第1話:次の婚約者様に頑張っていただきましょう
「おまえの代わりはいくらでもいる」
グランツ侯爵家の応接間で、婚約者のヴィクトル様はそう言った。
隣には、蜂蜜色の巻き髪の令嬢が寄り添っている。ベルマン子爵家のロザリー様だ。
「婚約は破棄する。今日から俺の婚約者はロザリーだ」
「ごめんなさいね、クラリッサ様」
ロザリー様は扇で口元を隠し、くすくすと笑った。
「八年もかけて、結局愛されなかった帳簿係さん。お疲れさまでした」
八年。
十八で婚約してから、私は毎日のようにこの屋敷へ通った。
地下の保管庫で魔石を数え、台帳をつけ、出入りの商人と話し、使用人の給金を計算した。
……そうか。
この方には、それが帳簿係に見えていたのか。
「承知いたしました」
私が頷くと、ヴィクトル様は拍子抜けした顔をした。泣いて縋るとでも思っていたのだろう。
婚約者としての愛情が、最初からなかったわけではない。
けれど、いつからだろう。
私が屋敷を訪ねても、ヴィクトル様は顔を見せなくなった。たまに会えば、仕事の報告など聞きたくないと追い払われた。
最近では、ロザリー様を連れて夜会に出かけているという噂まで耳にしていた。
婚約がなくなれば、私は管理補佐官の職も返上しなければならない。国の備蓄を預かる以上、そのときに一つの数字の曖昧さも残したくなかった。
だから十日前、私は定例点検の前倒しを財務院に申請していた。必要な書類も、すべて揃えてあった。
いつか、この日が来るかもしれないと思って。
「では、こちらを」
私は鞄から三つの書類を取り出した。
「引継書です。備蓄の管理方法と、取引先ごとの注意点をまとめてあります。今月末の決済予定と、侯爵家の当座資金計画も挟んであります」
「……何だ、それは」
「こちらは財務院宛ての管理補佐官辞任届。管理代理権者の確認欄がございます。最後が、財務院指定様式の公式引継書です」
私は最後の一枚を示した。
「昨日、財務院の立会官と保管官の立ち会いで、現物点検を済ませました。全量確認のうえ、保管庫は封緘されております。こちらに立会官の検定印がございます」
書類には、財務院の赤い封印が押されていた。
「今朝も保管官に封緘の維持を確認しております。管理代理権者として、引き継ぎのご署名をお願いいたします」
「ああ、はいはい」
ヴィクトル様はペンを取った。
目はロザリー様に向いたままだ。
「ねえヴィクトル様、婚礼衣装は王都で一番の仕立屋にしたいわ」
「好きにしろ。金ならある」
さらさらと、辞任届の確認欄と、公式引継書の管理責任引受欄に署名が入る。
一行も読まずに。
「保管官にも引き継ぎの連絡をお願いいたします。封緘を解く際は、所定の手続きを――」
「わかったと言っているだろう。もういい」
「承知いたしました」
ロザリー様は引継書をつまみ上げ、ぱらぱらとめくった。
「まあ、手書きでこんなに。古臭いやり方ね」
そして、テーブルの端へ押しやった。
私は署名済みの書類を丁寧に鞄へしまい、立ち上がった。
(では、次の婚約者様に頑張っていただきましょう)
一礼して、私は応接間を出た。
◇
帰りの馬車で、私は窓の外を眺めていた。
私の故郷エルフォード伯爵領は、北の国境沿いにある。
七歳の冬のことだ。
国境結界の一部が綻び、魔獣が村へ入り込んだ。
燃える家と、泣き叫ぶ声を、私は今も覚えている。
結界を支えるのは、王国が管理する魔石だ。
なかでも、結界が損傷した際に使用する緊急交換用の予備魔石は、国境の村々にとって命綱だった。
その一部を、グランツ侯爵家が王国から委託されて保管している。
――あなたの故郷を守る石を、一緒に守ってくれないかしら。
そう言って私を見込んでくださったのが、亡き侯爵夫人だった。
婚約が決まった後、夫人は私の数字への強さを知り、備蓄管理の仕事を教えてくださった。
やがて財務院の認可を受け、私は正式な管理補佐官となった。
夫人が亡くなってからは、私が実務の大半を引き継いだ。
侯爵家の財政管理まで任されるようになったのは、その頃からだ。
