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黒竜王と黄金の太陽  作者: ホシクズノソラ
第三章 蹂躙の森、あるいは跪く竜の鎖
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3.秘めたる竜、覗き見る蛇の毒

読んでいただき、ありがとうございます!

励みになります!

 ステファンは疾走し、誰の視線も追えなくなると分かった瞬間、その背中から翼を出した。闇夜のように漆黒の、竜の翼。

 そのまま地面を蹴り上げ、飛翔する。

「さっさと消えろ、有象無象が」

 彼は雷光を双剣に纏わせ、そのまま振り被った。雷鳴と共に黒い稲妻が何百と雨のように振り注ぎ、森の木々を傷つけることなく標的の魔物だけを炭化させていく。

 それは剣技ではなく、神話の再現。双剣から放たれる斬撃の波動が、空を、大気を、そして地上の絶望を文字通り「蹂躙」していく。


 一方、ステファンが去った後、ソーフィアは自身の膝の震えが治まっていることに気がついた。

(⋯⋯なんだか、魔力が回復してる⋯⋯? まさか、ステファンの「血」を飲んだから⋯⋯?)

 その問いに答える者はいない。


 魔物の唸り声が遠くから聞こえる。それはまるで彼らの断末魔のようでもあった。

 月の浮かぶ闇に時折稲光が走る。

 その攻撃から逃れた魔物がこちらへと近づいてくる気配がした。はっとソーフィアは顔を上げ、周囲に結界を張るために彼女はその場に跪いた。

(この場に、魔物なんて近寄らせない! どうか、ステファン、無事でいて⋯⋯!)

 預けられたシャツに祈りを込めるように強く抱きしめる。

 体温を失った布から微かに香るステファンの匂い。まるで抱きしめられているかのような錯覚に、ソーフィアは慌てて顔を遠ざけた。

――きっと、彼はその不器用な言葉の裏に、とんでもない秘密を抱えているのかもしれない。


 それらを見ていたのはカタリナだった。ギリ、と形のよい爪を噛む。

(あの女、なんなの⋯⋯っ?)

 ソーフィアを引き寄せ、まるで口づけでもするかのような「血の儀式」。ステファンの強引な指がソーフィアの口内へ沈み、彼女がそれを悦びに震えて受け入れていた(ように見えた)一部始終。

 嫉妬と羨望が混ざり合い、カタリナの瞳にどす黒い執着が宿る。

(⋯⋯あの男は私のものよ。あんな女などに、彼の全てを独占させておくなんて許さない⋯⋯!)



 ステファンは顔色を変えずに、魔物の群れを沈黙の屍へと切り伏せていった。

 十年前、魔の森を血の海に変えてスタンピードを鎮めた時と同じ。

 ステファンにとって、この程度の魔物の群れは「作業」に過ぎなかった。

 感情を排し、最適解の速度で命を刈り取る。

(⋯⋯終わらせて、早く彼女の元へ戻る)

 その一念だけで、彼は「伝説」を軽々と再演してみせた。


 最後の一頭の首を切り落とし、ステファンは地へと降り立つ。あれほどまでにざわめいていた森が沈黙した事を確認し、彼はソーフィアの元へと戻っていった。



 ステファンが空を舞い、黒い雷火で魔物を焼き払っている間、地上はアンナによる「徹底した清掃」が行われていた。

「⋯⋯しつこいですよ。不衛生なハエ共が」

 アンナは指先一つ動かすだけで、結界に近づこうとする魔物を次々と光の粒子へと分解していく。その表情には慈悲も高揚もなく、ただ玄関先の泥を掃くような淡々とした拒絶があった。

 彼女は、シャツを抱きしめて顔を赤らめるソーフィアを、冷徹な——それでいてどこか保護者のような呆れを含んだ眼差しで見やる。

「⋯⋯お嬢様、その布切れはそれほど重要ですか? その不純な空気(体臭)を吸うよりも、まずは呼吸を整えてください」

「えっ、あ、アンナ!? いつからそこに⋯⋯っ」

「その布を受け取られたときからです。⋯⋯くっ、『除菌』に気を取られて、ノクスドラクに先を越されるなどこのアンナ、一生の不覚⋯⋯! お嬢様、こちらをお飲みください」

