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三国時代の蛮族生活体験記  作者: 雀舌一壺
第一章
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第9話 蒯良

 そのころの僕の毎朝は、朝靄が立ち込める中、竹を編んで作った背負子(しょいこ)に食料や何かの荷物を沢山入れ、それを背負って鐘離山を登るところから始まった。

 一人の時もあるし、シャム達三兄弟や子虎のアイスと一緒の時もあった。

 鐘離山を上まで登ると、ちょうど霧の上に出て、眼下には一面に白い霧が海のように広がり、清江両岸の山々と自分が立っている孤島以外には陸地が見えず、まるで雲の上の仙人になったような気分になる。


 鐘離山の頂上は、見晴らしのよい平らな土地になっていて、「白虎堂びゃっこどう」という名の楼閣が一つ建っている。

 その楼閣には門も庭もないが、みすぼらしくはなく、小さな木の板を細かく葺いた屋根が上下に何十重にも連なっていて、屋根の縁や欄干などに植物や動物の意匠があしらえてあり、なかなか立派な建物だ。


 楼閣の一階は木の床の大広間になっていて、三十人くらいは余裕で寝れるのではないかと思うほど広く、その一番奥の高いところには虎の銅像が安置されている。

 虎の銅像の手前には、竹の葉で作った飾り物や炊いたお米なんかが置かれていて、麓に住む人たちがたまにお供えに来る。

 虎の銅像自体は、そんなに立派なものではなく、三十センチ程度の大きさで、寸胴で目が真ん丸で、日本の張子の虎の首を座らせたような見た目だ。

 相当古いもののようだが、よく手入れされているようで、磨かれて黒光りしている。

 楼閣自体の手入れも行き届いていて、床に寝転がってもいつもホコリ一つつかない。


 大広間の奥の端には、反物が積まれている。

 税を支払うために集落の人たちが編んだ布をここに保管している。

 山頂のこの建物までは霧が来ず、湿気で布を傷めることがないため、編みあがった布はここまで持ってきて保管する。

 僕も族長の奥さんに頼まれてたまに反物をここまで運んでくるが、布は塊になるとなかなかの重さで、さらに山を登らなければならないので、結構な重労働になる。

 下ろすときもまた大変な作業になるようで、その時は集落の男総出でやることになるらしい。


 それはともかく、この楼閣の上の階には、一人の老人が住んでいる。

 その人は、名前を(かい)という漢人で、元々は長江の北に住んでいたが、何かあってこちらに避難してきたらしい。

 ここでは、族長が大漢帝国の役所に書類を出したり税を納めたりするときの代筆をやっていて、代わりに食料を貰っているという。

 ついでに、大広間を教室にして、シャム達に漢字を教えたりしてくれている。


 それで僕もシャム達と一緒について来ていたのだが、シャムはなかなか字が上達せず、集中力もなく、気づくと寝たり落書きしたりしてる。

 しまいには、僕が毎日来るものだから、蒯先生に食事を届けるのを僕に任せて自分は遊びに行ってしまうことも多くなった。

 兄弟の小さい方の二人もたまに来るが、彼らも目を離すとすぐに目移りし、窓際に止まった小鳥に目をやったり、傍らを這う蟻を筆で攻撃したり、床に落書きしたりする。

 蒯先生も注意するでもなく、淡々と話を進めている。

 中間テストも期末テストも大学受験もなかったら、授業ってこんな感じなのかもな、と思いながらも、僕だけはかなり熱心に勉強した。

 僕の少ない知識は漢人のものに偏っていて、漢字だけはよく知っていたので、この時代での僕の拠り所はそれしかなかったし、色々学べるのも楽しかった。

 

 蒯先生は、見た目ではかなりの年齢で、痩せていて手足の筋が目立ち、顔は皺で埋め尽くされていて、長く伸びた頭髪や顎鬚も全て真っ白で、杖でも持ったら魔法使いか仙人のようだった。

 しかしその立ち姿はしっかりとして背も真っ直ぐで、話す言葉や筆遣いなどもとても力強く、時折見せる強烈な目の輝きなどを見ると、隠居生活にはまだ早いようにも感じられた。


