第4話 長江の水辺
目覚めると、僕は飛行機の中に戻っていた。
そうだった。僕は修学旅行のため成都に行く飛行機に乗っていたんだった。
僕はほっとして、隣の窓側の席を見ると、女の子が座っていた。遠藤さんだった。
どのくらい寝ていたのだろうと思い、遠藤さんに聞いてみた。
遠藤さんは、あと1時間もしないで成都につくみたいだと答え、それならトイレに行っておこうと思い、席を立った。
最後尾にあるトイレに歩いていくと、クラスメイトのみんなや先生や一般の乗客たちは、みんな寝ていた。
しかも、みんな死んだように青白い顔をしている。
よく見ると、一般の乗客たちはみんな着物を着ていた。そればかりか、顔から血を流している者もいる。
みんな死んでいる、と思い、あわてて遠藤さんの隣の席に戻ろうとした。
すると遠藤さんも身動きしなくなっていて、その肌の色も青白くなっていて、奇妙なことに全身ずぶ濡れになっていた。
そして遠藤さんが眼を開け、顔をこちらに向けて彼女の右半身を見せると、右目の眼球がなく、皮膚が腐り溶けだしていた。
僕は咄嗟に飛び上がるようにして離れ、最後尾のトイレのほうに逃げようとした。
すると先ほど寝ていたクラスメイトや乗客たち全員が眼を開け、立ち上がろうとしていた。
しかしシートベルトを締めているので立ち上がれず、両手だけを空中に向かって動かし、一様に目はうつろで、理性の光がなかった。
僕はひたすら訳が分からず、とにかく逃げようと最後尾のトイレまで走った。
死体たちは所々で立ち上がり始めて僕を追いかけてきて、僕は隠れようと急いでトイレのドアを開けて飛び込んだ。
すると、ドアの向こうはトイレではなく、空中で、僕は身を空中に投げ出され、空を落下していき、飛行機は視界からみるみる離れていった。
飛行機は、光を帯び、まるで飛行機雲のように光の帯を引き、その光の帯は千々に分かれ、弧を描いて地上に散っていった。
やがて飛行機は光を放ちながら空の彼方へ消えて行き、僕はまた意識を失った。
次に僕が目覚めると、昼の光が眩しく溢れかえっていて、僕の体は丘の上の大きな木の木陰に寄りかけられ、眼下には大きな湖が広がり、湖から吹き上げてくる涼しい風がとても心地よかった。
頭がひどく痛むので触ってみるとたんこぶができていて、先程のが夢で、張飛に武器で頭を殴られた場面が夢じゃないことが分かった。
とりあえず命は無事なようで安心したが、今の場所が全くわからない。
喉も乾いたしお腹も減った、何故だか知らないけど劉備一行に置いていかれちゃったのかな、どうしよう、とまた不安がつのってきた。
すると、横から竹筒が差し出された。
その方向を見ると、ゆったりした昔の着物に身を包んだ中年の男が、微笑んで竹筒を差し出していた。
竹筒を受け取って飲んでみると、水だった。よほど喉が渇いていたのか、全部飲み干してしまった。
飲み干してからあらためてその男を見ると、ひょろっとして背が高く、細目で無精ひげを生やしていて、劉備の背後に控えていた男のうちの一人のようだった。
僕は立ち上がって木の枝を折り、地面に『感謝』と書いて、その男に向かって頭を下げた。
男は笑って頷き、手をひらひらと動かし、気にするな、という意思を伝えてきて、今度はくすんだ色の饅頭のようなものを差し出してきて、食え、というジェスチャーをした。
言われたまま受け取って食べてみると、温かくふかふかとして、噛むと小麦の香りが口の中に広がり、ちょうど肉まんの中の餡がないような食べ物で、とてもおいしかった。
男は僕が饅頭を食べる様子を見守っていたが、おもむろに僕が折った木の枝を手に取り、地面に『抱歉』と書いた。
僕は意味が分からなかったので首をかしげると、男は自分の手で手刀を作り、自分の額に何度も振り下ろす動作をした。
