第92話 跳ぶ先を見ろ
荷揚げ場の階段は、下へ行くほど一段の高さがばらついていた。
削れた角もあれば、薄く砂の積もった段もある。俺は集光灯を少し下へ向け、テッサの足元と、その先を照らした。
上から見えていた壊れた荷台が、少しずつ目の高さへ近づいてくる。四本の鎖のうち一本だけが張り、残りは床へ弛んでいた。
「あれ、乗ったら動くかな」
テッサが言った。
「傾く方には動きそうだ」
「そういうのはいい」
最後の踊り場へ下りたところで、リオが立ち止まった。
弓を持ったまま、床に倒れた木箱を見ている。
「何かいた」
俺も灯りを向けた。
箱の縁から、細い尾が消えた。
鼠にしては長い。そう思った直後、隣の木箱の上に、茶色い身体が現れた。
胴が長く、脚が短い。尖った鼻先の下から、白い牙が覗いていた。細い前脚に比べ、後ろ脚の付け根だけが妙に太い。
「跳ね牙イタチだ」
リオが声を落とした。
「ギルドの注意書きにあった。箱や岩の上から跳んでくるって」
名前を聞き終えるより早く、その身体が縮んだ。
次の瞬間には、木箱の上から消えていた。
「上!」
テッサが盾を持ち上げる。
爪が鉄の縁を掻き、茶色い身体が盾の向こうへ落ちた。床へ転がるかと思ったが、魔物は前脚をついた勢いで身体を捻り、壊れた荷車の下へ潜り込んだ。
速い。
短槍を向けた頃には、もう何もいなかった。
「落ち着いて狙う時間、くれないね」
テッサは盾を下ろしすぎないまま言った。
俺は灯りを踊り場の石台へ置いた。広く照らすよう覆いを調整し、短槍を両手で構える。
階段を背にしていれば、正面を見るだけで済むと思った。
だが、リオがすぐに首を振った。
「左にもいる」
壁際の崩れた石積み。
俺たちの肩ほどの高さに、もう一匹がいた。
二匹目は、こちらを見下ろしていた。盾の正面へ来てくれる相手ではないらしい。
◇
先に動いたのは、荷車の下に隠れた方だった。
床すれすれに飛び出し、テッサの右側を走る。
俺が穂先を下げると、今度は石積みの一匹が身を縮めた。
「左、跳ぶ!」
リオの声でテッサが向きを変えた。
盾が上がる。
同時に、床の一匹が俺へ向かってきた。
突いた。
外した。
茶色い背中が穂先の下を抜け、急に大きく見えた。
俺は右足を一段上へ引き、槍の柄を身体の前へ戻した。足を狙った牙が、さっきまで爪先のあった石を噛む。
その頭を、柄で横へ払った。
手応えはあった。だが倒せるほどではない。魔物は短く鳴き、また荷車の陰へ逃げた。
上から跳んだ一匹も、テッサの盾を蹴るようにして離れていた。
「階段、邪魔だな……」
口にしてから、違うと気づいた。
俺たちの足が揃わない場所で、相手の方が自由に動いている。
石段で練習したとき、ベックは、段を使えば必ず有利になるとは言っていなかった。上がる足と下がる足を間違えれば、平地より簡単に転ぶ。
今も、俺だけが一段高い。テッサが下がれば、俺の膝へ盾が当たる。
「下の広いところへ出よう。箱から離れる」
踊り場の先には、壊れた荷台を避けて通れる石床があった。荷車と壁の間より、ずっと広い。
「私が先に出る」
テッサが盾を斜めに構えた。
「リオ、左を見て」
「分かった」
リオは二段上に残った。テッサと俺の頭越しに射る位置ではない。階段の外側へ寄り、石積みの上を横から見られる場所だ。
弓が短いおかげで、手すりの残骸に下端をぶつけず構えられていた。
テッサが下へ出る。俺も足場を確かめて続いた。
荷車の陰から一匹が顔を出した。
追ってはこない。
俺は穂先を向けたまま、相手の後ろ脚を見た。
先ほどは、消えたように感じた。けれど、跳ぶ直前には必ず身体を縮めている。
跳んでから追うには速すぎる。
その前なら、どうだ。
「リオ。着くところ、見られるか?」
「どこに跳ぶか分かれば」
「俺も、まだ分からない」
「じゃあ、分かるようにして」
簡単に言う。
ただ、リオの弓がどこを向いているかは分かった。
俺たちの右奥。蓋の外れた、低い木箱だった。
◇
石積みの一匹が、壁を伝って場所を変えた。
テッサがそれを追い、盾の角度を直す。正面を隠すだけでは、上から首を狙われる。
俺は床の一匹へ短槍を突き出した。
届かせるためではない。
荷車の下から、真っすぐ俺たちへ走る道を塞ぐ。
魔物は鼻先を引き、右を向いた。
低い木箱がある。
太い後ろ脚が縮んだ。
「箱!」
声を出したときには、もう跳んでいた。
リオの矢は、空中の身体を追わなかった。
木箱へ前脚が触れた瞬間、弦が鳴った。
矢が肩の後ろへ刺さり、魔物が箱の縁から落ちる。脚を動かして逃げようとしたところへ、俺は二歩だけ詰めた。
穂先を下げ、胴を突く。
今度は届いた。
引き戻して、すぐに離れる。次の一匹を見失う方が怖かった。
「上のが来る!」
テッサの声が響いた。
振り返ると、もう一匹が石積みの端へ出ていた。
向いているのは、階段のリオだ。
射った直後で、次の矢はまだ弦に掛かっていない。
俺は床の小石へ意識を向けた。