 そう言ってどこから出したのか、アンナ特製魔力回復ドリンクをすすと差し出す。そして、背後の馬車——カタリナの粘着質な視線が注がれている方向を一瞥する。

「⋯⋯それと。あちらの『害虫』はどうされます? 殺虫剤が必要なら、いつでも用意がございますが」


「⋯⋯余計なことをするな、アンナ」

 呆れたような、それでいて不機嫌なステファンが木々の間から出てきた。彼は一滴の返り血も浴びていない。乱れた髪を整えるかのように、頭をかき上げた。

「ステファン! 良かった⋯⋯!」

 駆け寄ろうとしたソーフィアだったが、ハッとして足を止めた。

 自分の腕の中には、先ほど彼から預かったシャツが、しわくちゃになるほど強く抱きしめられた状態で残っている。

「あ、これ⋯⋯返すわね」

 慌てて差し出した布地には、彼女が胸で抱きしめていたせいで、「ステファンの匂い」と「ソーフィアの匂い」が深く混じり合っている。

 ステファンは無言でそれを受け取ると、ふい、と視線を逸らした。

「⋯⋯随分と、熱心に温めてくれたようだな」

「なっ、それは⋯⋯っ!」

 揶揄うような、けれどどこか熱を帯びた彼の声に、ソーフィアの顔が爆発したように赤くなる。

 「お嬢様! やっぱりこの男も消毒するべきです! ええ、今すぐに!」

 アンナは消毒液を構えてソーフィアとステファンの間に立った。

「ちょっ、待ってアンナ、落ち着いて!」

 ソーフィアが必死にアンナをなだめている横で、ステファンは返されたシャツを無造作に羽織った。布地に残るソーフィアの体温と、甘い「番」の香り。彼はわずかに眉を寄せたが、すぐに鉄の無表情に戻り、森の深淵へと視線を向けた。

「――おい、遊んでいる暇があるなら進め。これ以上ここで魔力の残滓を撒き散らせば、さらに面倒なのが寄ってくるぞ」

 その言葉を合図にするように、馬車の小窓が開き、カイルが喚いた。

「ふ、ふん⋯⋯! ようやく戻ったか。当然だ、これだけの報酬を払っているのだからな」

 そのカイルの隣で、カタリナはソーフィアを憎々しげに見つめていた。



 一行は魔の森の最奥――瘴気が霧のように可視化し、肺の奥まで重苦しく沈み込む大空洞へと足を踏み入れた。

「殿下! これ以上は馬が怯えて進みません、お降りください!」

「ちっ、役立たずの獣め。カタリナ、降りるぞ」

「ドレスが汚れてしまうわ⋯⋯。ねえ殿下、抱き上げてくださらない?」

 ぶつくさと不平を漏らしながらも、二人はしぶしぶ大空洞の湿った地へと降り立った。

「お嬢様、ここからは魔物の毒がより濃くなります。解毒剤の用意を」

「ええ、アンナ、あなたも気をつけて」

 二人のやり取りを背中で聞きながら、大空洞の中にわずかな明かりを灯したステファンが深く、重いため息をついた。

「⋯⋯いっそのこと、こいつらをここに置いて行くか」

「ダメよステファン、ギルド長の首が飛んじゃうわ」

「名案かと思いましたが、残念です。後で消毒液を多めに浴びせておきましょう」


「きゃあっ! ステファン様ぁ、カタリナ、こわぁい⋯⋯!」

 その時、わざとらしい悲鳴を上げてカタリナがステファンへと倒れ込んだ。隙を見て、その強靭な胸板に抱きつこうとしたのだ。

「――んげっ!?」

 だが、ステファンは一切の躊躇なく、その場から一歩身を引いた。

 支えを失ったカタリナは、不格好に地面へ這いつくばる。

「⋯⋯気安く触れるな。なんだお前は。臭い」

「なっ、なんですって⋯⋯っ!?」

 ステファンの瞳が、冷徹な氷の刃となってカタリナを貫いた。

「近寄るな。馬鹿が移る」

「っ、ぁ⋯⋯!」

 屈辱で顔を真っ赤にし、わなわなと震えるカタリナ。しかし、ステファンが放つ本物の「Sランク」の威圧に喉がせり上がり、反論すら許されない。

「おい、ソーフィア。遊んでないで油断するな」

「ええ、わかってる」

 ステファンの呼びかけに、ソーフィアが真っ直ぐに応える。その対等な空気が、カタリナの胸中で黒い炎となった。

(何よ、何なのよあの女⋯⋯! ちょっとばかりスタイルが良いからって、ステファン様に媚びて! ステファン様はあんなに血に塗れて戦ってくださっているのに⋯⋯!)

