第24話:森の中の青い記憶
翌朝、私は波の音ではなくどこか張り詰めたような静寂の中で目を覚ました。
隣のベッドを見るとシーツは整えられていて、玲奈会長の姿はなかった。
「⋯⋯玲奈会長?」
まだ朝の光が弱い時間帯、反対側のベッドでは昨日クラゲとカニと波の波状攻撃を受けた美羽が爆睡している。
「⋯⋯にへへ⋯⋯ひなぁ⋯⋯もう食べられないよぉ⋯⋯クラゲの酢の物⋯⋯」
幸せなのか不幸せなのかわからない寝言を呟き、よだれを垂らしている。
彼女が起きる気配は向こう半日はなさそうだ。
私はベッドを抜け出しリビングへと向かった。
広大なテーブルの上には、すでに朝食の準備が整えられていたが、そこに座るはずの会長の姿がない。
代わりに燕尾服を着た老執事が静かに頭を下げた。いつもリムジンで送り迎えしてくれている『爺』と会長から呼ばれている人だ。
「おはようございます、陽菜様」
「あ、おはようございます。あの、玲奈会長は⋯⋯?」
「お嬢様は急用で書斎に入っておられます。⋯⋯旦那様、お嬢様のお父上から国際電話が入ったようでして」
「そうなんですね、お父様から⋯⋯」
執事さんの表情が少し曇ったのを私は見逃さなかった。
そういえば会長は自分の家族の話をあまりしない。氷室財閥という巨大な家の事情は、私のような庶民には想像もつかないけれど、あまり楽しい話ではないのかもしれない。
「朝食が冷めてしまいます。お先に召し上がってください」
「い、いえ。待ちます。一人で食べるのは寂しいので」
私がそう答えると執事さんは嬉しそうに少し困ったように微笑んだ。
「⋯⋯承知いたしました。では、お嬢様がいらっしゃるまでお庭の散策でもいかがですか? 朝の空気は澄んでいて気持ちが良いですよ」
「そうですね。⋯⋯そうします」
折角の提案に乗って私はサンダルを履き、テラスから外へと出ることにした。
◇
別荘の敷地は広大で表側には昨日、遊んだ白い砂浜と海が広がっているが裏手には鬱蒼とした森が広がっている。
蝉時雨が降り注ぐ中、私は木漏れ日が揺れる小道を歩いた。
昨夜、玲奈会長が言っていた言葉が頭を離れない。
『君に見せたいものがある』
『私のアトリエで、秘密を話したい』
秘密――その言葉が胸の中で甘く、そして少しだけ不安に響く。
会長は一体何を隠しているんだろう。
もしかして、私たちが「契約」の関係であることを終わらせるような⋯⋯そんな重大な話なのだろうか。
「⋯⋯ん?」
考え事をしながら歩いていると森の開けた場所に辿り着いた。
そこには緑の蔦に覆われた、古びた洋館がひっそりと佇んでいた。
本館の白亜の宮殿とは違う、レンガ造りの重厚な建物は、まるで時が止まったような、森の中に忘れ去られた隠れ家のような雰囲気を漂わせている。
「ここが⋯⋯会長のアトリエ?」
私は吸い寄せられるように近づいた。
よく見ると普段なら鍵がかかっているであろう重い木製のドアが、わずかに開いている。
玲奈会長が私を案内するために鍵を開けておいてくれたのかもしれない。
「⋯⋯会長? いるんですか? 入りますよ?」
返事はなかった、私はドアに手をかけ、ゆっくりと押し開けた。
ギィィィ⋯⋯。
蝶番が錆びた音を立てる。
中へ足を踏み入れると、ひやりとした冷気と共に鼻をつく匂いが立ち込めた。
油絵具の匂い――カビと、埃と、テレピン油の混ざった、あの美術室と同じ匂い。
目が暗さに慣れるのを待って、私は息を呑んだ。
「⋯⋯これ⋯⋯」
そこは青の世界だった。
高い天井まで届く壁一面に、無数のキャンバスが立てかけられていた。
床にも、イーゼルの上にも、大小様々なサイズの絵が散乱している。
その全てが、青かった。
深く沈むような群青。
凍えるようなアイスブルー。
血のように暗い藍色。
描かれているのは具体的な風景ではない。
嵐のような筆致で塗りたくられた色彩の暴力。
叫び。嘆き。怒り。そして、祈り。
抽象画だ。
どれもこれも見る者の心をえぐるような、激しい感情が叩きつけられている。
私は知っていた。
このタッチを。
この、息ができなくなるほどの孤独な色を。
私の足が勝手に動いた。
部屋の中央にあるイーゼルに近づく。
そこにあったのは昨日見た夜の海のような、深く優しい青のグラデーションだった。
まだ絵の具が完全に乾ききっていない、最近描かれたもの。
「⋯⋯同じだ」
私の震える指先がキャンバスの縁に触れる。
一年前――ゴミ捨て場で私が拾ったあの絵。
泥だらけで捨てられていた私の宝物。
それと全く同じ魂がここにある。
「⋯⋯嘘」
心臓が早鐘を打つ。
点と点が線で繋がっていく。
あの雨の日、私が美羽に捨てられ絶望してうずくまっていた時、傘を差してくれた玲奈会長。
以前、聞いたとき彼女は偶然通りかかったと言っていた。
でも、もし偶然じゃなかったとしたら?
