第九話 過去が紡いだ未来
先程の老婆の力強い宣言は、我が子を庇い隠している若い夫婦の心に届いたようで、彼らは互いを見つめて沈思黙考する。
そうして幾らかの時間が過ぎた頃、夫婦は互いに頷き合うと覚悟を決めたような顔を浮かべ、小さな我が子を老人達の前に差し出す。
「ババ様に全てを託します、どうか我が子をお願いします」
父親の念を押すような言葉と託された思いは、年老いた呪い師の嗄れた返事と皺だらけの指によって受け止められる。
「あい任された、まずはこの子を蝕む呪の種類を調べようかね」
生まれたばかりのセラーネ、いやゼアネンは目を開けることすら出来ないが、それでも親から離れても泣かない辺り、落ち着いたセラーネの面影をここでも感じる事が出来る。
「ゼアネン坊や、アンタは落ち着きのあるいい子だねぇ」
老婆は預かったゼアネンに優しげに声を掛けてから、親から離れた小さな身体を驚かさない様に、再び寝台へと寝かしてしまう。
「ちょっと寒いけど我慢しとくれよ、これはアンタの未来のためだからね」
呪い師の告げる人生についてなど、生まれて僅かの新生児には理解できないだろうが、老人は皺だらけの長い指を予想以上に繊細に動かして、柔らかそうな産着を静かに解いてゆく。
その様子を家族は心配そうに見守るが、当の本人は相変わらず呪い師に抵抗もする事も無く、その枯れた指のなすがままに、柔らかく滑らかな肌に刻まれた呪の紋章を、幕内の少し肌寒い空気の元に晒した。
呪を目にした老婆は眉根に刻まれている皺を益々深くして、呪の紋章を見つめながら重々しく口を開く。
「この子に刻まれている印……、こりゃあ変貌の呪だ。かなり厄介でね、コイツは何が起こるか全く予想が付かないんだよ」
胸と下腹の辺りに刻まれた、相変わらず淫蕩な気配を持つ証、先ほどセラーネに見せられた呪の印は相当に厄介なのだろう。
「しかも厄介な事に生まれ持って二紋まで開いておるのか……、お主らが隠そうとした理由がワシにも良う判ったわぃ……」
長老はその苦々しい心中を表すように、呪の証を睨め付けながら、低く重い声色で言葉を吐き出すと、若い夫婦の行動に理解を示した。
「この子の呪がどんなものか、私達は知りませんでしたが、それでも二つもあるのが恐ろしくて……」
老婆はセラーネに鋭い視線を落としながらも母親の言葉に頷き、その皺だらけの指は小さな身体に他に何か異常はないか確認する為に、仰向けからうつ伏せへと身体をひっくり返す。
「だろうね、二つも刻まれてる子供なんざ、そう滅多と見るものじゃない。場合によっちゃ殺してしまう場合だってあるからねぇ……」
呪に引き込まれる前、セラーネ自身が胸と腹に呪が刻まれていると言っていたので、実際これ以上の紋章はないと思うが、老婆の言う二紋という言葉の意味は解らない。
だがここに居る大人たちの表情と殺されるという内容から察するに、恐らく二つの紋章というのは凶兆であり、呪としては最悪に近いものなのかもしれないなどと、言葉の意味について考えていると幻影に再び動きがあって、老婆が疑問の答を語りだす。
「変貌の呪というのは、一つが身体、二つが心、三つが魂を蝕んで完成するんだ。もし呪の三つ目が開いていたら、この子は厄災と呪を撒き散らす魔女、呪持ちの人形としての生を刻む事になっただろうね」
老婆の口から滔々と語られる呪持ちの従者という言葉は、戦火の中で見たクシーナの変わり果てた姿を思い出させ、セラーネが呪の尖兵に貶められて戦火を撒き散らす未来を、俺の頭に見せようとした。
俺はそんな未来は絶対に迎えさせないと頭を振って追い払い、呪が渦巻いているであろう穹廬の外へ響くような声で叫んだ。
「巫山戯るなっ、人生は、人の生き死には玩具じゃない!貴様らの思い通りになど絶対にさせない!」
