第二話:静寂のひび割れる場所(一)
常夜の街に、朝が緩やかに訪れた。青白い光が、狭い路地に沿って隙間なく並ぶ古いテラスハウスの壁をかすめていく。薄い霧は未だ低く立ち込め、建物の隙間から完全には消え去っていなかった。街はいつも通りの表情を見せていた。いくつかの窓が一つ、また一つと開き始め、遠くから足音が静かに響き、大通りを通り過ぎる馬車の車輪の音と混ざり合う。生活は、前日と同じリズムで再び動き出していた。
静寂に満ちた夜が、ようやく明けたのだ。
ノクトは自宅の小さな窓の前に立っていた。ガラス窓は、外の霧と混ざり合うように、彼の顔のぼんやりとした輪郭を映し出している。彼は外を見るのではなく、ガラスの表面の向こう側にある、自身の微かな反射を見つめていた。ノクトはただそこに身じろぎもせず立ち尽くしていたが、その思考の中身は決して空虚ではなかった。エララとの昨夜の会話が、未だ脳裏に鮮明に焼き付いている。完全に安定していないヴィレスの変動について。永遠に避け続けることはできない絆の同調処理について。そして、すぐにでも下さなければならない決断について。
彼の黒い手袋は、傍らの小さな机の上に置かれていた。ノクトはそれをゆっくりと手に取ると、あまりにも見慣れた動作で一枚ずつ嵌めていった。その装着方法に特別なところは何もない。ノクトはそれから薄手のマントを取り、扉の方へと向き直った。木製のドアが静かな蝶番の音を立てて開き、それから大きな音を立てることなく再び閉じた。朝の空気が、湿った冷気とともに即座に彼を迎えた。
聖域ヴィレリン《サンクタム・ヴィレリン》の周辺地区が、目覚め始めていた。狭い路地に沿って、古いテラスハウスの列が密集してそびえ立っている。上階からは鍛鉄製のバルコニーが突き出しており、高い窓のいくつかは未だ暗闇に沈んだままだ。互いに密接した建物の壁が、本来あるべき姿よりも深い影を路地の隙間に蓄えている。ノクトが熟知しているこの街の光景に、何一つ変化はなかった。時折、遥か遠くを馬車が通り過ぎていく。その音が石畳の上を低く伝わり、明瞭に聞こえる前に静かに霧の彼方へと消えていった。注目に値するような、目立ったものは何もない。
それでも、ノクトは冷静に歩みを進めた。その足取りに乱れはなく、目的地もこれまでの日々と同じだった。いつものように、臨時の訓練場が彼を待っているはずだ。今日も変わらない一日になるはずだった。しかし、ノクトは奇妙な違和感を覚えていた。何かが違う――この街が変わったわけでも、毎日通る道が変わったわけでもない。変わったのは、自分自身だ。昨夜の会話以来、これまで自分が保っていた静寂が、音を立ててひび割れ始めているかのように。
ノクトはいつも通り、臨時の訓練場へと到着した。聖域ヴィレリン《サンクタム・ヴィレリン》の本館前に広がる開けた広場には、すでに他の数名の候補生たちが集まっていた。一見すると何の変化もないように思えたが、その場の空気は遥かに静まり返っていた。いつもなら、朝から軽い雑談や木製の訓練用武器が擦れ合う音が響いているはずだった。だがこの日は、囁き声以上の大きさで話す者はほとんどいなかった。周囲を警戒する教官たちでさえ、いつもより口数が少なく、まるで何かを待っているかのようだった。
ノクトは人だかりから数歩離れた場所で足を止めた。周囲を警戒していることを悟られないよう、穏やかに視線を巡らせる。彼はさりげなく、聖域ヴィレリン《サンクタム・ヴィレリン》の本館の最上階へと目を向けた。上階にある窓の一つが、いつも以上に固く閉ざされているように見えた。そこには誰も立っていなかったが、どういうわけか普段とは違う印象を受けた。まるで、誰かがガラスの向こう側からじっと監視しているかのような。ノクトは何の反応も示さずに視線をそらした。時間が経過しても、自分が監視されているという感覚が完全に消え去ることはなかった。