丸いものを探す余裕はない。回転を揃える時間もなかった。
小石を、そのまま弾く。
石弾は魔物の身体を外れ、後ろ脚の脇へ当たった。石片が散り、魔物が一瞬だけ足を引く。
その間に、リオは弓を下げて二段戻った。
跳ね牙イタチが宙へ出たときには、狙った場所に誰もいなかった。
身体は空中で向きを変えた。
だが、飛んでいく先まで変えられるわけではない。
階段の端へ着地し、爪が滑る。
テッサが踏み込んだ。
盾の面で押し潰すのではなく、上がろうとする頭の前へ盾を差し入れる。魔物が身を翻し、下へ飛び降りた。
そこには、広い石床しかない。
俺は追いかけず、着いた先へ穂先を置いた。
一度目の突きで肩をかすめる。
魔物が身体を曲げ、槍の横を抜けようとした。
短く引く。
足を半歩ずらし、穂先の向きを変える。
《返し突き》。
二度目は、胸の下へ入った。
茶色い身体が石床を滑り、その先で止まった。
俺は短槍を引き戻し、息を吐いた。
階段の上で、リオが次の矢を掛けている。テッサも盾を構えたまま、木箱の間を見ていた。
しばらく待ったが、別の影は現れなかった。
「……二匹とも、止まってる」
俺が言うと、ようやくテッサが肩を下げた。
「盾の上まで仕事が増えた」
「上は空いてたからな」
「閉めたい」
「見えなくなるぞ」
彼女は少し考え、盾の縁から顔を出した。
「それは困る」
笑うと、さっきまで詰まっていた息が通った。
◇
周囲を確かめてから、リオが矢を回収した。
俺は短槍の汚れを拭いながら、最初に外した場所を見た。
あそこでは、相手が動くたびに穂先を追わせていた。間に合わず、近づかれ、慌てて足を引いた。
最後は、跳んだ先を見ていた。
「空中で当てなくてもいいんだな」
俺が言うと、リオが矢の軸を確かめながら頷いた。
「箱に乗るなら、一度はそこに足が着くから」
「最後のは、俺が場所を空けたみたいになったけど」
「ちゃんと見えてたよ。次は、もう少し早く言って」
自分の動きが、誰かの狙いを作る。
盾だけが相手を動かすわけではないらしい。
テッサは階段を振り返った。
「私、今日は段を踏み外さなかった」
「見てた。足を揃えてから押してただろ」
「揃えないと、盾ごと下りるからね」
石段での訓練では、何度もそうなった。練習で済んだ転び方を、ここで繰り返さずに済んだのはありがたい。
休憩を挟んで、俺たちは荷揚げ場の下を調べ始めた。
壊れた荷台には近づきすぎず、壁に沿って進む。木箱の多くは底が抜け、荷車の枠には車輪さえ残っていなかった。
ただ、床の轍は奥まで続いていた。
広い通路へ入り、緩い坂を上る。
しばらく歩いたところで、テッサが立ち止まった。
「あれ、見た」
低い梁。
その下で、道が左右に分かれていた。
俺は振り返り、今上ってきた坂を見る。それから、もう一方に続く細い階段を見た。
建物の奥で選んだ分かれ道だった。
「右も、荷揚げ場へ行けたのか」
俺たちは左の階段を上り、上の足場へ出た。
今は下から、右の坂を戻ってきた。
リオが地図を取り出す。
別々に伸びていた二本の線が、荷揚げ場のところで繋がった。
「回れるね」
短い言葉だった。
けれど、俺は地図を受け取って、もう一度線を辿ってしまった。
階段で何かあっても、下から戻れる。大きな荷物なら、初めから坂を使える。次に来るときは、行きたい高さに合わせて道を選べる。
さっきまで、知らない分かれ道だった。
今は、使い分けられる道になっていた。
「これなら、帰りに盾を運んでもらいやすいね」
テッサが言った。
「そこまで調べてない」
「坂なのは確認したよ」
確かに、それは確認した。
◇
坂を下り直し、荷揚げ場へ戻った。
今度は対岸の、低い位置にあるアーチへ向かう。上の入口には、カイルたちが見つけた床の欠けがある。その下から伸びる階段なら、別の場所へ繋がっているかもしれない。
アーチの手前には、広い石台があった。
俺は集光灯を置き、リオが広げた地図の端を押さえた。テッサが反対側を持つ。
書き加えた輪を、三人で見る。
「カイルに見せたら、何て言うかな」
「次はこっちから入る、じゃない?」
リオが答えた。
「その先を、先に見つけてくるかもな」
「じゃあ、私たちも見つけよう」
テッサはそう言って、アーチの奥へ顔を向けた。
隙間から風が流れてきた。
集光灯の火は覆いの中で揺れ、リオの外套の裾が、階段の方へ引かれた。
俺は地図を畳む前に、もう一度だけ輪になった道を見た。
今日ここへ来るまでは、古い地図を頼りに歩いていた。
今、この一本の線を引けるのは、俺たちが実際に歩いたからだ。
リオへ地図を返し、短槍を持ち直す。
「次の踊り場まで見よう。そこで時間を確かめる」
「うん」
「今度は、上にも気をつけてね」
テッサに言われ、俺はアーチの上を見た。
魔物はいない。
代わりに、灯りの先へ続く石段が見えた。
帰り道は、一つ増えた。
その分だけ、もう少し先を見に行きたくなった。