張飛が僕をいきなり殴ったことを謝罪しているようだった。
やはり僕は張飛に殴られて今まで気を失っていたようだった。
それから、筆談とジェスチャーでその人にいろいろ話を聞いた。その人の名前は簡雍と言い、劉備の旗揚げから一緒に活動しているらしい。大耳の男はやはり劉備で、劉備軍は明け方にすでに船で離脱したという。
簡雍は任務でここに残り、ついでに僕の面倒を見ていたらしい。
あと、僕が張飛に殴られた理由は、劉備をそのまま呼んだからで、それは礼儀に反するらしい。役職名か字の「玄徳」で呼ばなければいけないらしい。
かと言って異国の者をいきなり殴るのは普通はしないので、丁重に謝っておくように、というのが玄徳様のお言いつけだそうだ。
僕をこれからどうするつもりなのか、と聞くと、とりあえず川を渡って、僕にゆかりがあると思われる土地に行って僕を預けてくれるという。
もしかしたらクラスメイトがいるのか、と希望を抱き、何故かと理由を聞くと、僕の上着のポケットに突然手を突っ込んできて、何かを取り出した。青山君のペンケースだ。
それが何だというんだろうと思っていると、そのペンケースに書かれた虎のキャラクターをしきりに指さした。
僕は相変わらず分からなかったが、簡雍はペンケースを返してくれ、その話はそれっきりだった。
ちなみに、簡雍のことは簡さんと呼ぶようにした。また張飛みたいに怒らせるのはごめんだったからだ。
そんなこんなで、僕は目の前に広がる、湖だと思っていた川を渡ることになった。
この川が、長江らしい。
とても大きな川で、長さは五千キロメートル以上に及び、河口付近では川幅だけで十五キロにもなるという。
今の場所でも、向こう岸までゆうに一キロ以上ある。
僕は簡さんと二人船頭を雇い、小さな船に乗って長江を渡った。
船で渡ってみると確かに川で、遠目で見ると緩やかに見えたが、中程まで来ると結構流れが急で、少し下流に流されたが、無事向こう岸までたどり着いた。
太古の時代から悠然と流れる大河に船を浮かべ、山の向こうに沈みゆく夕陽を眺める、などと詩人だったら漢詩でも詠みそうな風景だったが、そのときはただ風が涼しいな、と思って、夢でみたようなクラスメイトの死体が流れてきたらどうしよう、と少し寒気を感じた程度で、今夜はどういうところに泊まるんだろうとか、この先どこに連れて行かれるんだろうとか、先のことばかりが気になった。
船を下りて簡さんが船頭に謝礼を払い、その後僕らは川沿いを上流に向かって歩き、日も暮れてすっかり暗くなった頃、大きな町に着いた。
この時代に来てから、初めて見る大きな町だった。
その町は長江の支流のこれまた小さくはない川の河口に港を作って、そこを起点に発展していて、川沿いを通る街道は石畳が敷かれ、時代劇で見るような木造白壁瓦葺きの二階建ての建物が並んでいた。
道ばたには大きな荷物を抱えた老若男女が所狭しと寝そべっている。
誰も彼も埃にまみれていて、長旅をしてきて疲れている様子で、僕らの足音にも興味なさげに視線を送るばかりだ。
激しい戦いのあった長江の北岸から避難してきた人たちらしく、そんな難民の人たちの数は港に近づくにつれ多くなった。
僕らはそんな人たちの視線をやり過ごし、宿屋らしき建物に入った。
建物に入ると、店番のおじいさんに部屋に案内された。
部屋には玄関があり、一段高い床には板が張られ、日本で見るような雰囲気の部屋だった。
端には燭台が立って灯りがついているだけで、灯り自体は暗かったが、白い壁の照り返しで、そこまで暗さは感じなかった。
僕らは冷たい水で汗をぬぐい、板床に胡座をかき、米だか粟だか分からない味のないお粥と、しょっぱいだけの漬物のような食べ物とで、胃袋を満たすためだけの食事を済ませた。
