを俺の手の中から攫われないように、記憶喪失による治療を理由にした在留許可を取るために、マリのパスポートが必要だった。どこの国の人間か分からない人物に、我が国が在留許可を与えるはずがないからだ。
だが、日本には戸籍というものがあるらしく、その確認が取れないとパスポートは発行できないと日本大使館の書記官から聞かされた。イギリスでは馴染みのない日本の制度だ。
調べてみると、戸籍は出生によって作成され、婚姻や離婚、養子縁組、子の出生等の身分関係の情報が記録される仕組みらしい。1300年以上前から脈々と受け継がれている制度だと知って、本当に日本は伝統を大事にする国なのだなと、改めて感心してしまう。
ナカガワ・マリの名は偽名だ。その戸籍など存在するはずもない。パスポートを発行させるためにはどうすればいいか……。
思考を巡らせているうちにカーリントンホテルの近くまで来ていたらしい。リチャードが明日の予定を聞いてきた。
「社長、明日は何時にお迎えに上がりましょうか?」
「八時に頼む」
「はい」
ホテルに着くとドアマンが車の後部座席のドアを開ける。俺は車から降りるとフロントで伝言がなかったかを確認してから部屋へと向かった。
マリは既に眠っているのか、居間の灯りは消えていた。ビジネスバッグをソファーの上に放り投げて奥へと進む。
主寝室に入るとマリを明かりで起こさないように間接照明だけを灯した。柔らかい光がぼんやりと辺りを包み込む。
ベッドの中にマリの姿はなかった。ベルボーイが運び込んだはずのマリの荷物も消えている。
まさか、記憶が戻って俺から逃げたのか?
携帯電話を操作して、マリに持たせたGPS機能付き携帯電話の位置情報を確認する。画面にはこのホテルの地図が映し出された。
ということは、この部屋のどこかに居る可能性が高いな。確か、このスィートルームにはゲスト用の寝室もあったはずだ。
ゲスト用の寝室を覗いてみるとベッドの中にマリがいた。マリは寒いのか体を胎児の様に丸め、上掛けを目元まで引き上げて眠っていた。ベッドのすぐ横にあるサイドテーブルには、カリンが処方した睡眠薬の袋と水が僅かに残ったコップが置いてあった。
マリの姿を認めて、ほっと胸をなで下ろす。逃げたわけではなかったのだ。
彼女を地下室に監禁していた時には感じなかった焦燥感が、俺をじりじりと追い詰めている。
マリが記憶を取り戻して俺から離れて行くのではないか。俺とは違う誰かがマリの手を取って、俺からマリを奪っていくのではないかと、日々気が気でない。
こんな怖れを心の内に抱えるぐらいなら、いっそのこと地下室へ閉じ込めてしまおうかと考えた事は、一度や二度ではなかった。それを実行しなかったのは、マリが戸惑いながらも少しずつ俺に対して心を開いてくれているという手ごたえがあったからだ。
社交ダンスのレッスンでリーダー役を務める俺がホールドの位置を教えるだけでも、マリは顔を赤くして挙動不審に陥っていたのが、最近は人前でなければ、抱きしめても羞恥に頬を染めながらもその身を委ねてくれるようになった。不安と困惑の表情だけではなく、作り物ではない心からの笑顔を俺に向けてくれるようになっていた。
婚約者という立場を利用し、拒絶される手前ギリギリまでの行為を見極めて、徐々に俺という存在をマリに浸透させていく。この企みは、もどかしいほどゆっくりではあるが、着実に成果を上げつつあった。
寒さに対する無意識の防衛反応なのか、マリはもぞもぞと体を動かして、更に深く布団の中へ潜ろうとする。
寒いなら添い寝して熱を分け与えてやれば良いのだ。
睡眠薬を服用しているために、俺が部屋に入ってきているにも関わらず目を覚まさないマリを主寝室へ移すべく上掛けを剥いだ。
