第3話 英雄たち
突然現れた血みどろの騎馬武者に驚いて、僕はただバカみたいに突っ立って見上げていた。
騎馬武者は走る速度を緩めようともせずに、僕を避けようともせずに、左手に持った槍を僕に向かって突き出してきた。
死ぬ、と思って、反射的に目を瞑ると、上着の襟に何かが突っ込まれて、強烈な力で上に釣り上げられ、空中に投げ出されたので慌てて目を開けると、馬上の騎馬武者の前にうまいこと落ちて、騎馬武者と向かい合わせに跨ることになった。
馬は相変わらず速度を緩めずに走るので、ひどく揺れた。
騎馬武者は何か怒鳴りつけてきた。何を言っているのか分からなかったが、危ないので騎馬武者の鎧にしがみついた。
その胸元は赤ん坊を包んだ布を肩にかけて縛り付けていて、赤ん坊を包んだ布は血で染まっていた。赤ん坊は寝ているのか死んでいるのか、目を瞑って動かなかった。
僕は馬から振り落とされたら死ぬ、と思い、赤ん坊の生死など構わず、必死で騎馬武者の血の匂いのする鎧に両手でしがみついた。
それからは必死にしがみつくばかりで、周りの景色は何も見えなかった。
行く手を阻む敵を何人か倒したようだが、馬が速度を緩めることはなく、騎馬武者が左手で槍を振り回すときに上半身をひねるので、それで振り落とされないようにひたすら耐えた。
どれくらい時が経ったか分からないが、やがて下り坂に差し掛かり、今度は後ろに仰け反らないように必死に耐えていると、馬の進んでいる方向から、人が怒鳴る声が聞こえてきた。
その声はまさしく破鐘というか、怒鳴るために生まれてきたような声をしていて、鼓膜の震えが脳に伝わるくらい大きな声で、耳を塞ぎたかったが両手は騎馬武者にしがみつくのに使っていた。目の前の赤ん坊も、よほどうるさかったのか、目を覚まして泣き始めた。
すると、騎馬武者も何やら怒鳴り返し、もう一度、破鐘の声が短く返ってきた。
そして馬は速度を緩め、木でできた橋を渡り始め、渡りきったところで、もうひとりの騎馬武者とすれ違った。それが、破鐘の声の主だった。
すれ違いざまにちらっと見ると、その人は跨られている馬がかわいそうに思えるほど大きな体をしていて、顎にはもじゃもじゃの髭を蓄えていて、ぎょろっとした大きな眼が恐ろしげで、その右手には穂先がギザギザになった矛を持っていた。
僕の乗った騎馬武者の馬は再び速度を速め、その人を置いてそのまま先に走って行った。
そして馬の背に僕の股が数え切れないくらい叩きつけられ、耐えられずに泣きそうになっていたところで、ようやく馬の速度がゆっくりとなった。
振り返って進んでいる方を見ると、いくつもの篝火が見え、小さな集落があり、大勢の人がいて、所々で旗が立っているのも見えた。
馬は、大勢の人に声を掛けられながらゆっくりとまっすぐ歩いていき、そして突然歩くのをやめ、僕は騎馬武者に叩き落とされるかのように突然馬から下ろされ、騎馬武者も素早く馬を降り、小走りで前へ行き、前に立っていた人の前で跪いて、胸に括りつけていた赤ん坊をその人に向かって恭しく差し出した。
ああ、この人は騎馬武者の主なのかな、じゃあ赤ん坊はこの主の子供か何かかな、何だろう、こんな話どこかで見たな、と思い、この人たちの名前を確認したくなった。
急に心の中がざわめき、辺りを見渡すと、何本か旗が立っていて、その旗に書かれている文字をよく見ると、『劉』と大きく書いてあった。
この時になってようやく僕は思い至った。僕は、三国志の時代に来てしまったのだ、と。
そうだとすると、目の前で赤ん坊を受け取るやいなや後ろの付き人に渡してしまい、騎馬武者を支え起こしている人が劉備で、その赤ん坊が劉備の息子の劉禅で、さっき橋のところでとてもうるさかったおじさんが張飛で、そして今目の前にいる、僕を助けてくれた血みどろの人が、趙雲だ。