美術室で私が「あの絵が宝物だ」と話した時、そのあとに現れた玲奈会長の、泣き出しそうな、それでいて決意に満ちたあの表情は――。
『君が思っている以上に、君は私にとってかけがえのない存在だ』
昨夜の言葉の意味が今、すとんと腑に落ちた。
私はイーゼルの足元に置かれたパレットナイフの横に、小さなサインを見つけた。
走り書きのような鋭い筆跡。
『R.Himuro』
R⋯⋯Reina。
氷室、玲奈。
「⋯⋯あ⋯⋯」
声が震えた。
涙が溢れてきた。
悲しいからじゃない。衝撃とそして温かい何かが胸いっぱいに広がったからだ。
「⋯⋯玲奈会長が? 私が救われた、あの絵を描いたのは⋯⋯会長だったの?」
私が毎日見つめ、話しかけ、心の支えにしていた「名もなきヒーロー」。
孤独な夜に私に「ひとりじゃない」と教えてくれた仲間。
それがまさか。
今、私の隣にいてくれるあの人だったなんて。
玲奈会長は知っていたんだ。
私が彼女が捨てたはずの絵を大事に持っていることを。
それを知っていて、ずっと黙って⋯⋯私を守ってくれていたんだ。
「⋯⋯っ」
私はキャンバスの前で立ち尽くした。
青い色彩が視界の中で滲んで揺れる。
ずっと遠い存在だと思っていた。
完璧で、強くて、何でも持っているお姫様。私なんかとは住む世界が違う人。
でも、この絵はどうだ。
こんなにも傷ついて、叫んで、もがいている。
私と同じだ。ううん、私以上に寂しがり屋で、誰かにわかってほしくて震えている。
愛おしさが爆発しそうだった。
その時――ギシッ。
背後の床板が軋む音を立てた。
風が止まる。
蝉の声が一瞬だけ遠のいた気がした。
私は、ゆっくりと振り返った。
入り口のドアのところに逆光のシルエットが立っていた。
白いワンピース姿、手にはスマートフォンが握りしめられている。
「⋯⋯⋯⋯陽菜」
氷室玲奈だった。
彼女は私がアトリエの中にいることに驚き、目を見開いて硬直していた。
いつも余裕たっぷりの「生徒会長」の顔はそこにはない。
ただの自分の秘密を――予期せぬ形で見られてしまった一人の少女の顔が、そこにあった。
「玲奈会長⋯⋯」
私は名前を呼ぶ。
それ以上の言葉が出てこない。
彼女の視線が私の背後にあるイーゼル――『R.Himuro』のサインが入った絵と私の顔を行き来する。
隠しようがない。
全ての真実は、この青い空間に晒されている。
「⋯⋯見られて、しまったか」
玲奈さんの声は掠れていた。
怒っているわけではない。拒絶しているわけでもない。
ただ、どこか怖がっているように聞こえた。
「玲奈会長、これ⋯⋯」
言葉にしようとすると喉が詰まる。
伝えたいことが多すぎる。
「ありがとう」も「大好き」も「やっと会えたね」も、全部伝えたいのに。
私たちの間に重たい沈黙が流れた。
建物の外では蝉たちが命の限り鳴き叫んでいる。
会長はスマホを強く握りしめ、まるで断頭台に立つような表情で、私を見つめていた。
契約の終わり――そして、本当の物語の始まり。
この森の中の古いアトリエで私たちは初めて、嘘偽りのない「裸の心」で向き合った。