 ステファンの返り血すら「私のために戦う高潔な証」と脳内変換しているカタリナにとって、汚れ一つなく涼しい顔で後方に立つソーフィアは、ただの「泥棒猫」にしか見えなかった。

(見てなさい⋯⋯。魔物が現れたら、あの女を盾にしてやる。その綺麗な顔に、消えない傷をつけてやるんだから⋯⋯!)


 一行は大空洞のさらに奥へと進んでいく。

「⋯⋯この大空洞、おかしいわ。瘴気はこれほど濃いのに、どうして魔物の一匹も出てこないのかしら」

 ソーフィアが不安げに呟いた、その瞬間だった。

 ――ビリ、と大気が裂けるような振動が肌を打つ。

「⋯⋯っ、ソーフィア、下がれ!」

 ステファンが鋭い声を上げ、ソーフィアを背後へ押しやる。同時に、抜き放たれた黒い双剣が低い唸りを上げた。

「くるぞ⋯⋯! 総員、武器を構えろ!」

「ひっ、お、おおおわああああ!? ななな、なんだ!? 地震か!?」

 腰を抜かしたカイルが、無様に地面を這い回る。

「お嬢様⋯⋯」

 アンナは音もなくソーフィアの隣に滑り込み、その手に冷徹な殺意を宿した魔力を凝縮させた。

 空洞の最奥に鎮座していた、巨大な「岩」が動いた。

 否、それは岩などではなかった。何百年という時を経て、堆積した土砂や鉱石をその身に纏った、ゴツゴツとした古の皮膚。

 ゆっくりと持ち上がった頭部には、爛々と輝く琥珀色の瞳が宿っている。

「こ、古竜⋯⋯! おお、これがあの⋯⋯!」

 ステファンたちが放つ張り詰めた殺気とは裏腹に、カイルは恍惚とした表情で立ち上がった。恐怖に支配されていた脳が、目の前の「利権」という黄金の輝きに焼き切られたのだ。