ヴィクトル様は、私が何をしているのか、一度も尋ねなかった。
それでも構わないと思っていた。
守っていたのは、侯爵家ではない。
結界だ。
だから、引き継ぎだけは完璧にしておく必要があった。
ふと、二年前の定期監査を思い出す。
財務院から来た監査官は、銀縁の眼鏡をかけた若い方だった。
アレクシス・ヴァレンシュタイン様。
公爵家のご次男だと、あとで聞いた。
台帳を最後までめくった彼は、こう言った。
「数字も正確ですが、搬入の人足の名前まで記してある台帳は初めて見ました」
「怪我をした方がいたとき、どなたにお見舞いを届ければいいか分からなくなりますので」
彼は少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。
なぜか、あの笑顔だけが記憶に残っている。
それからも半年ごとの定期監査や、財務院での報告書の照合で、何度か言葉を交わした。
仕事の話ばかりだったけれど、彼はいつも私の説明を最後まで聞いてくださった。
あるとき、私が無理をしていることに気づき、温かいお茶を差し出してくださったこともある。
「帳簿は逃げません。少し休んでも大丈夫ですよ」
そんなことを言われたのは、初めてだった。
馬車は財務院の前で止まった。
私は窓口に辞任届と公式引継書を差し出した。
「管理代理権者の署名を確認いたしました。保管官からも、今朝の封緘確認記録が届いております」
窓口の職員が書類を照合する。
「本日付で辞任を受理いたします。規定により、一か月以内に臨時監査が入ります」
「よろしくお願いいたします」
これで、私の八年は終わった。
◇
婚約破棄から十日。
グランツ侯爵家では、支払いが滞り始めていた。
「侯爵家の印があれば、掛けで売るのが当然だろう!」
ヴィクトルが怒鳴ると、出入りの商人は困ったように帽子を握りしめた。
「これまでは、クラリッサ様が月末に必ずお見えになって、一件ずつ確かめてくださいましたので……」
侯爵家の財政は、もともと余裕がなかった。
当主の療養費に加え、ヴィクトルの浪費が重なり、毎月の支払いを調整しなければ資金が足りない状態だった。
クラリッサは支払期日を交渉し、入金予定を確認し、取引先との信用をつないできた。
その予定表は、引継書にすべて記されていた。
だが、ヴィクトルは一度も開いていなかった。
「クラリッサ様から、今月の決済についてご相談をいただく予定でしたが……」
「もうあの女はいない!」
ヴィクトルは机を叩いた。
「俺が侯爵家の嫡男だぞ! 信用できないというのか!」
商人は深く頭を下げた。
「申し訳ございません。ですが、これ以上のお取引には、先月分のお支払いが必要でございます」
侯爵家の信用だと思っていたものは、彼女が積み重ねてきた信用だった。
ロザリーは、屋敷の仕事をすべて使用人に丸投げした。
「保管庫の湿度の記録は、いかがいたしましょう」
「知らないわよ、そんなの。前と同じにしておきなさい」
「前と同じ、と申しますと……」
「うるさいわね!」
応接間の隅に置かれたままの引継書を、開く者はいなかった。
ロザリーは侍女たちの前で、わざとらしくため息をついてみせた。
「お金が足りないなんて、変よねえ。前の方、横領でもしていたんじゃない?」
噂は、その日のうちに屋敷中へ広がった。
当主のグランツ侯爵は長く病床にあり、実務の一切を息子に委ねている。
療養のため面会も制限され、屋敷の異変が寝室まで届くことはなかった。
そんな折、財務院から一通の封書が届いた。
臨時監査の通知だった。
ヴィクトルは封を切り、冒頭だけを眺めた。
「ただの定期監査だろう」
そして封書を机に放った。
「数を数えて帰るだけだ。どうということはない」
◇
「ねえ、ヴィクトル様」
ロザリーが、甘えた声で彼の腕を取った。
「地下の魔石、少し売ってしまえばいいんじゃない?」
「あれは国のものだぞ」
「でも、今は侯爵家が預かっているのでしょう?」
