第25話:解かれた契約、あるいは残酷な勘違い
私は溢れ出しそうになる感情を抑えきれず踏み出した。
伝えたいことが山ほどあった。この絵がどれほど私を救ってくれたか。あなたが私の孤独の理解者だったことに、どれほど感謝しているか。
けれど私の足が一歩近づくのと同時に玲奈会長はビクリと肩を跳ねさせ、一歩後ずさった。
「⋯⋯すまない」
「え?」
「汚いものを見せた。⋯⋯忘れてくれ」
その言葉は拒絶だった。
私に向けられたものではなく、会長自身に向けられた鋭い刃のような自己否定。
彼女は踵を返すと逃げるようにアトリエを飛び出した。
「あっ、待ってください! 玲奈会長!」
私は慌てて追いかけた。
重い木の扉を抜け、蝉時雨が降り注ぐ森の小道へと駆け出す。
それでも白いワンピースの背中は驚くほど速くて、木々の向こうへ、あっという間に消えていく。
「会長⋯⋯っ!」
私の声は夏の騒がしい合唱にかき消され、虚しく森の中に吸い込まれていった。
◇
私は一人、アトリエに戻った。
主を失った青い絵画たちが静かに私を見つめている。
私はその中の一枚――『R.Himuro』のサインが入った、深い青色の抽象画の前に座り込んだ。
玲奈会長が逃げた。あんなに完璧で、強くて、自信満々だった生徒会長が、怯えた子供のような顔をして。
(⋯⋯どうして?)
私は絵を見つめる。
そこにあるのは荒々しい筆致と悲鳴のような色彩。
一年前の私ならただ「悲しい絵」だと思ったかもしれないが、今の私にはわかる。これは玲奈会長の心そのものだ。
誰にも理解されず、否定され、それでも「ここにいる」と叫び続けていた、彼女の本当の姿。
玲奈会長はこの秘密を私に見せるつもりだった。でも、いざ私が先に見てしまった時、彼女は怖くなったのかもしれない。
私が幻滅するんじゃないか。拒絶するんじゃないか、って。
(⋯⋯バカだなぁ、会長は)
目頭が熱くなる。
幻滅なんてするわけない。むしろ、逆だ。
私はずっと玲奈会長に「守られる側」だった。
お金も、地位も、強さも持っている彼女に、ただ愛されて甘やかされてお姫様のように扱われていた。
私はそれが申し訳なくて釣り合わない自分が怖くて「契約」という言葉に逃げていた。
でも、そうじゃない。
会長もまた傷ついた一人の女の子だったんだ。
私と同じように孤独で、誰かにわかってほしくて震えている、不器用な人。
私は絵の具の匂いが染み付いたキャンバスにそっと手を触れた。
(⋯⋯この絵を描いた彼女を支えられるのは、私しかいない)
世界中でたった一人、ゴミ捨て場でこの絵を拾い上げ、繋ぎ合わせて宝物にしてやまない私なら彼女の痛みに寄り添えるはずだ。
決めた。
私は涙を拭って立ち上がった。
もう「お姫様」は終わりにする。
守られるだけの偽物の恋人は卒業する。
私は玲奈会長と「対等」になりたい。
契約なんていう壁を取り払って、彼女の弱さごと抱きしめられるような、本当のパートナーになりたい。
そのために――私は、この契約を終わらせなければならない。
◇
夕方――別荘のリビングは葬式のように静まり返っていた。
会長は部屋に引きこもったまま出てこないでいる。
私はソファに座り、膝を抱えてじっと窓の外の海を見ていた。水平線に沈む夕日が海を血のような赤に染めている。
「⋯⋯はい、陽菜」
コトン、とテーブルにマグカップが置かれた。
湯気を立てているのは甘い香りのココアだ。
「⋯⋯あ、ありがとう、美羽」
見上げると美羽が心配そうな顔で立っていた。
顔の日焼け跡とクラゲに刺された足の絆創膏が痛々しいが、その瞳は真剣だった。
「⋯⋯あんたたち喧嘩でもしたの? 珍しいじゃん」
美羽は私の隣にドスンと座った。
いつものように「玲奈会長の悪口」を言うでもなく、ただ静かに寄り添ってくれる。
「喧嘩⋯⋯ううん、違うの」
私はココアを一口飲んだ。温かさが胃に染み渡り、強張っていた体が少しだけ緩む。
「ただ⋯⋯私が気づいただけ」
「何に?」
「⋯⋯私が今まで、ずっと甘えてたんだってことに」
私はマグカップを両手で包み込んだ。
「美羽、私ね⋯⋯今日で『お姫様』を辞めることにしたんだ」
「は? 何それ。またとっぴなこと言い出した?」
「ううん、本気だよ。⋯⋯ガラスの靴を脱いで、自分の足で立ちたいの。そうじゃなきゃ、本当に大事な人の隣にはいられないから」
美羽はポカンと口を開け、それから「ふーん」と鼻を鳴らした。
「よくわかんないけど⋯⋯まあ、陽菜がそう決めたならいいんじゃない?」
美羽はぶっきらぼうに言いながら、ポンと私の頭に手を置いた。
「でも、もしあの会長が陽菜を泣かせたら、私が噛みついてやるからね。⋯⋯泥棒猫退治の準備はいつでもできてるんだから」