「素晴らしい⋯⋯! これさえ手に入れば、私は王都の誰からも崇められる! 待て、古竜よ! 今、この私が主として迎えてやろう!」

「で、殿下!?」

 騎士たちは止めようと声を掛けるが、腰が抜けたのか動けない。

「私は第二王子のカイルだ。古竜、私の身体に流れる尊き血にひれ伏せ!」

「あの、馬鹿⋯⋯!」

 ステファンだけが呆れたような声で呟いた。


 ぎろり、と古竜の目玉がカイルを捉えた。だが、次の瞬間。

「きゃあああ! やだ、こわーい!」

 カタリナの悲鳴が大空洞に響き渡った。

 その声に反応して古竜は首ごとカタリナの方を向く。

――餌だ。

 古竜にはカタリナが年若い女の、豊富な魔力を持つ生贄にしか見えなかった。

 だが、カタリナは豹のように素早い動きでソーフィアの背後に回り込み、その背を令嬢とは思えないほどの力で押した。

「えっ、何、を、⋯⋯っ!?」

 突き飛ばされた衝撃に抗えず、ソーフィアは古竜の眼前に向かって無防備に放り出される。

「ソーフィア!」

 誰かの叫びが遠く聞こえた。


 視界が、不自然なほどゆっくり流れ始める。迫りくる古竜の牙。死の影。――だが、その絶望を遮るように赤髪の侍女が目の前を遮った。

 ソーフィアの正面に滑り込んだアンナが、自身の体を盾にするようにして、ソーフィアを力強く背後へ押し戻す。

 スローモーションの中で、二人の視線が交差した。ソーフィアの目にはアンナが安心させるように微笑んだのが写った。


 直後、視界を断つほどの速度で古竜の尾が振り抜かれた。

「ぎゃあっ!?」「っ!」

 突き飛ばされたソーフィアはそのままカタリナを巻き込んで倒れ込む。

 その鼻先を掠めた巨大な尾は、身代わりとなったアンナを捉え――轟音と共に、彼女を岩壁の奥深くまで叩き込んだ。

「アンナ⋯⋯ッ!?」

 岩壁が砕け、土煙が舞う。半狂乱で駆けだそうとするソーフィアを、ステファンが鋼のような腕で制した。

「あいつなら無事だ! すぐに出てくる、心配するな!」

「で、でも⋯⋯っ!」

「こ、この、平民が⋯⋯!」

 ソーフィアのクッションになったカタリナは汚れたドレスを持ち上げながらゆっくりと立ち上がる。怒りからかぶるぶると体が震えていた。

「護衛対象のあたくしをクッション代わりにするなんて!? ふざけないでちょうだい!」

「――それは、こちらの台詞よ。カタリナ」

 ぷちん。と、ソーフィアの中で、長く引きずっていた「過去」への執着が断ち切れる音がした。

「なっ、何よ⋯⋯あたくしにそんな口を利いて良いと思って⋯⋯。っ、まさか、その声⋯⋯お姉さまなの!?」

「ええ。貴女たちが『役立たず』と嘲笑い、捨てたソーフィアよ」

 ソーフィアは静かに立ち上がり、泥を払うこともなくカタリナを見据えた。その瞳には、かつての臆病な影など微塵も残っていない。

「ここは魔の森の最奥、命のやり取りをする場所よ。王都の庭園のように安全ではない。リーダーであるステファンの指示を無視し、勝手な行動をとり、喚き散らす⋯⋯。遊びなら、余所でやりなさい。死にたくなければ、そこで黙って下がっていなさい」

「そ、ソーフィア⋯⋯本当にお前なのか⋯⋯?」

 古竜の威圧に腰を抜かし、泥に塗れて伏していたカイルが恐る恐る顔を上げた。かつての婚約者を、ソーフィアは一片の熱も持たない氷の眼差しで見下ろす。

「お久しぶりですね、殿下。⋯⋯死にたくないのなら、今すぐ兵を引き、退却することをお勧めします」

 

 その言葉が響いた瞬間、ステファンの思考が数秒間、完全に停止した。

(⋯⋯殿下? 久しぶり、だと⋯⋯?)

 視線の先では、泥に濡れたカイルが、かつての獲物を見つけたような卑しい顔でソーフィアを凝視している。

 確か、この王子の隣にいる女はソーフィアのことを「お姉様」と呼んだ。つまり、彼女もまたかつて「侯爵令嬢」であり、このゴミ――カイルの「婚約者」。

 二人の会話から導き出される、最悪にして信じがたい答えがステファンの脳内に浮かんだ。

 ステファンの胸中に、これまで経験したことのないほどの不快感と、激しい拒絶反応が渦巻いた。

 あの可憐で、健気で、自分の血を飲んで熱っぽく瞳を潤ませていた少女が。

 自分が誰にも渡したくないと、あんなにも「蹂躙」してまで守り抜こうと決めた愛しい存在が。

 よりによって、今すぐこの場で「消毒」してやりたいほど下劣な男の所有物だったという事実。

(――笑えない冗談だ)

 ステファンの瞳から、完全に光が消えた。

怒り。いや、それはもはや「殺意」に近い。

 自分ですら、彼女に触れる時は指先一つまであんなに自制しているというのに。あの男は、かつて合法的に彼女に触れ、未来を誓っていたというのか。

 握りしめた双剣の柄が、ミシミシと悲鳴を上げる。

 ステファンの背後で、抑え込んでいた竜の魔力が、どす黒い衝動を伴って一気に膨れ上がった。


「は、はは⋯⋯っ! 何を言うかと思えば! 古竜が目の前にいるというのに、おめおめと帰れるか! 黙っていろ、無能な女が!」

 カイルは震える足で立ち上がると、狂乱したように古竜へ向かって諸手を広げた。

「さあ見ろ、古竜よ! 次代の王、この私が貴様を主として迎えてやろう!」

 古竜は口を開けた。ぼたり、と大きな口からよだれが垂れた。

「ガアアアァアァア!!!」

 咆哮は耳をつんざくほど大空洞内に轟く。騎士たちは威圧に当てられ、白目をむき崩れ落ちていく。

 その阿鼻叫喚の中で、ステファンだけは微動だにせず、忌々しげに舌打ちをした。

 彼はソーフィアを抱き寄せ、その腕に力を込める。

「くそっ、足手まとい共が、余計なものを目覚めさせやがって」

 その瞳には、すでに人族の温情など一欠片も残っていない。

「言っておくがな、『殿下』。そこにいるのは貴様が夢見るような神聖な古竜じゃない。⋯⋯天に還れず、狂った殻に宿るだけの、哀れな亡霊だ」



この時、確かにステファンはカッコいいと思ってたんだよ、本当だよ……。

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