「国境結界が壊れたときの予備だ。勝手に売っていいものじゃない」
「だったら、壊れなければいいだけじゃない」
ロザリーは笑った。
「どうせ誰も使っていないのでしょう? 少しくらいなくなっても、すぐには困らないわ」
ヴィクトルは黙った。
「うちに出入りしている商会なら、高く買ってくれる先を知っているはずよ」
商会の主人は、話を聞くなり身を乗り出した。
高純度の魔石を欲しがる大口の客を、裏で抱えていたのだ。
「刻印はこちらで削っておきましょう。侯爵領の鉱山で採れたことにすれば、産地証明書もこちらでご用意します」
「だが、保管庫には保管官がいる」
「そこはご心配なく。搬出に必要な書類も、こちらで整えましょう」
商会の主人は薄く笑った。
「侯爵家の正式な命令書さえいただければ、あとは何とでもなります」
高純度の魔石は、木箱にしてわずか六つ。
それでも、グランツ侯爵家が預かる緊急予備魔石の三割にあたる。
三日後の夜。
商会の荷馬車が裏門に着いた。
保管庫は二重管理だった。
開庫には、管理代理権者の命令書と、保管官が持つ鍵が必要になる。
さらに、国有魔石を外へ運び出すには、財務院の出庫許可番号が必要だった。
ヴィクトルは、保管官に一枚の命令書を差し出した。
「臨時点検のため、六箱を搬出する。財務院への移送だ」
「財務院からの許可はございますか」
「ここにある」
命令書には、財務院の許可印が押されていた。
商会の主人が用意した偽物だった。
保管官は印影を確かめ、記載された許可番号を搬出記録に写した。
目の前にいるのは正式な管理代理権者であり、書類には財務院の印まである。疑う理由はなかった。
保管官は鍵を開けた。
封緘が解かれ、六箱の魔石が運び出された。
ヴィクトルは命令書に署名した。
「これでいいだろう」
その命令書は、保管官の手で搬出記録とともに綴じられた。
代金は、翌日のうちに金貨で届いた。
ヴィクトルは溜まった支払いを片づけた。
ロザリーは王都一の仕立屋へ乗り込み、婚礼衣装の手付金を即金で積んだ。
仲介料を渡すとき、商会の主人は一枚の受領書を差し出した。
「念のため、ご署名を」
ロザリーは中身も見ずに名前を書き、受け取った金貨をそっくり自分の懐へ入れた。
「ほら、言ったでしょう? 何も困らないわ」
だが、困ったことが一つあった。
監査を前に台帳を開くと、記された数と保管庫の実数が、三割も合わないのだ。
「……まずいな」
ヴィクトルが青ざめると、ロザリーはあっさりと言った。
「前からなかったことにすればいいのよ」
「前から?」
「あの帳簿係がいた頃に、もう出ていたことにするの。ちょうど横領の噂も流してあるし」
ヴィクトルは少し考えて、鼻で笑った。
「そうだな。帳簿なんて、数字の辻褄さえ合っていれば誰も中身など見ない」
ロザリーは古い台帳を広げ、クラリッサの細い字を見よう見まねでなぞった。
二年前、三年前、四年前。
日付を遡って、ありもしない出庫を書き足していく。
「できたわ。これで完璧」
「……保管官の記録は」
「あんな下役の控え、監査官がわざわざ見るものですか。管理代理権者のあなたが認めた台帳がすべてよ」
「それもそうだな。よくやった、ロザリー」
二人は知らなかった。
クラリッサが毎期、同じ数字を財務院へ報告していたことを。
その控えが、財務院の書庫に一枚残らず保管されていることを。
そして、保管官の搬出記録こそが、監査で真っ先に照合される帳簿だということを。
◇
婚約破棄から二十五日目。
監査の日、私は参考人として侯爵家へ呼ばれた。
応接間には、財務院の監査官が五人。
その中心に、見覚えのある銀縁の眼鏡があった。
アレクシス様は、私を見ても表情一つ変えなかった。
「参考人のクラリッサ・エルフォード嬢ですね。おかけください」
それだけだった。
「保管庫の実数を確認しました」
別の監査官が報告する。
「公式引継書の記載に対し、三割の不足です」
「その件だが」
ヴィクトル様が、待っていたとばかりに立ち上がった。
