2 不穏なはじまり
暖かい陽射しが眠りから目覚めるようにと、肌を刺激する。
ゆっくりと促されるまま目を開けた利央は、心地の良い陽射しを手の平に感じようと手を伸ばした。温もりを感じながら真っ白なシーツの上で手を遊ばせている内に、ぼんやりとした意識がはっきりとしてくる。
そこで、利央はぴたりと手を止めた。
シーツの感触にも、目覚ましがわりの太陽光も彼女の日常には身に覚えのないものだった。
そもそも、白い部屋や壁が嫌いなのに真っ白なシーツを持っているはずもない。
突然、忍び寄ってきた違和感に、脳内にかかっていた靄が晴れていく。
そっと体を起こして、自分がどこにいるのか把握しようと部屋を見回してみたが、ヒントになるようなものはない。
部屋にあるのは、利央が寝ていたベッドしかなく、まるで引っ越したばかりの部屋かモデルルームみたいだ。
けれど、だからといって段ボールが山積みな訳でもない。
友人二人から引っ越しをしたという話は聞いたことはないし、もし引っ越しをしていたら間違いなく引っ越しの手伝いをさせられていただろう。
もう一つ浮かんだモデルルームだって、もう少し調度品があるはずだ。
色々と考えながら周りに向けていた視線を下に移せば、昨日着ていた服を身に着けていることに安堵感が胸の中に広がった。
けれど、心の底から安心できないのはこの場所のせいだ。
そんな見覚えのない部屋に警戒している利央の耳に、部屋の向こうから軽快な音が届いた。
音を立てないようにベッドから抜けだし、リビングと寝室を隔てているスライドドアを開ける。
部屋の目の前はリビングで、その奥にはキッチンが見えた。そっと前のめりになって盗み見ると、青が強めなブルーブラックの髪をした背が高くて、広い背中を持つ男の後ろ姿が見えた。
酒を飲んだせいで起こった失敗は、これが初ではない。
だからといって、動揺していないかと問われれば、耳元で心臓が煩いほど速いビートを刻んでいると答えるだろう。
それでも、なんとか背筋を伸ばして乱れのなかった服に、ほっとしつつリビングへと足を進めた。
流石に自分から声をかける勇気だけは出ず、利央は小さく咳ばらいをした。
我ながら弱虫だなと思いつつも、咳ばらいに気づいた男が振り返るのを待つ。
「ん? ああ、ちょうどよかった。朝食が出来るから、起こそうと思ってたんだよ、利央さん」
耳に心地の良いトーンの声と振り返った時の柔らかな微笑みに、緊張が一気に緩む。
「なんだ……陸斗か」
「なんだ、って酷くない? あんなに酔った状態だったのに、顔も知らない男の家だったらどうするのさ」
コンロの火を消して、フライパンから目玉焼きとウィンナーを皿に盛り付け、ダイニングテーブルに並べた彼──望月陸斗は、その整った顔で睨んできた。
整った顔が真顔になると、妙な迫力があるが慣れ親しんだ相手だけに全く怖さなんて感じなくて効果はない。
「ないない。誰がこんな色気のない三十歳間近の女をお持ち帰りするのよ」
知り合いという安心感に、ケラケラと笑いながら椅子に座れば、盛大なため息と共にグラスに注がれたフレッシュオレンジジュースが置かれた。
「警戒心がなさすぎるよ、利央さん。嫌われる覚悟があれば、僕ならお持ち帰りして抱くよ」
「ま、またまた……冗談きついわよ? 笑えないし、面白くもない」
「そんな覚悟ができないから、これで我慢してるんだけど?」
ちゅっと、頬に柔らかな感触が当たり、それが唇だと理解するよりも前に、感触はすぐに離れていった。
そのまま、利央の向かいの席に何事もなかったように座った陸斗だが、彼女は唖然としたままだ。
「冷めないうちに食べてほしいな」
サクッと音を立てながらクロワッサンを齧る口元に思わず目がいってしまい、利央は動揺を悟られないようにフォークを掴んでサラダに突き刺した。
「そういう軽率なことは控えなさいよ。若い子に人気なアイドルの陸斗くん?」