人生は自身の決断で進むべきもので、呪などに変えられて良いものでは決して無い。俺はそんな忌まわしい未来を、悲しい過去を繰り返す呪など絶対に認める訳にはいかない。
セラーネの未来は彼女の意思が決めるべきもので、我欲によって身勝手に決められて呪に貪られるものでは決して無い。転生者の狂った遊びの生贄になど絶対にさせてなるものかと、老婆の告げた言葉を聞いた俺の心に義憤が燃え上がる。
「では、我が子はゼアネンは……」
先達の言葉を聞いた若い父親は、欲望と悪意が作り上げた二つの悪夢を感じ取り、酷く青ざめた表情で、我が子の苦悩に満ちた未来を憂いて言葉を紡ぐ。
「いや……、父である私が我が子を諦めてどうするのだ、ババ様、我が子はどうすれば助かるのですか!」
それでも父親はセラーネが歩むであろう人生の行く末に希望を願い、続きを述べてくれと老婆へ縋るような視線を投げ掛ける。
「ああ、まだ三つ目の臀部の呪は開いちゃいない、これだったらアタシの技でも何とか大人になるまでは、呪を封じ込める事が出来るはずだよ」
老婆が不安を断ち切るようにしっかりとした口調で、強い決意を感じる視線を彼らへ向けて語るが、やはり大人になるまでと区切られた時間制限が気になるのか、長老は再び口を開いて問いかける。
「のうババァよ……、完全に封じるのは、そのなんだ……、無理、なのか?」
長老の口から零れた歯切れの悪い低い声が投げかけた疑問、それは若い夫婦と小さな子供も同様に感じて居たのだろう、家族は互いに視線を合わせてから一点へと視線を向け、大小八つの眼光の全てが枯れた女性に集まる。
だが彼女は長老の口にした疑問を予想していたらしく、一つだけ頷いてから皆の抱える疑問の答を口にする。
「呪の中でも変貌の呪は複雑でね、アタシのような二流にゃ、そこまでが限界だね」
老婆が無理だと言うと若い夫婦は慌てて口を開こうするが、それを老婆の長い指が押し止める。
「焦る気持ちは分かるけどね、アタシらは躾の出来てないクルガじゃないんだ、まずは落ち着いて話を聞いとくれよ」
若い夫婦とは対照的な落ち着いた老女の声に、浮き足だった夫婦の動きは止まり、代わりに長老の口が続きを促す。
「何じゃババァ、もったいぶらずに言わんか、そういう年寄りは若いモンに嫌われるぞ?」
その物言いが癇に障ったのだろう、老婆は心底嫌そうな顔をしてから答を口にする。
「黙んなジジィ、余計なちゃちゃ入れんじゃないよ!確かにアタシじゃ無理だがね、腕っこきの姉弟子なら、平原で宮廷呪い師をやってる、あのいけ好かない女なら出来んだよ」
老婆は自分の無力さを感じていたのだろうが、恐らく周りは早く言って欲しかったに違いない。現に答を知らない俺も少しだけ肝が冷えてしまった。
「ババァが一々勿体ぶるんじゃねぇよ……、ワシの寿命が縮むと思ったぞ……」
ここに居る呪い師以外の気持ちを代表したような長老の言葉に、ババァと呼ばれた呪い師は呆れた表情を浮かべながら続きを語る。
「やかましいよジジィ!まぁ、一番難しい部分を姉弟子任せってのが業腹だがね、そこまで保たすのがアタシの仕事って訳だ」
「では……、ゼアネンが呪に負けぬように慈しみ、ババ様の姉弟子様の元へ連れて行けるまで育てる事が、私がこの子にしてあげられることなのですね……」
今まで貞淑な妻として夫を立て、発言を控えていた母親が紡いだ言葉には、我が子が無事に生を全うして欲しいと願う、余りに純粋で切ない祈りが込められていた。
母親の祈りの言葉を聞いた大人は大きく頷くと、これから兄になる幼児は、大人達の決意に必死に食らいつく様に、拙くも自らの思いを言葉に変えて皆に語る。
「僕ね、ババ様の言ってることよく分からないけど、でもゼアネンは大変なんでしょ?だから僕もいっぱい頑張る!だって僕はゼアネンのお兄ちゃんだから!」