「候補生全員、整列」
主任教官の声は平坦だったが、いつも以上に鋭かった。彼は普段の訓練セッションの時よりも背筋を伸ばして列の前に立っており、その佇まいは今日がただの日常的な訓練ではないことを物語っていた。追加の説明はなく、あるのはただ絶対的な命令のみ。候補生たちが一斉に動き、列を形成し始めた。まだ僅かに湿り気を帯びた石床の上に、規則正しい足音が重なって響く。誰も疑問を口にせず、ノクトもその列の中に加わった。
主任教官は、全員の雑音が完全に消えるのを待った。その鋭い視線が目の前の顔ぶれを一つずつ巡り、必要以上に長い時間、ある一点で静止した。固定された視線のまま、彼は前置きなしに告げた。
「本日の訓練は行わない」
数人の候補生が、僅かに顔を上げた。驚いたからではない。その言葉が、何の導入も説明もなしに、あまりにも直接的に放たれたからだ。
「訓練場所を変更する」
場の空気が一気に重さを増した。候補生たちが互いに短い視線を交わし合ったが、声を上げる勇気のある者誰もいなかった。他の教官たちでさえ沈黙を保っており、彼らが最初からこの事実を知っていたことは明白だった。
「明後日、最終段階の訓練セッションをヴァンテール城塞にて執り行う」
その言葉は過度な強調なしに放たれたが、列の間に走った衝撃は確かなものだった。その名は決して無名ではないが、このような文脈で口にされるような場所では到底なかった。ノクトは微動だにしなかった。何らかの変更があることは予期していたが、まさか何の説明もなく、これほど直接的に状況が動くとは。
「使用するエリアは外周部のみとする」主任教官は続けた。「許可なく内部への立ち入りは認めない」
その声のトーンは冷淡なままだった。
「お前たちの任務は変わらない。指示に従い、評価を完遂しろ。そして、決してミスを犯すな」
その言葉が放たれた直後、完璧な静寂がその場を支配した。誰も質問せず、反論もしなかったが、この朝の空気の中で、確実に何かが決定的にズレ始めていた。ノクトはそれを明確に察知していた。これはもう、単なる通常の訓練などではない。
主任教官が再び口を開いた。「それから、もう一つ」
今度は、その視線は列全体を巡ることはなかった。彼のまっすぐな眼光は、明確な一点の座標にだけ固定されていた。
「――いくつかの決断に、当事者の同意は必要ない」
その一言が告げられた後、静寂は先ほどよりもさらに深い層へと沈み込んでいった。ノクトは動かなかった。その言葉が、明らかに自分に向けて意図的に放たれたものであることを、彼は肌で理解していた。
言葉が途切れた後も、周囲の雰囲気がすぐに変わることはなかった。候補生たちは硬直したまま沈黙を守り、まるで今耳にした言葉を咀嚼するために、数秒の猶予を必要としているかのようだった。誰も動かず、誰も尋ねない。ただ、候補生たちの間でかすかな呼吸の音だけが静かに響いていた。主任教官は自らの言葉を繰り返さなかった。彼はただその場に直立し、目の前に並ぶ十二名の候補生を冷ややかな視線で見つめ続けていた。
数秒が経過し、ついに――
「解散」
その一言に強調は含まれていなかったが、どういうわけかいつも以上に重く響いた。列が緩やかに崩れ始め、足音の同調が失われていく。最初は誰も声を上げず、候補生たちがそれぞれの位置から離れていく小さな動作だけがあった。しかし、互いの距離が開き始めると、抑え込まれていた低い声が表面へと漏れ出し始めた。
「ヴァンテール城塞……? それって、たしか極寒の領地フロストレインにある場所だよな?」
「本当にあんな場所に移動するのか?」