そう利央が言うのと同時に、リビングに置かれた大型テレビから大きな歓声が聞こえてきた。
ついているチャンネルは朝のニュースのはずなのに、アナウンサーは興奮した様子で昨夜行われたライブについて話している。
『視聴者の皆さん、お宝映像を借りることができました。あのチケット倍率二十倍と言われていたライブに行かれなかった方も、行けたけど嬉しすぎて記憶が飛んでしまったという方も必見です。録画の準備はいいですか? では、どうぞ!』
アナウンサーの声と共に画面は切り替わり、スモークが焚かれたステージに五人のシルエットが映し出された。
会場内の歓声は悲鳴に変わり、大迫力の音楽が流れ始めた。
テレビ越しだというのに、その熱気が感じ取れそうなほどの様子に、利央は目が離せない。
一気にステージに照明が灯り、一人のメンバーがファンを煽るように声を上げた。
割れんばかりの歓声に、歌声とダンスが始まりフォークを持つ手は止まったまま、一曲分の映像を見終わるまで動けない。
『いやー、やはり〈SPIDER〉の人気はすごいですね。特に一番人気の陸斗さんのソロステージは色気を感じさせるものだって、SNSでも話題に上がっていたので見たかったんですが……残念なことに、その映像はお借りできなかったんですよね』
きゃっきゃとはしゃぐアナウンサーに、仕事しろと心の中で囁きながら、画面から目を反らせば、目の前に座る話題の張本人と目が合った。
「利央さんってさ……アイドル活動中の僕のことは好きだよね」
少し拗ねたような言い方に、思わず笑ってしまった。
どう見てもステージで見せる中性的で近寄りがたい雰囲気とは違って、歳相応どころか少しだけ幼く見える。
「ただの職業病よ。ああしてステージに立つあんたは、写真家としては撮りたくなるわけ。別の顔を撮りたいってね」
「今の僕は? アイドルでも、芸能人でもない……ただの望月陸斗は、どう?」
「いいんじゃない? 今度、ファンクラブイベントの映像で撮ってみたら? ファンは喜ぶわよ」
オレンジジュースで喉を潤し、トーストの上に半熟目玉焼きをのせて半分に折りたたんでかぶりついた。
絶妙にかけられているホワイトペッパーが味を引き立て、最高に美味しくて、利央は思わず唸った。
ただ難点は、パンの中で潰れた黄身が溢れ出てくることだ。
指で拭うか、ティッシュで拭き取るかで悩んでいると、伸びてきた手が利央の唇の端から垂れる黄身を拭い取り、彼はその指を当然という様子で舐めた。
「こういうところを見せたいのは、利央さんにだけなんだけどな……」
口紅を塗っていなくても、ほんのりと血色のいいピンク色の唇の間から覗いたのは、より妖艶な色をした舌先だ。
出会った当初、彼はこんな印象の子だっただろうかと、少しだけ別の誰かといるような感覚に陥る。
年下とは思えない、男を感じさせる瞳に、今の自分の服装が薄すぎるんじゃないかという不安感に襲われた。
落ち着かない気分になったことに気づいたのか、陸斗は表情を緩めてニッコリと笑うとフォークを手に持った。
「ほら、利央さん。はやく食べないと仕事に遅れるよ?」
「あっ、うん……そうだね」
テレビに視線を向けた彼につられて、利央もそちらを向けばもうすぐ朝のニュース番組が終わる合図にしている今日の運勢が流れていた。
つまりは、八時になるということだ。
「やばっ! 一回、家に帰って着替えないといけないのに」
「着替えならあるよ。食べたらシャワーも使いなよ」
「いや、アンタの服じゃサイズと服の趣味が合わないでしょ」
「利央さんが好きそうな服を買っておいたんだよ。最近、忙しくて渡す暇がなくてさ」
手早く食べ終えた陸斗は食器を手に立ち上がると、シンクに置いてから奥の部屋へと消えていった。
さすがにシャワーを借りる気のなかった利央は、ほどほどに料理を味わいながら食べると、シンクに食器を持っていき、せめてものお礼に彼の分も含め食器を洗った。
水切りに並べて、拭いて片せないことに悪いなと思いながら手を拭いていると、陸斗が戻ってきた。
