9話
「起きてください猿里。面白い物が見られますよ」
僕は陶華の声で目覚めたようだった。
「一体何ですか……」
まだ月明りだけの闇夜だった。
いいから早く、と急かす陶華に促されるままについていく。
僕が丘の頂上で見たのは、無数の松明の光だった。
赤い光は大河沿いの道でゆらゆら揺れながら、大河の上流の方へと連なっている。
「……あれは一体」
「自分で考えてみてください」
その口調から、陶華が皮肉な笑みで顔を歪ませているが、顔を見ずとも分かった。
僕は慌てながらも、何とか落ち着こうと息を吐き、考えを巡らせていった。
「……賊徒への報復……でしょうか……」
「少し惜しいですね。そもそも町を襲っていたのは賊徒ではありません。賊徒が揃いもそろってあんな鉄鎧を着けているはずがないでしょう。やっぱり世間知らず……おっと失敬……本当に莫迦ですね猿里は。賊徒が身に着けているのは精々皮鎧が関の山です」
「……ならば司紀国の軍勢でしょうか」
「ここ千年近く三王国同士での大きな争いは起きていませんし、国境も大分遠いのでまず違うでしょう」
――まさか……そういう事か。
「防人……でしょうか……」
「良く知っていましたね。ここ令国はなまじ豊かな事もあり、国軍とは別に地方に防人が配備されている事が多いのです。先の襲撃も、賊徒ではなく仲の悪い町同士が、防人を使って戦争の真似事をしていたという事でしょう」
「では……今この軍勢が……この防人の軍勢が向かっているのもまた、無辜の民が暮らす町という事ですか……」
僕は全身の力が抜けていくのを感じた。
「詳しい事情は知りませんし、防人に町を襲わせている時点で無辜の民とは言えないと思いますが、大体そういう事ですね」
「何とか争いを止める事は出来ないのでしょうか……」
「お互いの町を監視して、防人が動く度に邪魔していけば防げるでしょうが、いずれは私の寿命も尽きます。それまでの高々何十年かで、彼らが怨恨を忘れられるとは到底思えませんね。そもそも面倒なのであんな事はもう沢山です」
「僕は……」
――どうすれば良かったのだろう。
「無駄なんですよ! あなたがやろうとしている事は全て。困っている人を助けても、助けられた人の敵対者は損をする事になります。助けた事が本当に当人の為になるとも限りません。この世をより良くしようなどと、おこがましいにも程があります。この鶏も私が戦争の邪魔をしなければ、今でも生きていられたかも知れませんね」
陶華は鶏肉の最後の一かけらを口に投げ込んで噛み砕いた後、続けた。
「それでも一応は困っている人を助けられましたし、猿里も十分自己満足が出来た事でしょう。あら、何ですかその顔は。……頼むからそんな……厠に寸前で間に合わなかった阿呆な馬鹿ガキのような情けない顔はしないでください。……あまりに面白すぎて笑いが堪え切れませんので……ハハハハハハ!」
彼女は声を上げて笑ったが、その笑みに優しさは欠片も感じられなかった。
僕は何も言い返せないまま、ただただ揺らめきながら遠ざかって行く明かりの行列を呆然と見つめる事しか出来なかった。
やがて、闇夜に響く高笑いが収まった頃、陶華は諭すように僕を見下ろした。
「やれ他者の為だの、世をより良くするだの、本当に反吐が出ます。そんな物、ただ自分が満足して見返りが欲しいだけの偽善者の戯言です。そんな糞未満の唾棄すべき屁理屈を捏ねている暇があるなら、獣や魔獣のように虚飾なく、自由に生きるべきです。猿里、あなたももっと自由に生きてはいかがですか? それとも防人が私に成敗される姿が見たかったので、折角の十点を使ってまで私に頼み込んだという事ですか? だとしたらとても自由で、自分の欲求に素直で素晴らしい話です」
