第10話 曇天
鐘離山での生活が始まり、早くも三ヶ月くらいが過ぎ、季節も冬に入った。
朝起きたら山を上って蒯先生のところへ食事などを持って行って勉強し、昼からは自由な時間なので、船を漕いで島を離れ、柴を刈ったり、釣りをしたり、猟についていったり、といった毎日を続けていた。
振り返ると、日本でも同じような生活をしていたような気がする。
朝起きて学校に行き、夕方からは塾に行ったり友達と遊んだり。
多少違うのは、こちらにはパソコンもスマートフォンもないので、無になる時間が多い。
かと言って、退屈だったかというと、そうでもなかった。
猟や釣りや薪割りや機織りなんかも覚えないといけなかったし、この部族の言葉や漢語も勉強していたし、白虎の親子の食事や散歩などの世話もたまにしていたので、それに慣れるのも結構勇気が必要だった。
それに、この部族の人たちはよく歌を唄う。
船の櫓を漕ぐときの歌とか、機織り機で布を織るときの歌などがあり、唄いながら作業をする。
昼頃港まで下りていくときは、家々から女性の綺麗な声で、機を織る歌が聞こえてくる。
そういう歌声だったり、拍子を取るように鳴る機織り機の音だったりを聞くと、みんな生きるために頑張ってるな、という思いが湧き、愛おしさを感じ、自分も頑張らないと、という気持ちになる。
恐らくは、自分がいつの時代に生きているか、というのはあまり関係なくて、娯楽や暇つぶしの道具がいくつあるか、というものあまり関係なくて、どんな時代でもどんな環境でもそこで暮らす人たちはそれぞれのやり方で最大限楽しく生きていて、要するに、蒯先生の言葉じゃないけど、状況が同じでも気の持ちようでどのようにも気分は変わる。
何回か遠出もさせてもらった。
長陽の町にも行った。
長陽の町とは、鐘離山から清江を船で半日ばかり下ったところにある、そこそこ大きな町だ。
漢人と「凛君蛮」の人たちが半々くらいで住んでいて、魚の干物や布や細工物などの取引でそこそこ賑わっている。
大漢帝国の小さな役所もあって、税もそこで納める。
つまり長陽の町とは、僕らの部族にとっては、漢人の世界と交わるための玄関口のような位置づけだった。
僕らがこのとき町に来たのは、来る冬に備えるべく、町で漢人の商人に干物や布や毛皮などを売って、代わりに塩や穀物なんかを買うつもりだった。
商人は、近頃は戦争で穀物の値段が高騰している、とか言ってなるべく高く買わせたがる。
それに対し、こちら側の買い出し担当である小太りの小さいおじさんは、もちろん安く買おうとする。
そのお互いのやり取りの激しさはまるで喧嘩しているようで、交渉が成立するとあっさりと笑顔に戻って会話しているのも不思議な様だった。
僕はこの時代に来たばかりで、相場がどれくらいかなどは全く分からなかったし、ただ呆気に取られているばかりだった。
しかし戦争の行方には興味があったので、少し商人に聞いてみた。
商人が言うには、劉備軍と孫権軍が同盟を結び、長江をはさんで曹操軍とにらみ合っているが、兵力の差で曹操軍が優勢、長江の南の湘江から西は既に曹操軍の勢力下になった模様、ということだった。
湘江とは、長江の支流で、巴丘(現在の岳陽)で長江と合流する。
遡ると、洞庭湖や長沙城、衡山を経由し、零陵にまで至る長くて大きな川で、そこから西一帯が曹操軍の勢力下、ということは、荊州南部全土が曹操のものとなったに等しかった。
僕が鐘離山で呑気に暮らしている間にも、歴史は進んでいた。
「現にこの町でも、今じゃ役所には『漢』の旗に並んで『曹』の旗が上がってるよ。」と商人は厳しい顔で言い、続けて声を落として話した。
「戦争だからって言って、ここでの売上げも半分以上は巻き上げられるんだ。戦争なんだから、ただでさえ商品運ぶのだって大変になってるのに、これで税金まで高くなるんだったら、もう商人なんかやってられないよ。」
商人は上を向いて、ああ、少し前までは平和だったのに、と芝居臭い嘆きの声を上げ、突然僕らのほうに顔を寄せ、さらに小声になって言った。
「でも、奇妙なことに、それだけ優勢なのに、曹操軍は一気に攻めないんだ、なんでだと思う?噂では、内紛が起こっているとか、風邪が流行っているとか、そういう話は聞くけど、いずれにしても曹操軍も内部で問題を抱えてるみたいだ。この戦いはまだまだ長引くかもしれないよ……」
僕らは商人の店を出て、役所の前を通りかかり、門の両脇に等しく高く掲げられた、「漢」の旗と「曹」の旗を見上げた。
初冬のどんより曇った空を背景に、二つの旗は重苦しく垂れ下がっていた。
僕は立ち止まって旗を見てしまい、門のところにいた衛兵に、犬でも追い払うかのような動作で追い立てられた。
僕はこの町に来て、島では忘れていた戦争という現実を再び意識し、暗い気持ちになりながら、小走りで一行を追いかけた。
長陽の町のほかには、清江の上流のほうにも行った。
清江はとても長い川で、源流を遡ると蜀の国の江州(現在の重慶)の手前までいくという。
そこまで行くには鐘離山から船で十日あまりかかるらしい。
もちろんそこまで行くような用事もないが、僕たちの狩場は広く、獲物を求めて泊りがけで遠征することもたまにあった。
清江の上流には、何日も遡ると、僕はまだ行ったことはないが、「巴都」という名前の大きな町があるという。
そこは、川の両岸が広大な平地になっていて、「五渓蛮」の中の「巴蛮」が支配し、広大な田畑を耕し豊かな暮らしを送っているという。
巴都と鐘離山とは少し交流があり、使い込まれた鉄の農具なんかをもらう。
歴史的に見て、鐘離山の一族が主筋ということで、一応貢物という形でくれているが、中古の農具をよこすくらいのことしかしない。
経済力ではすっかり差を広げられ、一方的に支援を受ける形になっている。
それというのも、鐘離山一帯には急斜面しかなく、悪い環境でも育つ麻などの植物を育てて布を織る材料にするくらいしかできなかった。
長陽の町まで行けば平地はあるが、そこは漢人の地主が居座っていて、こちらの収入にはならなかった。
それでも鐘離山一帯では魚や獣がたくさん獲れ、住民は楽しげに暮らしていて、貧しさを感じることはなかった。
懸念といえば、やはり戦争のことで、食糧難や難民のこともあるし、僕らはいつまで自然の恵みを享受できるんだろう、という漠然とした不安があった。
ある日の夕食の時間、族長の屋敷の大広間で、いつものように族長の家族や親戚たち十人強で食事を取っているときに、こんな話が出た。
このところ、我らの狩場に勝手に漢人が入り込んで勝手に狩りをしていくことが多くて困る。
でたらめな場所で火を起こしたり食事を取ったりするので、動物たちが通り道を変えてしまい、狩りがやりにくくなってる。
それどころか、森の端の方では大きな樹が沢山切り倒されている、という。
今はそれぞれ猟に行って見つけた時に追い出すという対応をしているが、いずれは族長から漢人と話し合ってもらわないといけないだろう、という結論で話はぼんやりと落ち着き、その次の話題に移り、翌日にはきれいに忘れられていくのだった。