その手には、洋服と有名化粧品ブランドの袋がある。
「はい、洋服ね。タオルはこっち」
流れるような動作で手を握られ、引っ張って連れて行かれたのは、広々としたバスルームだ。
陸斗は脱衣所の棚に服を置くと、上の棚からふわふわのバスタオルを取り出し服の上に置いた。
化粧品の紙袋は、洗面台に置かれて、中からは基礎化粧品からメイク道具まで一式が出てくる。
これは、もしかしたら彼女か元彼女の持ち物ではないのだろうかと、まさかの出来事に目を丸くしていると、振り返った陸斗は微笑んだ。
「その顔を見たら言いたいことは分かるよ。でも違う。彼女なんていないからね? 利央さんが泊まっても困らないように、メイクさんにおすすめの品を揃えてもらったんだ。服は、好みを知ってるから自分で選んだけどね。さすがに下着の店に入るわけにはいかないから、そこは社長に買いに行ってもらったけど」
「はいっ? 下着まで!?」
「うん。だって、シャワー浴びた後にまた同じ物をつけるの嫌でしょ?」
「そ、そうだけど。どうして、私がここに泊まるかもなんて思うわけ?」
「大丈夫だよ。社長が利央さんが好きなスポーツタイプのやつをセットで買ってきてくれたから」
「な、な、なんで、あいつが人の好みを知ってるのよ! ちょっとゾッとしたわ!」
「ああ、なんか前に酔いつぶれた利央さんを部屋に送っていったら、洗濯物がぶら下がってて、スポーツタイプしかなかったぞって教えてくれた」
利央は肩を落とした。もはや自分の人権を失った気がしてくる。
まさか、今をときめく若いアイドルにそんなことまで知られているかと思うと頭痛がしてきそうだ。
「僕は利央さんがどんな下着をつけていようと、興奮する自信が……」
「やめてやめて!」
思わず利央は、両手で陸斗の口を覆った。
「これ以上は、逆にダメージが大きいわ!」
「なんで? 僕は本当のことを」
「いいから、黙って。ありがたくシャワーを使わせてもらうから、外に出て!」
「はいはい、ごゆっくり」
嬉しそうに鼻歌を歌いながら、陸斗はバスルームを出ていった。
なんだろうか、朝からモーレツに疲れを感じる。
がっくりと肩を落としながら、服を脱ぎ捨てバスルームに入ると、ようやく手にしたプライベートな時間にほっとしながらお湯を出した。
けれど、差し迫った時間に優雅なバスタイムとは言い難かった。
手早く洗って、出るという烏の行水だ。
せっかく、ボディーソープもシャンプーとコンディショナーも、癒やし効果のあるハーブの香りで人気のブランドのものだったのに、慌ただしくて癒やしと優雅さとは程遠い。
「というより、これだけのセンスのものが一人暮らしの男の家にあるものなんだろうか……」
そんな疑問が浮かんでくる。
事務所からは恋愛禁止を言われているだろうが、隠れて付き合っているという話はよくある話だ。
さっきは否定していたが、単なる照れ隠しで、もしかしたら迷惑をかけているのかもしれない。
彼女がいたら、勘違いをさせてしまうかもしれないと利央は焦った。
さっさとバスタオルで体の水分を拭き取り、戸惑いの種にもなった下着と服を身に着けた。
確かに利央が好んでいるスポーツブランドの下着であり、洋服は自分では買わないようなハイブランドのものだが、普段から好んで着ている色気も何もない、有沙からは洋画に出てくる殺し屋かスナイパーみたいと称される黒のズボンと黒いシャツという好みのものだ。
人気アイドルの恋人が好んで着るとは思えず、服だけは本当に利央のために用意してくれた物なのかもしれないという気持ちになる。
髪はできる限り水が滴り落ちない程度に、がしがしとタオルドライをして、脱ぎ捨てた服を回収して廊下へと出た。
すると、リビングの方から陸斗の声がする。
明らかに電話ではなく、その場にいる相手に対する声量に、マズイという気持ちが先立つ。
少しだけ口論のような、相手を説得するような言葉が聞こえてきて、肝が冷える。