 蒯先生には色々と教えてもらった。


 まず、今僕が居候しているこの部族について。

 この部族は、大漢では「五渓蛮ごけいばん」と呼ばれていて、族長の部族はその中の「凛君蛮りんくんばん」であるという。

 いつからここに住んでいるかは分からないが、かつては蜀の国の東にまで勢力を広げ、「」という国を作り、一時期は秦や楚といった春秋戦国時代の強国とも渡り合えるほどの大国だった。

 巴国はその後、五百数十年前に秦に滅ぼされ、その子孫がこの鐘離山一体で暮らしているのだという。


 部族名の「凛君」とは、神話時代の人物で、この部族の創始者であり、その死後は白虎に生まれ変わったという伝説があり、今でも白虎が崇拝されているということだった。


 五渓蛮は、漢人の王朝に対してしばしば反乱を起こしていて、比較的時代が近くて大規模なものは、約百五十年前の反乱で、その反乱に対しては伏波将軍の馬援ばえんという人物が四万の軍勢を率いて平定に向かい、逆に返り討ちに遭い全滅し、その馬援という人物も死亡してしまった、という。

 だから、漢人にとってこの「五渓蛮」は、長江中流域において軽視できない厄介な反乱分子であり、五渓蛮の鎮撫こそが荊南平定の要である、といっても過言ではない、というのが蒯先生の説明だった。


 そして、簡さんが鐘離山に来た真の目的についての推測として以前書いた、「将来の長江南岸攻略のための布石として、長江南岸に勢力を持つ部族と関係を持っておこうという劉備の遠謀」というのも、蒯先生の言った言葉だった。


 もちろん、こんな内容はまだ会話できなかったので、大体のことは漢字を通して教えてもらった。

 ノートどころか紙もないので、石板の上に筆を水で濡らして字を書く。

 石版に水で書いた字はしばらく立つと消えるので、水があればいくらでも字を書けて、練習するにはとてもいい道具だった。


 あるとき、蒯先生に僕の世界のことも話してみた。

 日本から飛行機に乗って来たこと、僕が千八百年後の人間であること、僕の時代には飛行機の他にも自動車や携帯電話やパソコンなんかがあること、地球の裏側の情報まですぐに手に入ること、地球が丸くて自転していること、など。


 しかし、どれもこれも、蒯先生に言わせると、「そんなこともある。」ということだった。

 そもそもこの世界を創ったのは女媧じょかという神様で、万物はその女媧の肉体や臓器などで作られたのだという。

 人間なんて、女媧が鼻くそを丸めて創ったんだ、という。

 蒯先生はたまに嘘つきなので、鼻くそは無茶だと思うけど、要するに、万物には特定の形はなく、ゆえにどのようなものが生み出されても不思議はない、と言いたいらしい。


 さらに、昔は太陽が十個もあり、弓矢で九つを撃ち落とした人もいたという。

 その話を真に受けるなら、確かに僕らの時代の科学技術でも、核ミサイルを撃ち込んで太陽を破壊できるかと問われれば、どうなのかと首を傾げざるを得ず、僕の話を聞いても、そんなこともある、程度の感想になってしまうのも、納得できないこともなかった。


「肝心なことは、」と蒯先生は言う。


「肝心なことは、それが目の前で表せられるのかどうかだ、何百人も人を乗せて空を飛ぶ鉄の塊が目の前にあるのか、遠くの人と話せたり情景を一瞬で書き写したりする道具が目の前にあるのか、太陽まで届くような弓矢が目の前にあるのか、ということであり、目の前に表せられない事象について、ある、とこだわって主張するのは、そこに意味があるのかどうかよくよく考えて見たほうがよい。」


 蒯先生は、太い声で漢語を喋りながら、達筆な字で石版に素早く書き続ける。


「あそこに虎の銅像があるだろう。」と、文字を書きながら、飾ってある虎の銅像を見事な白髭の伸びた顎で指す。


 はい、といって僕は頷く。


「あれは銅で出来ている。銅は、冶金窯の中で高温で溶かされ、貨幣になったり、食器になったり、農具になったり、銅像になったりする。銅というのは確かに変化するが、銅そのものはただの物質で、変化させているのは冶金工の意思である。銅自身には意思はなく、形を変えることはできない。」