目に入ったのは肩も背中も大きく開いている水色のネグリジェ。裾も膝下までしかなく、隠しきれない白く華奢な脚と腕を無防備に晒している。
これはマリの趣味じゃないな。
記憶喪失後、マリを館に迎え入れた初日は服も碌に用意できなかったため、あり合わせのネグリジェを着せたらしいが、それ以降は質素なパジャマで夜着は通していたはずだ。メイドに無理矢理すすめられたか、これしかスーツケースに入ってなかったかのどちらかだろう。
寒さを凌ぐには不適当な夜着だが、生気を心臓から貰うのには丁度いいな。
そんな不埒な感想を胸に秘めながら、マリを抱き上げて主寝室へと向かい、ベッドにマリをそっと降ろした。俯けにさせて心臓付近の背中から生気を啜りあげていく。背中に幾つか赤く咲いている鬱血痕に鮮やかな痕が一つ加わった。
マリは一瞬だけ肩をぴくりと震わせたが、睡眠薬がまだ効いているため眠ったままだ。
毛布と上掛けをマリに掛けてやってから、シャワーを浴びに浴室へ向かった。手早くシャワーを済ませてベッドへ戻ると、マリの隣に体を潜り込ませた。マリの体を背後から抱きしめる形で腰と肩に腕を回す。マリの脚が冷たくなっていたので、俺の脚を絡めて温めてやる。マリの象牙色の肌は滑らかで柔らかく、その華奢な体は俺の腕の中にすっぽり収まるほど小さい。下手に力を入れて抱きしめてしまえば、体がぽっきりと折れてしまいそうだ。
体温を与えて体が温かくなったのか、マリの寝顔が穏やかなものになったような気がした。
半裸の俺とベッドの上で抱きしめられながら眠っていたと知ったら、どんな顔をするのだろうか。寒そうに寝ていたから温めてあげたという――下心満載とはいえ――大義名分はあるのだから、決定的に嫌われるという事は無いだろうが……。
肌を重ね合わせているマリの小さな背中から俺の胸に体温の熱以外に緩やかに染み込んでくる甘やかで温かいものがある事に気付く。
これは――生気だ。
今まで犠牲者から奪う事でしか得られなかったものを、マリは自ら俺に与えてくれるというのか。
マリの生気が優しく俺を包み込み、体の隅々まで満たされていく。春の陽だまりにいるような心地よい温かさの中で、久しく感じたことの無い安眠が訪れた。
2012.05.24 初出
2012.09.14 改行追加
今までの犠牲者は体外に溢れ出すほどの生気の量を持っていませんでした。だから肌を重ね合わせただけでは生気を受け取れなかったのです。一方、マリは生気が体内に収まりきれずに溢れかえっている状態なので、これが可能となっています。
――おまけ裏話―― とあるメイドの独白
マリ様はとてもかわいい方です。チーフであるライラさんの目がなければ、あんな服や、こんな服をとっかえひっかえ着せ替えて、眼福に浸れるものを。くうっ。
そうそう、明日からマリ様はアーサー様とロンドンに一週間ほどの予定で滞在されるそうです。アーサー様がロンドンに出張される時は、ほとんど日帰りか、長くても一泊二日しかされなかったらしいのですが、こんなに長く滞在されるのはここ八年ほどは、アーサー様がマリ様に出合った時と今回ぐらいだとライラさんから聞きました。
これは、もしかして、もしかすると、もしかしますよ。
マリ様は気づいてないのか、スーツケースに夜着として、いつも着ている質素なパジャマを詰め込もうとしてますよ。いけません。頂けません。
昨日お勧めしたマリ様の魅力を引き立てるネグリジェは持って行って頂けないのですか? 残念です。
あら、マックス執事の授業が始まるようですね。マリ様はライラさんに呼ばれて部屋を出て行ってしまいました。スーツケースの鍵はかかってませんね……。この隙に入れ替えてしまいましょ。むふふふ。
R15って、どこまでの描写が許容されるか……、難しいですね。書きすぎて削除されたー、なんて事がないようにしたいです。