まさかの交際相手のお出ましかもしれない。
どうしたらいいのか、利央は悩んだ。
リビングに入って陸斗の潔白を証明しようか。
だが、自分の姿を見ることによって、より疑念を持ち怒りに拍車をかけるかもしれない。
でも、だからといって彼女が諦めて帰るまで隠れている訳にもいかないと悩んでいると、気持ちの準備もできないうちにリビングの扉が開いた。
「ひっ!」
「なにしてるの、利央さん。入ってきなよ」
そんな堂々と彼女の前で、他の女の名前を呼ぶんじゃないと思いつつ、緊張の面持ちでリビングに一歩足を踏み入れれば、見知った相手が中央のソファーでふんぞり返って座っていた。
「なんだ、ほんとに利央じゃないか」
「なんだとはなによ、真司」
相手が高校時代からの友人である二階堂真司であることにほっとしつつ、利央は彼の向かいのソファーに座った。
「いやぁー、ついにうちの稼ぎ頭が恋人でも作ったのかと思って、社長らしいことでも言おうかと思ってたのに残念だよ」
「なに言ってんですか。分かってて、面白がってるだけでしょう。大体……昨日、電話があったけど自分は行けないから、利央さんを迎えに行けって言ったのは社長自身ですよね?」
「えっ? 私が電話したの?」
全くそんな覚えはなかった。
「ああ、電話してきたよ。かなり酔ってるようだったから、無碍にもできなくてこいつを行かせた」
「ちょっと、手軽に人気絶頂のアイドルを迎えに寄越すんじゃないわよ。スクープされたらどうすんの!」
「別にそこまで気にすることでもないだろ。お前と陸斗は歳離れてるし、写真家とアーティストなら仕事仲間ですで通るだろ。それにどう考えたって、色気のないお前に若手アイドルが惚れてるなんて誰も思わないよ」
盛大にがははと笑う相手に、利央はがっくりと肩を落とした。
これでも業界では知らない人のいない、一応は大手事務所の社長だ。どんなにそうとは見えなくても、彼の目は確かである。
そうでなければ、昔からの付き合いだからと利央が紹介した陸斗を受け入れるはずがない。
「社長の考えは固定観念すぎますよ。現に僕は利央さんに惚れてますし」
一度リビングから出ていっていた陸斗がドライヤーを手に戻ってきていた。
「ちょっと、冗談はやめて」
「冗談じゃないよ。それよりも、なんで乾かさないかな」
まさか年下に小言を言われるとは思っていなかった利央は、返す言葉も見つからずされるがままに大人しく示されたソファーに座ってドライヤーで乾かされた。
美容院とは違う優しい手つきと、ドライヤーの温風にうっとりとしてしまっていると、真司はにやにやとしはじめた。
「なによ」
「いや、お前って猫みてーだよなって思ってさ。ツンツンしてるくせに、そうやってデレデレする時もあって」
「うるさいわね。しょうがないでしょうが、なんだか心地がいいんだから」
「へー、嬉しいな。付き合って一緒に住んでくれたら、毎日やってあげるよ?」
「あのねー、そんなことで惹かれる訳ないでしょうが」
「そうだぞ。それにここは俺の家でもあるんだ。いちゃいちゃするんじゃない!」
的外れな真司の言葉に、陸斗と一緒に笑い声を上げつつ、内心ではこの関係が壊れないことを祈っていた。
このままでいい。
まるで家族のような、ほっこりとした関係で。
裏切られる心配もなく、無条件で信じられる関係がいいのだ。
恋愛とは時に人を愚かにして、傷つき、関係や雰囲気まで変えてしまう。
人の感情に敏感な利央にとって、それが一番嫌いなことであり、恐れでもある。
こうやって生きていると、人との縁や絆が永遠ではないことに気づく。
居心地のいい関係や場所は、そう簡単に見つかるものではない。
なかなか見つからない貴重なものに限って、それが壊れる時には一瞬の時間しかいらないのだ。
真司が来たとあってか、そこから陸斗が時間を無駄にすることはなかった。
ものの数分で支度を終えると、すっかりと芸能人であり、トップアイドルである顔へと変わった。