「なんで急に――」
その囁き声は、これが公に自由に口にすべき話題ではないことに気づいたかのように、自然と途切れた。数人の候補生は互いに短い視線を交わした後に口を閉ざし、他の者は何事も起きなかったかのように振る舞おうとしていたが、その歩調はあまりにも硬く、不自然さを隠しきれていなかった。
ノクトはその場に留まり、他の者のようにすぐには動かなかった。彼の視線は特定の誰かに向けられることはなかったが、周囲の状況を冷静に見守っていた。今朝の予感通り、確実に何かが変わり始めている。この突然の通達だけでなく、この場所全体の空気が変質している。
彼は広場の隅に立つ二人の教官に目をやった。普段の彼らは比較的リラックスしており、時折互いに言葉を交わしたり、半ば退屈そうな表情で候補生たちを監視しているのが常だった。しかし、今日は違かった。会話は一切なく、その眼光は遥かに鋭く、一点に集中していた。まるで、何かが発生するのをじっと待ち構えているかのように。
ノクトは視線をそらした。広場の反対側では、数人の候補生が小さなグループを作り、囁き声に近い低いトーンで話し込んでいた。
「……聞いた話だと、あのヴァンテール城塞は普通の訓練場じゃないらしい」
「そもそも、あそこで訓練が行われたことなんてあるのか?」
「そうじゃない。俺が言いたいのは……あそこは――」
「静かにしろ。ここで話すな」
教官の一人がこちらに視線を向けたことに気づき、彼らの会話は強制的に遮断された。ノクトはそれ以上耳を傾けることに興味を示さなかった。彼は何事もなかったかのように、静かに歩みを進めた。しかし、その双眸はあらゆる微細な違和感と、あるべきではない空間の歪みを確実に捉えていた。
広場の端を通り過ぎる際、彼は再び聖域ヴィレリン《サンクタム・ヴィレリン》の本館を見上げた。最上階の窓は、未だ固く閉ざされたままだ。その背後に人影はなく、何の動きも見られなかったが、あの奇妙な感覚だけは消えずに残っていた。まるで、何かがそこから自分を凝視しているかのような感覚が。
ノクトは足を止めなかった。彼は訓練場を通り過ぎ、外へと続く石造りの廊下へと進んだ。背後では、他の候補生たちの足音がさまざまな方向へと拡散していく。追加の指示も、居残りの訓練セッションもない。この日はあまりにも早く終わり、そしてあまりにも空虚な感覚だけを残していった。
廊下に足を踏み入れると、ノクトの足音が低く響いた。両側の石壁は、いつも以上に冷ややかに感じられた。壁のブラケットライトの光が鈍く反射し、彼の歩みに合わせて長い影を床に投影していく。彼は歩調を速めることも、遅くすることもしなかったが、脳内の歯車は急速に回転を始めていた。
ヴァンテール城塞――その名が頻繁に口にされることはない。知名度が低いからではない。自分たちの訓練の一環として、その場所が組み込まれるなどとは誰も夢にも思わなかったからだ。あの場所は、通常の訓練のために用意されるような施設では決してない。
ノクトの足が一瞬、ほんの数分の一秒だけ止まったが、彼はすぐに歩行を再開した。前方的出口は、オープンな通路へと変貌し始めた薄い霧の向こう側に、ぼんやりと見えていた。数人の候補生がすでに外へと出ており、彼らのシルエットは朝霧の彼方へと一つずつ静かに消えていった。
ノクトは外へと一歩を踏み出した。外気は廊下内部よりも遥かに冷たかった。完全には消え去っていなかった朝霧が再び濃度を増し、建物の周囲に低く立ち込めている。目の前の石畳の道は、数メートル先で白く霞んでいた。彼の歩調は安定していたが、その場所から完全に離れる前に――
「おい」
側方から声が彼を呼び止めた。ノクトは足を止め、僅かに首を振って振り返った。一人の候補生が数歩離れた場所に立っていた。その髪は乱れ、まるで急ぎ足で追いかけてきたかのように、呼吸が僅かに荒くなっていた。
