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第26話:魂の叫び、青い夜の告白

 玲奈会長の背中が遠ざかっていく。

 その肩は震えていて今まで見たことがないほど小さく、そして拒絶の空気を纏っていた。


『⋯⋯今まで、すまなかった』


 その言葉が私の心臓をえぐる。

 違う。そんなつもりじゃなかった。

 私はただ対等になりたかっただけなのに。

 このままじゃ、本当に終わってしまう。


 私の言葉足らずが、私の弱さが彼女を一番傷つける形で刺してしまった。


「待って⋯⋯っ!」


 思考よりも先に体が動いていた。

 私はサンダルを蹴るようにしてバルコニーを走り、会長との距離を詰める。


「違います! 待って下さい⋯⋯!」


 彼女は立ち止まらない。

 私の声が聞こえていないかのように、あるいは聞くことすら辛いかのように、頑なに背を向けたまま歩を進める。


「玲奈さんッ!!」


 私は手を伸ばし、その細い体に飛びついた。

 背中から強く、強く抱きしめる。


 ドンッ、と二人の体がぶつかる衝撃。

 彼女の足が止まった。


「⋯⋯離せ、陽菜」


 その声は低く震えていた。

 冷たい手が、私の組んだ指に触れる。一本一本、無理やり引き剥がそうとする力は拒絶そのもので、触れた場所から凍りつくような感覚が走った。


「同情ならいらない。⋯⋯これ以上、私に惨めな思いをさせないでくれ」


 引き剥がされそうになる指に、私はありったけの力を込めて抵抗した。

 爪が玲奈さんの肌に食い込むかもしれない。でも、今は構わなかった。


「同情なんかじゃありません!」


「嘘をつくな。⋯⋯君は騙されているんだ」


 玲奈さんが吐き捨てるように言う。


「金で君を縛り、恩を売り、そうやって君の優しさにつけ込んだ卑怯な女だ。⋯⋯中身は空っぽで、ドロドロとした嫉妬と独占欲しかない⋯⋯そんな怪物を、愛せるはずがないだろう!」


 その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが弾けた。

 悲しみでも、焦りでもない。

 それは玲奈さんの勝手な決めつけに対する、激しい「怒り」だった。


「――バカ! 玲奈さんのバカ!」


 私は思わず、彼女の背中をドンと頭突きした。


「勝手に決めつけないでください! 私の『好き』を、玲奈さんの勝手な卑下で否定しないで!」


「⋯⋯なっ」


「お金なんてどうでもいい、リムジンも別荘もいらない! 私が欲しいのは、今ここで震えている玲奈さんだけなんです!」


 私は会長の背中に顔を押し付け、ありったけの声を張り上げた。


「契約解除したいって言ったのは⋯⋯もう『嘘の恋人』は嫌だからです!」


「⋯⋯え?」


「守られるだけじゃ嫌なんです! お姫様扱いされるだけの関係なんて、もういらない!」


 私の涙が彼女の白いワンピースに染みていく。


「私は⋯⋯玲奈さんの、本当の恋人にしてくださいって言ってるんです!」


 時が止まった。

 波の音だけが、ザザァ⋯⋯と優しく響く。


 玲奈会長の体が硬直したのがわかった。

 指を引き剥がそうとしていた手の力が、ふっと抜けていく。


「陽菜⋯⋯なにを言っている?」


「私、あのアトリエの絵を見て⋯⋯救われたんです」


 私は言葉を紡ぐ。飾り気のない、私の魂の叫びを。


「ずっと孤独でした。美羽に尽くして自分の価値を証明しようとして⋯⋯でも空っぽで。美羽に冷たくされて家に帰って一人で落ち込んでいた夜も、誰も私を必要としてないんじゃないかって消えてしまいたくなった朝も⋯⋯そんな時にあの絵に出会ったんです」


