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第1話 神様には会っていない


「冒険者になるなら、まずその鍋を持ち上げてみろ」


 店じまいを終えた食堂で、ガルドが大きな鉄鍋を俺の前に置いた。昼間は肉と野菜の煮込みが入っていた鍋だ。空になった今でも、洗うたびに腰を気遣う重さがある。


「……冒険者と鍋に、何の関係があるんですか?」


「いいから持て」


 両手で取っ手を掴み、腰を落として持ち上げた。床から離すところまではよかったが、作業台へ運ぶ間に腕が震え始める。どうにか置いた途端、息が漏れた。


「それくらいで音を上げて、剣なんぞ振れるのか?」


「剣はもっと軽いでしょう」


「敵は軽いとは限らんぞ」


 それを言われると反論できない。


 ガルドは俺の倍ほどありそうな腕で鍋を抱え、棚へ戻した。五十歳を越えているはずなのに、四年間働いても、この人に力で勝てる気がしない。


 俺の名前はノル。十六歳。


 水門都市リーヴェのこの食堂で、皿洗いから始め、今では料理の仕込みも任されている。もっとも、ガルドに言わせれば、野菜を揃えて切れるようになった程度で一人前を名乗るな、ということらしい。


 そんな俺が明日、冒険者になる。


 剣を握ったことも、魔物と戦ったこともない。魔法も使えない。今すぐ役立ちそうな特技といえば、大量の芋を無駄なく剥けることくらいだ。


 それでも、このまま厨房だけで一生を終えるつもりはなかった。


「そこの台も拭いておけ」


「はい」


 布巾を取りに戻る途中、壁に掛かった銅の盆に自分の顔が映った。黒い髪に、まだ頼りない肩。この顔で十六年生きているのに、前の人生より若い身体なのだと思うと、ときどき妙な気分になる。


 俺には、前世の記憶がある。


 鉄の箱が道路を走り、巨大な乗り物が空を飛ぶ世界で、二十七歳まで生きていた。小さな板一枚で遠くの誰かと話せたことは覚えているのに、そこに誰の名前が並んでいたのかは、もう曖昧だった。


 どうやって死んだのかも思い出せない。気づけば、この世界で生きていた。


 神様には会っていない。


 使命も、特別な力の説明もなかった。何かすごい才能が眠っているのでは、と期待した時期もあったが、十二歳で受けた魔法適性検査の結果は、火と土が微弱、水と風は適性なし。術式を扱う適性も低いというものだった。


 検査官は、暮らしていく分には問題ないだろうと慰めてくれた。


 確かに、その通りだった。


 皿は手で洗えるし、薪は斧で割れる。前世の知識で便利な道具を作ろうにも、俺が知っていたのは使い方ばかりで、仕組みを紙に描こうとすると、肝心なところから先に手が止まった。


 結局、頼りになったのは、働けば飯を食わせてくれるこの店だった。


「ノル」


 作業台を拭き終えたところで、ガルドが椅子に腰を下ろした。


「本当に明日、行くんだな」


「そのつもりです」


「ここにいれば、食うには困らん。仕事だってある」


 その言葉に、布巾を畳む手が少し遅くなった。


 十二歳の俺を拾い、住む場所と仕事をくれた人だ。不満があって出ていくのではないことは、きちんと伝えておきたかった。


「ここで働けて、よかったと思ってます」


「だったら、どうして冒険者なんぞになる?」


 今まで何度も聞かれた質問だった。金を稼ぎたい。自由になりたい。剣を持って魔物と戦ってみたい。どれも嘘ではないが、それだけではなかった。


「この世界を、もっと見てみたいんです」


 ガルドは黙って俺を見ていた。


「食堂に来る人って、いろんなところへ行ってるでしょう。北の鉱山とか、西の森とか。俺は話を聞いて、皿を下げたらそれで終わりです」


 以前、旅人が卓上の水滴で道の形を描いたことがある。川沿いに進み、橋を二つ越え、その先で山道へ入る。峠から見える湖の話を聞いているうちに、煮込みを運ぶのが遅れて叱られた。


 その道順を、俺はまだ覚えている。


「あの人たちが見てきたものを、俺も見てみたい。話を聞くだけじゃなくて」


「旅なら、冒険者でなくてもできる」


「でも、俺には旅をしながら食っていく方法が、まだ分かりません。仕事を覚えて、外でも動けるようになりたいんです」


 ガルドは顎を撫でた。俺は返事を待ちながら、畳んだ布巾の角を揃え直した。


 外には危険もある。怪我をして戻る客も、道中で同行者を失ったと話す客も、この店で見てきた。


 それでも、知らない場所の話に耳を澄ます自分がいた。


 一度目の人生の終わりは思い出せない。二度目まで、いつか行こうと思ったまま終えるのは嫌だった。


「すぐ遠くへ行くつもりじゃありません。まずは登録して、できる仕事から始めます」


「魔物を倒すんじゃないのか?」


「いずれは。でも今の俺だと、鍋を持ったガルドさんにも勝てませんし」


「鍋がなくても勝てるわ」


 そこは否定してほしかった。


 ガルドは鼻から息を吐くと、椅子を引いて立ち上がった。


「ひとつだけ覚えておけ。強い奴が生き残るとは限らん。だが、死んだ奴は二度と帰ってこん」


 いつもより低い声だった。


 この人の昔のことは、詳しく知らない。聞いても、若い頃はいろいろあったと笑うだけだ。今も何かを尋ねかけて、やめた。


「覚えておきます」


「なら、今日はもう寝ろ。明日から遅刻の言い訳は俺に通じんぞ」


「今までも通じた覚えはありませんけど」


 ガルドは返事の代わりに、厨房の灯りを一つ落とした。


 ◇


 小部屋へ戻り、木箱にしまっていた金を寝台へ広げた。


 銀貨一枚と、銅貨二十三枚。着替えを買ったり、靴を直したりしながら、少しずつ残してきた金だ。


 登録料を払い、武器を買えば減る。宿代と飯代も必要になる。冒険を始める前から、硬貨には次々と行き先が決まっていく。


 俺は数え終えた金を袋へ戻し、口を結んだ。


 前世の記憶があっても、知らないことの方が多い。武器の選び方も、依頼の受け方も、明日から覚えなければならない。


 それでも、明日の予定を考えるのは楽しかった。


 市場通りを抜けて、中央区の冒険者ギルドへ行く。いつも食材を買って引き返していた道を、もう少し先まで歩く。


 窓を開けると、夜風と一緒に水路の音が入ってきた。対岸の灯りが水面で揺れ、遅い荷船が橋の下へ消えていく。


 この水は街を抜け、俺の知らない場所まで続いている。


 いつか、あの峠の湖も見に行こう。帰ってきたら、ガルドに話せばいい。景色の話より、向こうで何を食ったかを先に聞かれそうだが、それも悪くない。


 窓を閉め、明日着る服を椅子に掛けた。


 まずはギルドへ行ってみる。鍋を持ち上げる以外にも、俺にできる仕事があるはずだ。


 硬貨の袋を鞄へ入れると、その重さが、さっきより少し頼もしく感じられた。




挿絵(By みてみん)

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