「不足は、この女の在任中に生じたものだ。台帳を見てもらえばわかる」
ロザリー様が、得意げに台帳を開いて差し出す。
「ほら、ここにも、ここにも。私たちが気づいたときには、もうなかったんです。屋敷の者も、みんな噂していましたわ」
アレクシス様は台帳を受け取り、黙ってめくった。
それから、部下に一枚の書類を持ってこさせた。
「では、こちらは」
財務院指定様式の公式引継書。
婚約破棄の日、私が差し出したものだ。
「引き継ぎ時の公式引継書です。記載は全量。立会官の検定印と、グランツ卿の署名があります」
ヴィクトル様の顔が、こわばった。
「そ、そんなもの、見ていない!」
私は、静かに口を開いた。
「署名なさいましたよね」
ヴィクトル様が、私を見た。
「ロザリー様と、婚礼衣装のお話をなさりながら。確かに」
アレクシス様は、公式引継書を机に置いた。
「この書類には、グランツ卿の管理責任引受署名があります。さらに、前日の立会官による現物点検の記録と、引き継ぎまで封緘が維持されていた記録も残っています」
ヴィクトル様の顔から、血の気が引いた。
「だ、だが! 台帳には!」
「その台帳についても、確認しております」
アレクシス様は、もう一冊の記録簿を開いた。
「こちらは保管官が残した搬出記録です。婚約解消から十三日後、六箱の魔石が運び出されています。搬出命令書には、あなたの署名があります」
「そ、それは財務院への移送で……!」
「では、財務院の受領記録が存在しないのは、なぜでしょう」
ヴィクトル様は答えられなかった。
「しかも、搬出許可書に記された番号は偽物です」
アレクシス様は、搬出記録の一行を指で示した。
「保管官は、提出された許可書の印影と番号を確認しています。しかし、その番号が別の物資に発行されたものだと判明したのは翌日、搬出報告が財務院に届いてからです。その時点で、調査が始まりました」
それから、古い台帳を指さした。
「一方、こちらには四年前の出庫記録が書き足されています。財務院の保管記録とは一致しません。インクも新しい」
ロザリー様の扇が震えた。
アレクシス様は、小さな布袋を取り出した。
転がり出たのは、乳白色に光る魔石だった。表面に、刻印を削り落とした粗い痕がある。
「先週、王都の裏市場で押収しました。削り残された刻印が、グランツ侯爵家の備蓄記録と一致しています」
裏市場の魔石。商会の売買記録。仲介料の受領書。
一枚ずつ、証拠が机に並べられていく。
「わ、私は知らなかったの! ヴィクトル様が売れって――」
「おまえが言い出したんだろう!」
「だって、あなたがお金を持っていないから!」
二人が互いを睨みつける。
「ベルマン子爵令嬢」
アレクシス様の声が、二人を遮った。
「商会の主人は、あなたから売却先の紹介を頼まれたと証言しています。結界の予備魔石だと承知のうえで」
彼は、受領書を台帳の横に並べた。
「そして、この受領書の署名と、台帳の書き足し。筆跡の癖が同じです」
ロザリー様は、口を開いたまま固まった。
「これらが示しているのは、クラリッサ嬢の在任中の横領ではありません」
アレクシス様は、ヴィクトル様を見据えた。
「あなた方が管理を引き継いだ後に国有魔石を売却し、その責任を前任者に押し付けようとした事実です」
「そんな……!」
ロザリー様の声が裏返った。
「ヴィクトル・グランツ、ならびにロザリー・ベルマン。国有財産横領、および公的帳簿偽造の容疑で拘束します」
憲兵が二人の腕を取る。
連れ出される間際、ヴィクトル様が私を睨みつけた。
「おまえ……最初から、こうなるとわかっていたのか!」
わかっていたわけではない。
私はただ、決められた手続きを、決められた通りに踏んだだけだ。
「いいえ」
私は首を横に振った。
「ただ――次の婚約者様は、本当によく頑張られましたね」
◇
判決は、ひと月後に王室裁判所で下された。
国有財産の横領。
公的帳簿の改竄と偽造。
財務院の許可書の偽造に関わった罪。
そして、前任の管理補佐官に罪を着せようとした虚偽申告。