 蒯先生は続いて、何も書かれていない石版を指さして、僕に向かって何が書いてあるのか聞いた。


 僕は素直に、何も書かれていません、と答えた。


 蒯先生は、正しい、と言い、続いてまた、何も書かれていない同じ石版を指差して、同じように僕に向かって、何が書いてあるのかと聞いた。


 僕は今度も素直に、何も書かれていません、と答えた。


 すると今度は、間違いだ、と鋭く言われた。

 そして、やにわに石版に動物の絵を描き始め、書き終わると再度僕に向かって何が書いてあるのか聞いた。


 僕は、猫なのか虎なのか一瞬迷ったものの、虎が書いてあります、と答えた。


 蒯先生は、正しい、と言い、満足気に微笑み、続けて立ち上がって筆を振り回しつつ話し始めた。


「この虎の絵はいつからあったのか。お前は、三度目の問いの時に、虎の絵がある、と答えたが、私の頭の中では、二度目に問うた時に既に石板の上に虎の絵を書き上げていた。

 では、この虎の絵はいつから存在したのか。ある人は、書いてから初めてあるのだ、と言うだろうし、またある人は、頭の中にあるときに既にあるのだ、というだろう。それでお互いに主張を曲げずに争いになるのがこの世の常だが、それに何の意味があるというのか。

 肝心なことは、私の頭の中には虎の絵があり、そしてそれを石版に描くことで、お前はこの虎の絵の存在を知った、ということだ。逆に言えば、私が描かなければ、お前はこの素晴らしい虎の絵の存在を知り得なかった、ということである。」


「つまり、意思は具現化することで初めて人に知られるのだ。あそこにある虎の銅像も、冶金工の意思の造物である。全ての事象には作成者の意思が詰まっている。意思には形がなく、ゆえにその具象化である物質も千万の変化があるのは当然のことである。

 今成してる形だけに囚われるのも愚かしいし、目に見えない観念だけに囚われるのも愚かしいことだ。

 物事の生成と変化には意思があり、そしてくその意思を読み解く者こそが人に先んずることができる。

 ゆえに、賢い人というのは、事象の表面だけを見るのではなく、そこに至るまでの意思の轍痕(てっこん)を観察するものだ。表面だけ(あげつら)って右往左往するのは愚か者や子供のすることである。」


 蒯先生は僕の前を右に左に歩きながら、ここまで一気にまくし立てるように話し、さらに続けた。


「空を飛ぶ鉄の塊を私は見たことはないが、そういう話をする者の中では、空を飛ぶ鉄の塊は存在するのかもしれない。しかし、具象化できない以上は他人には意味を成さない。その本来意味を成さないものを意味があるように話す、ということは、話す行為自体に何らかの意思、例えば騙したり喜ばせたり、といった意思があるか、もしくは愚か者や子供の類だ。」


 ここまで言い終わると、蒯先生は僕の方を向き目を細めて薄く笑い、僕の表情を観察するかのように見てきた。


 ここに来て、最後の最後に、蒯先生は要するに僕のことをバカか子供だと言いたいのだ、と分かった。


 この先生は時折こういう回りくどいからかい方をする。

 普段から、別に熱心でも優しくもないけど、こういう時だけは本当に面倒くさい。

 何か長江の北で官職に就いていたのを辞めて来たらしいが、こういう性格が災いしたんじゃないかと思う。

 上司にとんでもない嫌味でも言ったんじゃないか、という気がする。


 言われっぱなしで悔しいけど、この頃の僕には蒯先生と口論できるほどの語学力はまだなかった。

 腹いせに、石版にカタカナで大きく『ヘンクツジジイ』と書いて蒯先生に見せてやる。


 同時に怒った顔を作ってみせるが、可愛いと言われてしまい、威圧的効果が全くないことは、日本でもここでも変わりがなかった。

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