食器も木で作ったお椀と箸で、何百回も洗ったように煤けていて、使うのに躊躇したが、簡さんが見ている手前、嫌がるのも申し訳ないかな、と思い、我慢して食べた。
いずれにしても、この時代で生きていく限り、慣れていかないといけないのだ。
簡さんは、食事の間中は黙って掻き込み、食事が終わると、その細眼の奥を輝かせ、色々なことを聞いてきた。
と言ってもこちらは何も聞き取れないので、ジェスチャーで何となく分かった箇所だけ、やはりジェスチャーで答えるだけだった。
特に僕の運動靴に興味を抱いたらしく、脱いで置いておいたものを手に取り、土埃のついた底のゴムや側面の合成素材なんかをしきりに撫で回していた。
確かにこの時代にこんなに歩きやすい靴はないだろう、見たら欲しくなるだろうな、と思いながら、奪われるんじゃないかと内心で不安に思いながらその様子を見ていると、簡さんは僕の視線に気付いたか、靴を置き、手についた土埃を自分の服ではたき、笑いながら優しくその手で僕の頭に軽く触った。
そして、人差し指を盥の水で濡らし、床板に何やら書いて、外に出ていった。
明日も早いから早く寝ろ、というような意味らしかった。
僕は、簡さんのいなくなった部屋で、布団を敷いて横になった。
一人になると、大変だった今日の一日が思い出された。
森の中で気がつき、それから戦場に迷い込み、逃げて趙雲に救けられ、劉備に会って、張飛に殴られて気を失い、簡雍に連れられて長江を渡り、そしてこの宿屋にいるわけだ。
振り返ると、よくも無事でここにこうしていられると、我ながら感心する。
不安なのはやはり、この先どこに連れて行かれるんだろう、ということだった。
できれば、劉備一行について行きたかった。
これから起こるであろう赤壁の戦いを間近で見てみたかった。
元の時代に戻ることができたら、赤壁の戦いを実際に見たなんて言ったら、絶対みんなに自慢できる。
そう言えば他のみんなはどこに行ってしまったんだろう、それとも、僕だけがここに来てしまったんだろうか。
横になると、まだ張飛に殴られた頭が痛い。
あの時のことを思い出すと、簡さんは謝ってくれたが、何だか恥ずかしかった。
犬がご主人様に向かって一生懸命しっぽを振って、連れて行ってくれとアピールしていたかのように、卑屈に思えた。
仮に劉備ではなく、玄徳と字で書いたとしても、名前を知っていたからって、何だというんだろう。
相手にとって意味のないことを喜んでもらえると思ってやって、逆に怒られ、そしてその根底には、自分は未来を知ってる、必ず重宝がられる、という自惚れがあって、というのがものすごく恥ずかしい。
僕のやろうとしていたことは、結局は劉備の尻にくっついてあれこれ言うだけで、自分では何もなそうとしていなかった。
何の理想もなく、自分の戯れ言が劉備に聞き入れられるかどうかだけを気にして過ごしていく日々。
そんな卑屈な人間が、諸葛亮や趙雲といった英雄たちと肩を並べて劉備一家を切り盛りしようなどと身の程を知らない望みを抱くなど、殴られて当然だった。
今日あそこでうまく立ち回って、運良く劉備たちについて行けたとしても、こんな人間では、遅かれ早かれ見限られたかもしれない。
僕自身がまだまだ成長しないといけない。
それとも、こんな考え自体全てが間違っていて、殴られて当然、なんて考え自体が卑屈なんだろうか。
簡雍を殴り倒して張飛に復讐しに行くのが、この乱世での正しい振る舞い方なんだろうか。
いろいろ考えても、やはり何一つ答えらしいものは出なかった。
僕はそんな混乱した思考のまま眠りにつき、こうして激動の初日を終えたのだった。