「お前も、今のを聞いていただろ?」
彼は声を潜めながら尋ねてきたが、その口調は明らかに動揺を隠しきれていなかった。ノクトはすぐには答えなかった。
「さっきの通達のことか?」
平坦に問い返す。
「ああ。つまり……ヴァンテール城塞のことだ」候補生が一歩近づいた。「あそこは、訓練のために気安く使っていいような場所じゃないはずだ」
ノクトはしばらく彼を見つめた。
「ここに『気安い』場所など存在しない」
彼は簡潔に言い捨てた。候補生は眉をひそめ、その回答に明らかに不満を募らせた。
「そういう意味じゃない。お前だって知っているはずだ――」
「質問があるなら」ノクトは冷静に相手の言葉を遮った。「教官に聞け」
候補生は絶句した。彼は何かを言い返そうと口を開きかけたが、最終的にはそれを飲み込んだ。
「……ああ。そうだな」
彼は低く呟いた。ノクトはそれ以上、時間を無駄にはしなかった。彼は今度は立ち止まることなく再び歩き出し、背後の足音がそれ以上彼を追ってくることはなかった。
訓練場から離れるにつれ、霧はさらに深くなっていった。聖域ヴィレリン《サンクタム・ヴィレリン》の建造物は青白い帳の向こう側へと徐々に遮られ、遥か彼方に薄暗いシルエットを残すのみとなった。彼方の上空では、どんよりとした暗雲が広がり始めている。これから雨が降るのだろうか。それとも、今のノクトが感じているのと同じ冷気をただ降らせるだけなのだろうか。
当然、ノクトは察知していた――昨夜から信じられないほどの短時間で発生している、これらすべての急速な変化を。変わったのは場所ではない。自分が向かわされている、その方向性だ。彼の思考は、主任教官の放ったあの一言へと立ち戻る。
『――いくつかの決断に、当事者の同意は必要ない』
彼の足取りは冷静なままだったが、今度のその一歩には、明確に異なる何かが宿っていた。それは迷いでもなければ、恐怖でもない。自分に息を吐く隙さえ与えないかのように、濁流の如く押し寄せる変化の連続から、確実に形成されつつある一種の「覚悟」だった。
【第2章の固有名詞・世界観メモ】
ノクト = Nocht
エララ = Elara
登場したロケーション (Locations)
・常夜の街ロブスキュリ ―― L'obscurie(ノクトたちが暮らす、常に夜に包まれた街)
・聖域ヴィレリン ―― Sanctum Virelyn(候補生たちが集まる訓練場のある本館)
・極寒の領地フロストレイン ―― Frostreign(次回の訓練舞台となる極寒の地)
・ヴァンテール城塞 ―― Citadel Vantheir(フロストレインにある謎めいた城塞)
能力システム・その他 (Power System & Gloves)
・黒い手袋 ―― ノクトが常に両手に嵌めている薄手の布製手袋。
第二話を読んでいただき、ありがとうございました!
今回から新章(第2章)がスタートし、ノクトの日常に少しずつ変化の兆しが現れ始めました。
いつも通りの冷たい朝、いつも通りの訓練場。しかし、主任教官から突如として告げられた「訓練場所の変更」と、不穏な目的地『ヴァンテール城塞』。
そして何より、ノクトに向けられた「いくつかの決断に、当事者の同意は必要ない」という教官の言葉が、これからの波乱を予感させます……!
急激に動き出す運命の中で、ノクトが胸の内に抱き始めた「覚悟」の行く末を、これから見守っていただけますと幸いです。
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それでは、次回の更新(後編)でまたお会いしましょう!