僕は悔しくて、情けなくて仕方なかった。
しかし、何も言い返せない。
僕には陶華をねめつける事しかできなかった。
「……おや……何ですかその目は。どうしましたか? ああ……夜討ちされる向こうの町や逃げ惑う人々が見られないのがそんなにも悲しいのですか? それなら特別奉仕で連れて行ってあげますので、どうかご安心ください。向こうの村の防人共は、私の介入で散々に士気が下がっているでしょうから、きっと面白いくらい一方的な蹂躙が見られると思いますよ」
「――少し黙っていてください!」
「おっと……これは失礼いたしました」
僕をからかうように、陶華は白々しく顔に手を当てて押し殺したような笑い声を上げていた。
「それじゃあ、私はもう寝ますね」
陶華は上機嫌で焚火の傍に戻り、寝袋に包まった。
僕はその姿を見送った後、また松明の列に向き直った。
僕は揺らめく蛍火のようなその明かりを、憎らしい程美しく闇を照らすその灯の列を、唇を噛んで見つめるしかなかった。
――僕は、どうすれば良かったのだろう。
僕は、陶華に町を守るよう頼んだあの時、可能性を少しも考慮していなかった。
賊徒に襲われる村を守ることは、絶対的に正しい人助けだと思っていたし、そこに考える余地はないと思ったからだ。
しかし……実際はそんな単純な話でもなかった。
こんな一見考えるまでもなく正しい……と思える人助けですら、無辜の民を苦しめてしまう可能性を孕んでいるとは……。
一体何が正しくて何が間違っているのか、分からなくなってしまいそうだった。
僕はゆっくりと天を仰いだ。
輝く星々の美しさと、それを感じ取る僕の心。
それ以外の全てが歪んで、ぼやけて、靄までかかっている不確かな物に感じられて来た。
――いや、駄目だ。それでも僕は中原を預かる魔帝だ。それは確かだ。
僕が間違っていたのは、陶華が言っていたように、鉄鎧を見て賊徒の装備ではないと気付けなかった無知と、陶華の武に頼り切り、双方の事情を考えなかった強引な手法だ。
防人同士の争いであることをすぐ見抜き、お互いの言い分を聞き取り、その間を取り持つ事こそ、僕が為すべき事だったのだ。
反省する事は反省し、陶華も……防人の命を奪う事はしなかったし、慈悲の心は多少なりともきっとある筈だ。
……なんとか改心させて真っ当な優しさを取り戻してやるか、あるいは僕が何とか手玉に取ってやり……これは難しいだろうが……とにかく、どうにかして陶華と共に協力して、世をより良くしていく事は出来るはずだ。
このまま南蛮に逃げ、そこを拠点にして世直しの事業や、旅をするというのも良いかも知れない。
――まだ僕に何かできる事はある筈だ。
僕は大河の上流を目指し、低木と草むらの茂る丘の上を駆けた。
十点はもう使い果たしてしまったし、陶華をいくら説得しても手伝ってくれるとは到底思えない。
それでも、このまま何もせずに蹂躙される町を、指をくわえて見ているなんて事は絶対に出来ないし、何よりしたくない。
進軍はあまり速くないし、今から走って追い付けば間に合う。
今更攻め入ろうとする防人を説得できるのか、それは分からない。
だが最悪でも、防人が向こうの村に到着する前に知らせ、少しでも逃げ延びる人々を増やすくらいの事は出来るだろう。
そうして僕が丘の崖を駆け降った時だった。……おかしな音が聞こえた。
まるで陶華が僕を背負って駆ける時の、跳ぶような靴音。軽やかで高い音が断続的に響いている。
慌てて振り向くが、陶華が僕を追って来るような気配はない。
それに、音は陶華のいる筈の方向ではなく、僕が進む左手……南の方から響いているようだった。
その音がいよいよ近付いて来ると、一陣の風が吹いた。
砂が入り込んだ目を擦ると、眼前にあの偉丈夫、劾銅が立っていた。