「ああ、お前は今日からお兄ちゃんだからな、父さんも母さんも頼りにしているぞ」
敏い我が子の宣誓が誇らしいのだろう、父親は嬉しそうに同意しながら幼い頭を優しく撫でる。
「ありがとうお兄ちゃん、ゼアネンの事よろしくお願いね」
母親も我が子の成長を喜んでいるのだろう、セラーネとよく似た優しげな笑顔で小さな決意に感謝の言葉を返した。
そんな家族を見ながら老婆は満足気に笑顔を浮かべ、彼ら家族がこれからやり遂げるべき目標を、超えるべき問題について触れていく。
「この子が平原の旅が耐えれるようになるまで考えたら、多分十年ってところだろうね、そこまで頑張れば人としての未来を見せてやれる、だから、アンタ達はどんなに辛くても負けるんじゃないよ」
老婆の語る十年という時間、呪に立ち向かう時間としては余りに長い、そう俺は感じた。
だが父親は一度だけ眼を閉じると、戦いに向かう騎士の様に決意を瞳に滲ませ、その心中にある全てを覚悟した返事を紡ぐ。
「分かりました、それまでは私達が必ず……、ゼアネンに振りかかるであろう困難、その全てからこの子を守ってみせます」
「今のアンタ良い目をしてるよ、良い父親だった死んだ爺さんそっくりの目だ。じゃあ、アタシはソイツに応える仕事をしっかりこなさないとねぇ!ジジィ、アタシんとこから道具を持ってきな!」
「あいよぅ、迷惑なこのババァは昔からジジィ使いが荒いのぅ……。じゃが今日は素直に従ってやるわい、この子にしてやれる最初の仕事じゃからな」
尻に敷く呪い師と敷かれる長老、この二人の年季の入った掛け合いに周囲が笑い、沈んでいた空気が弛緩した瞬間、辺りを包んでいた穹廬の景色が滲み始めた。
あんなにも暖かな空気を醸し出していた幻影は点滅し朧気になり、セラーネの眠る寝台だけが取り残されるように全てが揺れ始め、三度世界は混沌へと向かって動き出す。
「まずいっ、セラーネッ!」
目の前で再び起きた異常事態に、俺は眠り続ける彼女の安全だけを考え、今度は奪われまいと寝台へ向かって己の手を、ただひたすらに伸ばすが、歪んだ世界に不規則に足元を揺らされて倒れてしまった。
きっと悪夢の中で身体が無いからだろうが、顔から落ちたが口を切るような事は無く、痛みを堪えてなんとか立ち上がろうとするが、再び立って居られないほどに揺さぶられ、俺は無様に地面に転がる。
大きな地震の様な揺れは妄執に囚われた様に、俺の三半規管を刺激しているのだろう、世界は高熱に魘された時のように、俺を激しく揺らして掻きまぜた。
「ぐっ、うげぇええええ!」
その余りに不明瞭で不快な揺れが耐え難い吐き気を引き起こし、たった数歩の距離を酷く遠く感じる。だが救いたいと願う彼女を目の前にして諦めるなんて事はできないと、俺は四足の獣ように手を突いて前に進み出した。
「間に、あえぇえええ!」
振り回された視界の中、寝台に半ば飛び込むように辿り着いた頃には、彼女の片隅にあったはずの家族の幻影は掻き消えてしまっていて、代わりにあったのは宵闇から伸びる悪意だった。
再びセラーネを取り込まんと闇から滴り落ちる粘着質な何かが、彼女の身体に覆いかぶさって行く姿が見えた。
「やらせるかっ!これ以上は好きにさせん!」
ここで彼女を奪われてはいけない、この寝台こそが最後の防衛線だ、これ以上の後はないと俺は願いを炎に焼べ、思いを熱り立たせる。
「呪をっ、燃やせぇええええ!!」
俺が心の炉を開け放った瞬間、青い光がセラーネへと伸びる闇と衝突し、寝台の内と外に明確な境界線を作って、粘度のある闇の侵入を阻んでいく。
決して混ざり合わない二つの色が、互いに相反する願いを競わせる中で、一つも身動ぎしないセラーネの髪が俺の指と触れ合った。