「⋯⋯⋯⋯」


「あの絵だけは、何も言わずにそばにいてくれた。『痛いよね、苦しいよね』って、私の代わりに叫んでくれていた⋯⋯」


 言葉にするたび、涙が溢れて止まらない。

 顔も知らないその絵の作者に私は何百回、何千回救われたかわからない。


「あんなに激しくて、優しくて、綺麗な青色を描ける人のことを、幻滅なんてするわけないじゃないですか!」


 腕に込める力を強める。

 逃がさない。もう絶対に、この人を一人にはしない。


「あの絵を描いたのが玲奈さんだと知って、私⋯⋯もっと好きになったんです!」


「⋯⋯っ」


「だから契約なんていらない。⋯⋯私も玲奈さんの弱さを支えたい。会長と生徒じゃなくて対等なパートナーになりたいんです!」


 私の告白が夜のバルコニーに響き渡った。


 長い、長い沈黙があった。

 やがて私の腕を掴む会長の手が熱を帯びて震え出した。


「⋯⋯ずるいぞ、陽菜」


 彼女はゆっくりと私の拘束を解き振り返った。

 その顔を見て私は息を呑む、いつも完璧な「氷の女王」が子供のように顔を歪め、ボロボロと大粒の涙を流していたから。


「そんなことを言われたら⋯⋯私はもう、絶対に君を手放せない」


 痛いほどに強い力で私の両肩を掴む。それが彼女の感情の質量だった。


「⋯⋯私は、怖かったんだ」


 会長が堰を切ったように語り始めた。


「一年前のあの日⋯⋯『氷室の当主となる者には不要』だとビリビリに破かれて、描き溜めた絵をゴミ捨て場に捨てた。⋯⋯自分の魂を、自分で殺そうとしたんだ」


 その光景が目に浮かぶようで、私の胸が痛む。

 通り過ぎる人々は皆彼女を無視し、世界中から色が消えたようだっただろう。

 たった一人で自分の分身を捨てる彼女の絶望はいかばかりだったか。


「世界は灰色だった。⋯⋯生きている意味などないと思っていた」


 玲奈会長の瞳が私を射抜く。


「だが、君が現れた」


 あの日のゴミ捨て場。


「君は私が捨てた汚い絵を拾い上げ⋯⋯『綺麗』だと言って、抱きしめてくれた」


「⋯⋯玲奈さん」


「そこに現れた君はハンカチを取り出して⋯⋯私の汚れた絵を、まるで迷子の子猫を見つけたみたいに優しく撫でたんだ。⋯⋯信じられなかった。親ですら愛さなかった私を、その『闇』を見ず知らずの君が肯定してくれたんだ」


 彼女の目から新たな涙が溢れ落ちる。


「あの日、君が『見つけてくれた』瞬間、私の止まっていた心臓が動き出した音がした。⋯⋯灰色の世界に色をくれたのは、陽菜、君だったんだよ」


 肩への圧力が緩む。


「美術室で、君が言っただろう。あの絵は君の理解者でヒーローだって。⋯⋯嬉しかった。死ぬほど、嬉しかった」


 会長は私の肩から手を離し自分の胸に手を当てた。


「契約など最初からどうでもよかった! 『魔除け』なんてただの口実だ! 私はただ⋯⋯君のそばにいたかっただけだ!」


 それが彼女の真実。

 完璧な生徒会長の仮面の下に隠していた、ただ一人の恋する少女の本音。


「自分の正体を知られたら嫌われると思った。だから金を使い、権力を使い、必死に『理想の王子様』を演じてきた。⋯⋯でも、君はそれすらも度外視して、こんなボロボロな私を選んでくれると言うのか?」


「はい。⋯⋯玲奈さんがいいんです。弱くて、不器用で、寂しがり屋な玲奈さんが、大好きなんです」


 私が頷くと会長は天を仰ぎ声を詰まらせた。


「⋯⋯ああ、もう⋯⋯降参だ」


 彼女は再び私に向き直り、真っ直ぐに私の瞳を見つめた。

 そこにはもう、迷いも恐れもなかった。

 あるのは燃えるような情熱と深海のように深い愛だけ。


「愛している、陽菜」


 甘く、重く、切実な響き。


「私の全てをかけて、君を幸せにする。君が泣くなら私が傘になろう。君が笑うなら私が世界中から花を集めよう。⋯⋯だから」


 震える手を差し出した。

 契約書へのサインではなく心と心を繋ぐための、握手を求める手。


「私の、本当の恋人になってくれ」


 私は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、精一杯の笑顔を作った。


「⋯⋯はいっ⋯⋯! 喜んで!」


 私はその手を握り――いや、その胸に飛び込んだ。

 玲奈会長が私を受け止め、強く、強く抱きしめ返す。

 骨がきしむほどの強さ。でも、それが心地よかった。


「私も⋯⋯玲奈さんが大好きです! あの絵も、あの絵を描く玲奈さんも、全部ひっくるめて私の宝物なんです!」


「⋯⋯ありがとう、陽菜。ありがとう⋯⋯ッ」


 私の肩口で玲奈さんが泣いている。

 私も、玲奈さんの温もりを感じて涙が止まらなかった。


「あの絵を描いてくれて、生きていてくれて、私を救ってくれて⋯⋯ありがとうございます」


 私がそう伝えると玲奈さんは顔を上げ、濡れた瞳で私を見つめ、そして少しだけ意地悪く、けれど最高に幸せそうに笑った。


「⋯⋯言っておくが、覚悟してもらうぞ」


「え?」


「一度手に入れたら私は絶対に離さない。君が嫌だと言っても、別れたいと泣いても、私は絶対に認めない。⋯⋯私は執念深いからな」


 それは脅し文句のようでいて、最高に安心できる愛の約束だった。

 私は涙を拭い、玲奈会長の首に腕を回して、ニカッと笑って返した。


「はい、よく知ってます。⋯⋯望むところです」


 夜空には満天の星、足元には静かな波音。

 そして私の背中には、世界で一番温かくて強い腕の感触があった。


 遠回りをしたけれど、私たちはようやく、本当の意味で巡り会えたのだ。


 青い夜の世界で、二つの魂が溶け合うように。

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