そして、先ほど通ってきたのが当陽長坂坡で、張飛が怒鳴ってた橋が長坂橋で、民衆を殺していたのは曹操の軍隊、ということになる。
僕は中国の歴史については、世界史の授業で習った程度しか知らず、三国志の時代については、武将たちが武器を振り回して敵を殺しまくるテレビゲームをやったことがあって、劉備や関羽や張飛などの有名な武将や、ゲームで出てくるような有名なイベントについて大体知っている程度だった。
僕の記憶しているところでは、今のこの光景は、長坂の戦いを終えて逃げ延びてきたところで、劉備軍が襄陽の町から十万人もの民衆を連れて南の荊州まで逃げようとし、途中の当陽で曹操の軍勢に追いつかれて、劉備は奥さんや子供も捨てて這々の体で逃げ出し、それを趙雲が救ってきた、というところだ。
僕は状況が少し見えて心も少し落ち着き、改めて周りを見渡すと、山の向こうの空がうっすらと明るくなって来ていた。
地上に目を移すと、恐らく夜通し戦ってきたのだろう、兵士たちは活気がなく、座り込んでいる者や寝ている者ばかりで、身につけた武器や鎧もぼろぼろで、槍の柄だけとか剣の刀身が手元の半分だけという者も何人かいる。
僕は自分の身なりも気になり出し、胸元を見ると所々に血がうっすらとついていて、両方の手のひらは必死で趙雲にしがみついていたので、当然のように血で真っ赤に染まっていた。
そして、立ち上がって近くで馬が水を飲んでいた桶まで歩き、手や顔を洗った。
桶を覗き込むと、薄明かりで血と泥で顔も髪も汚れきった姿が映ったが、桶の水で洗うと、毎日見慣れた冴えないいつもの自分の姿に戻って来た。
こんな境遇になってから始めて自分の顔を見ると、この夜のこれまでの出来事を思い出し、また毎朝こうやって顔を洗って学校に行ってたことも思い返し、この顔が映る薄汚い水とそこから微かに臭ってくる馬の唾液の臭いで、何だか涙が出そうになった。
人が殺される光景とか、殺す人の顔とか、いろいろきつい光景を見て、改めて自分の顔を見て、こんなに生白い、かわいいとか女子にもからかわれるような顔をぶら下げて、こんなに荒れた世界で生きていけるんだろうか、いつまで生きていかないといけないのか、と不安になったのかもしれない。
そして、学校のこととか、修学旅行に行く途中だったこととか、家族のこととか、友達のこととか、いろいろ思い出した。
どうしてこんなところにいるんだろう、もう元の時代には戻れないんだろうか、もっと両親とか周りのみんなを大切にするんだった、言ってないことも沢山ある、などと考えていたら、自分がかわいそうになったのかもしれなかった。
そんな風に桶の前で跪いて物思いにふけっていると、後ろから肩を掴まれた。
振り向くと僕を連れて来た硬い表情の騎馬武者がいた。趙雲だ。
僕は途端に三国志の世界に引き戻された。そうだ、目の前の人は恐らく三国志の英雄、趙雲なのだ。
そう言えば救けてくれたお礼をまだしてなかったな、と思い返し、急いで立ち上がり、感謝の気持ちを込めて、修学旅行のために勉強した言葉、シェイシェイを大声で言い、深くお辞儀をした。
そんな僕の渾身のシェイシェイが通じなかったのか、趙雲は表情を変えずに何か言葉を発し、僕の手を引き、僕はそのまま引きずられ、耳たぶの大きな大男の前まで連れて行かれ、その大男の前で跪かされた。その男は、僕の推測によれば、劉備のはずだった。
劉備は、長い髪を後ろで縛って、他の兵士と同じようなぼろぼろのみすぼらしい鎧を着ていて、ヒゲも何日か剃っていないような中途半端な長さで、大きな耳たぶばかりが目立った。
劉備の後ろには、小太りの小男と背の高い痩せぎすの男と、中肉中背の男と、そして橋のところですれ違った、モジャヒゲの大男、張飛が武器の蛇矛を持って控えていた。