「セラーネっ!起きてくれセラーネ!」
今度は届いたと思った瞬間、呪によって創りだされた世界は、諦めきれぬように激しく脈動し、再び炎の無い反対側から寝台へ手を伸ばす。
「消えろぉ、これ以上貴様らに彼女を、セラーネを好きにはさせんっ!」
悪意を押し固めた黒に彼女を奪われぬように、俺は胸の中へ眠り続ける細い身体を収めると、浅い息と温もりがセラーネが生きているのだと伝え、この人を守りたいという願いが俺に力を与えていると感じ、諦めるという選択肢など何処にもないと己の心を奮い立たせてくれた。
だが混沌を尊ぶ闇は、そうした俺達の姿が気に入らないらしく、今までの攻撃が牽制だったと言わんがごとくに攻撃の圧力を徐々に増してゆく。
「クソッ、まだ来るのか!」
闇が支配する世界を焼き尽くすことは叶わないが、青白い炎は衰える事を知らぬ様に猛り、襲いかかる無数の魔手を焼き払いながら焦がし続け、深淵を湛える空間に光と闇の奇跡的な均衡を未だに保っている
だが無限とも思える攻撃は止むことはなく、徐々に均衡は崩されて押し込まれ、最早俺達の直ぐ側まで闇が迫り、心の中に焦燥が湧いてきて弱音を吐きたくなるが、代わりに出たのは痩せ我慢の言葉だった。
「だが俺はもう、お前たちに負けてやる気はないっ」
ここで俺が諦めたなら、セラーネは二度と暖かな世界に、元の世界に出ることは出来ないのだとすれば、ここで絶対に諦めることなど出来るはずがない。
「こっから先は意地の張り合いだ、かかってこいッ!」
穹廬の中の全てが引きずり込まれて行く中、何度も迫ってくる呪に俺は気持ちを強く持ち、吠えながら抗い続けるが、炎をすり抜けた闇は何度も迫り、体中に刺すような痛みが沸き起こる。
「この程度っ、喪う苦しみに比べれば、この程度の痛みなど構うものか!まだだ、俺はこの程度の事で、もう二度と負けられん!」
実態のない世界、身体のない世界で感じるものは全て幻だとすれば、ここで己の降りかかった痛みに意味など無い。
俺は激しい幻痛の中で何度と無く、叶えたいと願った事を忘れるな、自らの望みを履き違えるなと自分に強く言い聞かせ、永遠と思える長い攻防を繰り返していく。
直ぐ傍にあった背の低い小さめの卓袱台が砕かれ消えた、柔らかそうな座布団は引き伸ばされ消えた、精緻な模様の刻まれた金属食器たちも小さく圧縮されてもう見えなくなって、暖かだった穹廬の面影はもう殆どが飲み込まれ、最早俺達の居る寝台だけが残るだけになった。
そうしていくらの時間が経ったのかも解らなくなった頃、それまで俺を攻め続けた闇は、まるで魔女の釜で煮詰めたように怨嗟の断末魔を上げ、攻撃の手を止めた。
「どう、したんだ……?」
今までの激しい攻撃が嘘のように急に静かになった事が信じられず、俺は頭上を見上げて攻撃へ構えるが、聞こえてくるのはセラーネの微かな寝息と、緩やかな心臓の鼓動だけだった。
「今度は一体なにが起こるんだ……?」
全てを飲み込まんとする混沌を乗り越えた寝台の上で、俺の呟いた言葉を聞くものは眠り続けるセラーネだけで、抱える疑問に応えるものは何処にもなく、次に俺の目に映るのは眩いばかりの光そのもので、闇に慣れてしまった俺の目は幻惑されてしまう。
「クソッ!今度は視界を奪う気か!」
眩しさに視界を奪われてしまった俺は、何も見えなくなる中で叫び、ただ彼女を奪われまいと細い肩を強く抱きしめ、視界が元に戻るのひたすらに待ち続けることしか出来ずに居たが、再び闇の世界へと放り出されることはなかった。
暫くの時間を掛けて戻った視界が捉えた色、それは今まで見てきた闇の世界には全く不釣り合いな色、よく晴れた空の青。そう、俺の視界を奪った眩しさは太陽の光で、頭上にはただひたすらに高い空が果てしなく広がっていたのだった。