「ふふ、ありがとう美羽。心強いよ」
美羽の不器用な優しさに背中を押され、私はあらためて決意を固めた。
夜になったら玲奈会長と話そう。
全てを明らかにして、そして新しい関係を始めるために。
◇
別荘は深い静寂に包まれていた。
波の音だけがザザァ⋯⋯ザザァ⋯⋯と一定のリズムで響いている。
私は会長のいる部屋の前に立ち、深呼吸をしてからノックをした。
コン、コン。
「⋯⋯誰だ」
中から聞こえた声は、ひどく弱々しかった。
「陽菜です。⋯⋯会長、お話があります。出てきてくれませんか?」
少しの間があり、重い足音と共にドアが開いた。
「⋯⋯陽菜」
姿を見せた会長は見ていられないほどやつれていた。
いつも完璧に整えられている髪は乱れ、目の下には隈ができている。白いワンピースのまま、ずっと部屋の隅で膝を抱えていたのかもしれない。
彼女は怯えていた。
私が何を言いに来たのか、察しているかのように。
「⋯⋯昨日の、バルコニーに来てください。大事な話があるんです」
「⋯⋯ああ。わかった。行こう」
会長は死刑台へ向かう囚人のように力なく頷いた。
◇
月明かりが照らすバルコニー。
昨夜、ここで星を見上げながら幸せを噛み締めていたのが、遥か昔のことのように思える。
会長は手すりに背を向け、うつむいたまま立っていた。
私と目を合わせようとしない。
「⋯⋯玲奈会長」
私は努めて冷静に声をかけた。
「私、気づいちゃいました。⋯⋯森のアトリエにあった、あの絵」
彼女の肩がピクリと震える。
「⋯⋯会長が、描いたんですね」
「⋯⋯⋯⋯ああ」
搾り出すような肯定。
「あの日、あのゴミ捨て場に居たのも⋯⋯会長だったんですね」
「⋯⋯そのとおりだ」
会長は顔を上げない⋯⋯まるで罪の告白をするように、ポツリポツリと言葉を落とす。
「親に破かれ、誰にも認められず⋯⋯自分自身の手でゴミ捨て場に葬った私の汚い分身だ。⋯⋯君が大事にしていた絵の作者が、あんな陰鬱なものを描く私だと知って⋯⋯幻滅しただろう」
「違います!」
私は叫んだ。
「幻滅なんてしてません! むしろ、私は⋯⋯」
「慰めはいらない」
玲奈会長が私の言葉を遮った。
その声は拒絶のように鋭く、そして悲痛だった。
「⋯⋯君は優しいから私を傷つけないように言葉を選んでいるのだろう。だが、もういいんだ」
彼女は自分の中で勝手に結論を出そうとしていた。私が真実を知り、彼女の「闇」を見て、離れていこうとしているのだと思い込んでいるようだった。まるで絵画に描かれた暗い底のような心の澱が彼女を蝕んでいる。
違う。そうじゃない。
言葉で伝えなきゃ。私の本当の気持ちを。
でも、そのためには今のこの「嘘の関係」を終わらせなきゃいけない。
「会長⋯⋯私たち、嘘をつくのはもうやめませんか?」
私の言葉に会長がハッと顔を上げた。
月光に照らされたその瞳は、絶望に揺れているように見える。
「⋯⋯嘘、か。そうだな。⋯⋯所詮は、金で買ったような契約関係だ」
「そういう意味じゃなくて⋯⋯」
「陽菜」
震える声で私の名前を呼んだ彼女の目には、涙が溢れそうになっていた。
私は意を決して最後の一言を口にした。
ここから本当の私たちを始めるために。
「聞いて下さい⋯⋯会長との契約を解除したいんです」
◇
風が止まった。
波の音すらも、一瞬だけ消え失せた気がした。
私の瞳からすうっと光が消えていった。
感情の色が抜け落ち、ただの硝子玉のような、冷たく虚ろな瞳になる。
(⋯⋯ああ、やはり)
私の脳内で最悪のシナリオが確定した。
『契約解除』――それは別れの宣告。
「あなたの本当の姿を見たら気持ち悪くなりました。もう一緒にいられません」という陽菜からの最終通告。
私はずっと恐れていたんだ。
陽菜が愛していたのは「完璧な生徒会長」としての氷室玲奈であり、薄暗いアトリエで孤独を撒き散らす「本当の私」ではないのだと。
その懸念が今、現実になったのだ。
(⋯⋯そうか。私の闇は君の光には重すぎたか)
胸が張り裂けそうだった。
心臓を素手で握り潰されるような痛み。
だけど氷室家の娘としての最後の矜持で涙を流すことだけは堪えた。
大好きな陽菜を、これ以上困らせてはいけない。
「⋯⋯そうか」
その声は驚くほど静かで平坦だった。
「わかった。⋯⋯君は自由だ」
「えっ? あ、あの⋯⋯玲奈さん?」
「明日、車を用意する。⋯⋯君と愛川美羽を家まで送らせよう」
「え、待ってください、私は⋯⋯」
「⋯⋯今まで、すまなかった」
拒絶の言葉――これ以上、何も言うなという鉄壁の壁。
私は陽菜に背を向けてバルコニーを後にした。