僕は、昔から好きだった有名人にでも会ったような気持ちで舞い上がって、劉備と他の武将たちを見ていた。
劉備が何か言葉を発してきたが、何を言っているのか分からず、それから彼らの表情が一様に硬いのに気がつき、ようやく冷静になり、僕は彼らを知っていても、彼らは僕のことを何も知らないんだった、と思い至った。
そして、自分が決して彼らの味方とは思われていないことに気づき、急いで説明しないと、と焦りだした。
それから、自分が違う時代違う国の人間であること、修学旅行中の高校生であること、飛行機に乗っていたらいつの間にかこの近くにいて、趙雲に救けられたこと、などを一生懸命日本語で説明した。
日本語が相手に通じるかどうかなんて構っていられなかった。
敵だと思われたらどうなるか分からないし、ここで劉備に受け入れられれば、彼が蜀の国を作って皇帝になることは知っているので、少なくとも生きながらえることができる、と思った。
このあとに赤壁の戦いがあるのも知っていて、絶対的な不利の中それに勝てることも知っている。
そばに置いてもらえれば、自分は必ず役に立てるはずだし、もしかしたら曹操を倒して三国を統一して歴史も変えられるかもしれない。
そんな欲もあったことも否定できないが、本当のところは、目の前にいる英雄に僕のことをただ知って欲しかったんだろう、と思う。
僕は、それまでの十六年の人生ではなかったくらい、必死になって、傍から見て恥ずかしいかどうかなんて微塵も考えずに、身振りも交えて説明した。
それでも通じないものは通じなかった。
どうしたらいいかと必死に考え、漢字を使うことを思い出した。中国で困ったときは筆談がよい、と習っていたのだ。
それで、落ちていた枝を取り、地面の砂地に『飛行機』と書いて、天から落ちるジェスチャーをした。
この筆談はとても効果があったようで、劉備一同は顔を見合わせて驚いた表情をした。
やはり飛行機というものについては理解しなかったみたいだが、彼らが聞いたことのない言葉をしゃべり見たことのない服を着た僕が漢字を書けることに、かなり驚いたようだった。
そして互いに何やら話し合った後、劉備が近づいてきて、僕から枝を受け取り、地面に『汝従何処来乎』と書いた。
学校で漢文を習っていたのが役に立ち、意味が簡単に分かった。
「お前はどこから来たのか。」と聞いているのだ。
僕は得意になって、再び枝を受け取り、地面に『日本』と書き、周りを見ると、誰もが首をかしげていた。
そう言えば日本はこの時代まだ卑弥呼の邪馬台国が支配していたんだっけ、確か「倭」とか呼ばれてたっけ、と思い出し、今度は『倭国』と書いた。
それでも伝わった様子はないので、どうしよう、とまたすこし焦りが芽生え、『海外』とか『東方』とか書いてみたが、やはり分かってはくれなかった。
後になって知ったことだが、この時代では、「東方」の「海外」は仙人の住むところで、不老長寿の実のなる木などがあるという伝説の場所で、要するに現実に住んでいる人も国もない、と一般的には考えられていたらしい。
それで、奇妙な服を着た子供が仙人の住む土地から来たみたいなことを言うので、疑いが深まったようだった。
しかし当時の僕はそんなことは分からず、必死に説明しても反応が思わしくないので、訳が分からず、気持ちが焦ってどんどんと愚かな考えを持ち始めた。
何か、知っていることを見せよう、役に立つことを知ってもらおう、と思い、とりあえずここにいる皆さんのことは知ってますよ、という親愛の気持ちを見せようと、地面に『劉備』と書いて、劉備の方を手のひらで指し示した。
すると次の瞬間、張飛が何やら吼え、その武器の蛇矛が頭上に迫っていたのを見た。
そしてそれを最後に、僕はまた意識を失った。