第25話:妹姫の願いと、崩れ落ちた忠臣
紅子は兄・蜜柑の部屋の扉を控えめにトントンとノックした。
返事がないことに首を傾げ、そっと扉を開けて中を覗き込むが、部屋の中には誰もいなかった。
「……兄様、いらっしゃらないのね……」
ぽつりと呟き、静かに扉を閉める。
部屋を後にし、廊下をゆっくりと歩いていると、少し向こうから足音が聞こえてきた。部下の柚葉と何事か真剣に打ち合わせをしながら歩いてくる、烏山冬華の凛々しい姿だった。
(……冬華様。相変わらず、本当にかっこいいわ。……絶対に、兄様とお似合いなのに)
紅子は憧れと親愛の込もった眼差しで、歩いてくる冬華の姿をじっと見つめる。
ふと、ただならぬ視線を感じ取った冬華が立ち止まる。
「紅子様。どうかされましたか?」
冬華はいつもの冷静で凛とした表情を和らげ、優しく微笑みかける。後ろに控えていた柚葉も頭を下げた。
「……冬華様には、お心に決めたお相手はいらっしゃるのですか?」
思いがけない紅子からの問いに、冬華は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに穏やかに首を振った。
「いえ、そのような方はおりませんよ」
その横で、柚葉が「まあ、このお方は仕事一筋ですからねぇ」と言いたげに苦笑いを浮かべる。
「それなら……兄様なんて、いかがでしょうか? 冬華様が私のお義姉様になってくださったら素敵だなと、最近特に思っているのです」
はにかみながら、可憐な笑みを浮かべて紅子が告げた。
「………………は? わ、私、ですか……!?」
あの冷静沈着な冬華が、目を見開いてパチクリとさせた。
「あらま……」
隣にいた柚葉の口からも、思わず素の声が漏れ出る。
「はい。だって冬華様はお優しくて、お仕事も完璧で、本当にお綺麗なんですもの。それに、冬華様が兄様のお嫁様になってくださったら……私、毎日冬華様にお会いできるでしょう?」
(ッ……!? べ、紅子様が……! あの、旦那様が何よりも大切にされている紅子様が……! 私が旦那様の伴侶になることを……望んでくださっている……!?)
押し寄せたあまりの衝撃に、冬華は手に抱えていた重要な書類一式を「バサバサッ!」と廊下にぶち撒けてしまった。
「あ、冬華様!?」
慌てて柚葉が屈み込み、散らばった書類を拾い集める。
「……あ、えっと……こ、光栄の至りにございます……! た、ただし、こればかりは旦那様のお気持ちがございますので……私のような者が勝手に口を挟むわけには……」
狼狽を隠しきれず、顔を真っ赤にしてしどろもどろになる冬華。
(あの冬華様が、あんなに盛大にテンパってる……! まじか!……でも待てよ、威厳ある独裁者の旦那様と、完璧で美しい冬華様……意外と、めちゃくちゃお似合いなんじゃないかしら?)
柚葉は必死にニヤニヤしそうになる口元を抑えながら、二人を見比べる。
「で、では……私たちはこれで失礼いたします!」
冬華は深々と紅子に頭を下げると、逃げるように早足でその場を去っていった。
「あ、冬華様! 待ってくださいー!」
柚葉も慌てて後を追う。
そして、廊下の角を曲がり、紅子の視界から完全に外れた瞬間――。
「ッ……!」
冬華は糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
「と、冬華様!? 大丈夫ですか!?」
書類を抱えた柚葉が本気で慌てて駆け寄る。
(あーーーっ! なんなの!? どういうことなのよ……ッ! 紅子様……! 尊すぎる……尊すぎて眩しい……! だけど、私なんかがあのお方の伴侶だなんて……そんな夢みたいなこと、想像していいわけがないでしょう……ッ!)
冬華は胸を強く締め付けられ、感極まったあまりに全身をぷるぷると震わせていた。
何を隠そう、冬華はずっと昔から、密かに主君である夜桜蜜柑を慕い続けていたのだ。
自分のこの淡い想いが蜜柑に気づかれなくてもいい、報われなくてもいい。ただ一生、彼の影として忠誠を捧げ、側に仕えることができればそれだけで幸せだと心に誓っていた。
冬華の親もまた、先代に仕えていた夜桜家の忠臣である。
だが、先代当主は穏やかで心優しく、どの勢力とも争わない平和主義者だった。それゆえに冬華の親は、強権的で冷徹な独裁者となった蜜柑のやり方に内心疑問を抱きつつも、そんな蜜柑に憧れ、目を輝かせて付き従う娘の将来を案じてもいたのだ。
浮いた話の一つもなく、恋人も作らずに蜜柑に全てを捧げる冬華を見て「いっそのこと、蜜柑様がうちの娘を娶ってくれたらどんなに安心か……」と大それた淡い期待を抱いていたほどだった。
そんな大好きな主君の妹であり、自分が守るべき宝物である紅子から、「兄様のお嫁様になってほしい」と望まれたのだ。
冬華にとって、これ以上の感涙と混乱はない。
「……冬華様? 本当に大丈夫ですか……? 顔、真っ赤ですよ……?」
そんな乙女な内情など知る由もない柚葉は、青ざめたり赤くなったりする冬華を、本気で心配そうに覗き込んでいた。
一方、静かになった廊下で、紅子はポツリと佇んでいた。
「……もしかして、冬華様はお嫌だったのかしら。でも、私にはどうしてもお似合いに見えるのだけれど……」
ふと、またしても胸の奥から湧き上がろうとする白夜の凛々しい面影を必死に頭の中からかき消しながら、紅子は「兄様と冬華様が結ばれたらいいな」と、大好きな家族の幸せに思いを馳せるのだった。