決定的だったのは、横流しされた魔石が国境結界の緊急交換用備蓄だったことだ。
結界用の備蓄と知りながら流出させた者は、終身流刑に処す。王国防衛法の定めだった。
ヴィクトル・グランツ、終身流刑。
ロザリー・ベルマン、終身流刑。
送られる先は、北方の流刑島。
結界用の魔石を掘る、鉱山の島だった。
刻印を削った商会は営業停止となり、主人ら関係者も揃って処罰された。
グランツ侯爵家は備蓄の管理権を永久に剥奪され、多額の賠償を負った。
病床の侯爵も、息子に代理権を委ねたまま監督を怠った責を問われた。
家は伯爵家へ降格し、所領の半ばを削られた。
家が取り潰されなかったことに、私は少しだけ安堵した。
亡き夫人が愛した屋敷は、まだそこにある。
判決から数日後、故郷から手紙が届いた。
財務院の手配で、北の国境に予備の魔石が補充されたという。
不足が判明した直後から、王国は他の備蓄庫から魔石を移送していた。
幸い、その間に結界が損傷することはなかった。
結界は今日も変わらず、村を囲んでいる。
手紙を胸に抱いて、私はようやく、長い息を吐いた。
◇
その日の午後、エルフォード家の王都屋敷に来客があった。
「突然の訪問、お許しください」
応接間に立っていたのは、アレクシス様だった。
監査のときの黒い官服ではなく、落ち着いた紺の上着を着ている。
「本件の最終報告書が、今朝受理されました。裁判も終わり、私の担当職務はすべて終了しています」
「……わざわざ、それを伝えに?」
「それを伝えないと、続きを言えないので」
彼は一度、眼鏡の位置を直した。
「これからは、監査官としてではなく、一人の男として、お話をさせてください」
胸が、小さく鳴った。
「クラリッサ嬢。私と、結婚していただけませんか」
言葉が出なかった。
「……私の、帳簿の腕を買ってくださったのですか」
口をついて出たのは、そんな問いだった。
八年間、私の価値はいつもそこにあったから。
「いいえ」
アレクシス様は、きっぱりと首を振った。
「二年前の監査で、あなたは人足の名前まで台帳に書いていた。怪我人に見舞いを届けるためだと言った」
「……覚えていらしたのですか」
「忘れられませんでした」
彼は微笑んだ。
「それから半年ごとにお会いするたび、あなたはいつも、数字の向こうにいる人のことを考えていた」
私は目を瞬いた。
「商人が困っていれば支払いの相談に乗り、使用人が病気になれば代わりの者を手配する。あなたにとっては当たり前のことなのでしょうが、私にはそう見えませんでした」
「そんな……」
「あの屋敷の使用人は、あなたの話をするとき、みんな同じ顔をしていた。商人もです。数字が合うことより、そちらの方がよほど珍しい」
彼は少しだけ、困ったように笑った。
あの日と同じ笑顔だった。
「もっと早く気持ちを伝えたかったのですが、あなたには婚約者がいましたから」
「……」
「今回の監査でも、あなたを特別扱いしないようにしていました。私情で判断を曇らせたくなかった。証拠の審査も、私一人では行っていません」
彼は眼鏡の位置を直した。
「……正直に言えば、かなり苦労しました」
思わず、小さく笑ってしまった。
「私の家に、あなたにやってほしい仕事はありません」
アレクシス様は言った。
「帳簿は家令がつけます。あなたには、何もしなくていい日があっていい。本を読んで、昼寝をして、それでも誰にも責められない日が」
何もしなくていい日。
そんなもの、八年間で一日もなかった。
役に立つから、そこにいていい。
ずっと、そう思って生きてきた。
視界がにじんだ。
「……私でなくても、よいのでは」
「代わりはいくらでもいる、と言われたのでしたね」
アレクシス様は、まっすぐに私を見た。
「あなたの代わりは、どこにもいません」
その一言が、八年分の何かを、静かにほどいていった。
私は涙を拭い、差し出された手を取った。
「――はい。喜んで」
今度は、誰かのためではなく。
私は、自分の幸せを選んだ。