三人で部屋を出てエレベーターを待つ間、彼は真司から渡された仕事の資料に目を通し、事務所のスマートフォンを使ってグループのツイッターにメッセージを書き込んでいる。
「へー、すっかり大人になって」
スマートフォンの画面を落とし、辿り着いたエレベーターに乗り込み、感心しながら呟くと、陸斗は少し不機嫌そうに目を細めた。
「あのねぇ、利央さん? 僕が何歳だと思ってんの? とっくに成人してるんだけど」
「ああ、たしかに。何年か前に、なんかのニュース番組で成人式の映像を見たわ」
「だったら、今更でしょ」
「そういう意味じゃなくて。アイドルとしての話」
「ふーん、なら許してあげるよ。仕事について認められるのは嬉しいからね」
にっこりと笑った顔は、もうすぐ三十歳になる利央にとっては、やはりどこか幼くて年齢の壁を感じるものだった。
自分もずいぶんと歳をとったなと思いながら、ロビーに着いたことを告げる音に自分のスマートフォンを取り出して時間を確認した。
服とシャワーを借りられて、自宅に戻らなくていいおかげで、コーヒーショップでお気に入りのドリンクを買う余裕があったのだが。
「しまった! 充電がほとんどない……」
「あ? なら、一緒の車で行けばいいだろ。車にモバイルバッテリーがあるぞ」
「いやいや、おかしいでしょうが。ただの写真家と芸能事務所の社長と、その事務所の売れっ子アイドルが同じ車に乗ってたら!」
そう文句を言いながらエレベーターを降りると、向かいのエレベーターの扉も開いた。
「あっ……」
エレベーターから降りてきたのは、間違えようのない顔だった。
朝だというのに、むくみなんて言葉すら知らないようなスッキリとした顔をしている。
次の瞬間、二人の視線が絡み合った。
颯の瞳の中に、明らかな喜びの色が浮かんだのに利央は気づいた。そんな彼が利央の名前を呼ぼうと口を形作ると、音が作られるよりも先に後ろから声がかけられた。
「利央さん!」
声の強さに振り返れば、陸斗が何かを投げて寄越したため慌てて手を伸ばした。
どうにか掴んだのは、モバイルバッテリーだ。
「え?」
「家に寄る時間がもったいないでしょ? 今度、会う時に返してくれればいいから」
「あ、ありがとう」
言い終わるより早く、エレベーターの扉は閉まり気まずい場所に取り残された。
なぜ、自分がこんな気持ちにならなくちゃいけないのか、と思い直して颯に向き直りマンションのエントランスへと歩き出した。
もちろん、後ろから彼の足音も聞こえてくる。
「あれって、今人気のアイドルですよね? 陸斗……でしたっけ? 朝のニュースで見ましたよ」
そう淡々と発せられた言葉には、小さな棘があるようで利央の豊かな感受性を引っ掻く。
嫌だなと思う反面、冷静な頭の中ではかつて聞いた声よりも低くなった声によって知らされる時間の経過に驚いていた。
「それがどうしたの。あんたには関係ないでしょ」
高級マンションらしい大理石の床に足音を響かせながら、コンシェルジュの前を通り過ぎ、自動ドアから外に出た。
「あいつ、俺より若いんじゃないですか?」
「だから?」
「俺のことは若いからって相手にしなかったくせに、あいつはいいわけだ」
「別に付き合ってるわけじゃないわよ! 第一……あそこは真司の家でもあるんだから」
横に並んできた颯をちらりと見れば、冷たい表情が目に入った。
きれいな顔立ちなだけに、少し怖くもあるが、写真家としての利央はその顔に魅了された。
許されるなら、今すぐシャッターを切りたい。
「ほんと……利央さんって」
「なに?」
「なんでもないです」
そう言うと、優雅な歩き方でさっさと行ってしまった。
何が言いたいのか問いただしたいのに、足の長さが違いすぎて利央には小走りじゃなければ追いつけないだろう。
そこまでして知りたいわけでもなく、行き先も逆方向ということもあってどんどん遠のいていく背中を見送った。




