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 ふと気が付くと大きな壁にしがみついていた。


 危うく滑り落ちかけた【私】は7本の足で山なりに湾曲した壁をしっかり掴み直す。そのまま見回すと、どうやら【私】がしがみ付いているのは大きな卵であることが分かった。いや、むしろ【私】の方がとても小さいのかもしれない。

 落ちぬよう、慎重によじよじと足を蠢かして姿勢を反転する。


 目の前には穴があった。

 卵の殻に小さな黒い穴が一つ開いている。


 穴にひゅうひゅうと風が流れ込んでいる。【私】はこの穴が自分が這い出てきた穴だと知っている。穴から出てくる前はもっとたくさんのことを知っていた気がするのだが、思い出せない。卵の中に置いてきてしまったのかもしれない。

 けれどもやらねばならないことはしっかりと覚えていた。【私】は今からこの穴を塞がなければならない。


 卵は生きていた。殻に身を寄せると温かく、規則正しい脈の音が【私】を微かに揺さぶる。全体に淡く光る湯気(オーラ)のようなものが立ち上っており、ほんのりと暖かい。

 穴を塞がなければ卵が死んでしまう。【私】がしがみついている卵の隣には、やはり別の卵があった。その卵は倍ほども大きかったが冷たく固まっており、随分前に死んでしまったのだと分かった。


 【私】は迅速に穴に向かって糸を吐きかけた。卵の中で蓄えた糸だ。卵の殻はつるつると滑りやすかったが、糸はしっくりと馴染んだ。元々卵の中にあったものなのだから、馴染んで当たり前なのだ。

 【私】は糸の上に糸を重ねるようにして吐き続けた。赤いの、青いの、黄色いの。たくさんの糸を吐きかけた。


 糸は美しかった。


 淡く透き通って虹のように儚い糸。

 良く伸びて丈夫な糸。

 ペタペタとくっつきやすく他と馴染む糸。

 黒く冷たくどれよりも強靭な糸。


 どの糸もみな美しく、かけがえのない糸だった。【私】は休まず、しゅるしゅると糸を吐きかけ続けた。


 やがて穴は塞がった。糸で覆われた部分が宝石でできた七色のかさぶたのようにキラキラ光っている。

 糸を吐き尽くした【私】は殆ど空っぽになった。


 最後の仕事を終えた【私】は自由になった興味を周りへ広げてみた。残された力で頭をぐるりと回して周囲を見渡す。


 それは驚きべき光景であった。


 見渡す限りの卵、卵、卵。

 色も形も大きさも、右も左も上も下も、正に千差万別の卵がずらりと並んでいる。

 そこは果てしないすり鉢状のドームになっており、階段状に設えられた祭壇の数々に無数の卵が安置されていた。

 祭壇の合間には夥しい数の影達が練り歩いている。その影達はどうやら卵の世話をしているらしいことが分かった。

 卵を撫でさすったり、ぽんぽんと叩いて音を聞いたり、少し姿勢を動かしたり、祈るように手を合わせたり、様々なやり方で卵を世話していた。


 ただ一番驚いたのは卵の数ではなく、その大半が既に死んでいるらしいことだった。


 多くの卵が光を失って冷えて固まっていた。殆どが小さな卵ばかりだったが、中には大きく育った立派な卵もあった。【私】がしがみついている物とは比べようもないほど巨大な卵だ。

 影たちは時折そうした卵の前で立ち止まり、悲しげに首を垂れる。しかしすぐにまた歩き出し、まだ生きている卵の世話を始める。


 突然大きなざわめきが広がった。


 その中心を目で追うとひと際大きく立派で、炎のように激しく光を立ち昇らせている卵があった。

 影たちは興奮した様子でひそひそとささやき合いながら卵の周りに集まり、そろって卵を見上げた。


 出し抜けに弾けるような音が鳴った。影たちの張りつめた気配が伝わった。

 卵の殻に大きなヒビが走っている。ヒビは小気味よい音を立てながらどんどん枝分かれを起こして広がり、細かい網目になっていく。そしてひびが卵の上半分ほどを覆いつくした時、音がやんだ。


 ぱんっと光が散らばった。


 余りに眩しくてとても直視できない。しかし卵の殻を吹き飛ばして大きく広がった何対もの見事な翼が視界の端を掠めた。

 光り輝くそれは砕けた殻の中で何度か翼を伸ばしたり縮めたりした後、大きく羽ばたいて飛び立った。その後を追って【私】は初めて真上を見た。


 お……お、おぉ……!


 思わず言葉にならぬ呻き声が漏れる。そこは満天の星空だった。星しか見えない空だった。まるで砂漠の砂粒のように星々に溢れ、暗がりなどどこにもない。真っ白な星の海に七色の星々の輝きがマーブル模様を作っている。

 圧倒的な星空へ翼持つものが高く高く上っていく。目に痛いほどの輝きがやがて小さくなっていく。

 次第に遠ざかる輪郭が星空に溶けて見えなくなってしまった頃、何かが降ってきた。

 それは新しい卵だった。幾つもの色とりどりの卵が後から後から降りてくる。影たちは手を伸ばし、一つ残らず恭しく受け取った。辺りには極限まで高まった緊張が開放された興奮と熱気、そして安堵に満ちていた。

 影たちはいそいそと新しい卵を祭壇に安置し、残った卵の殻と欠片を拾い集め、何処かへと運んで行った。


 やがてまた静寂が訪れた。



 その後も何度か卵が孵化していた。

 必ずしも大きな卵ばかりが孵るわけではないようだ。小さな卵からも小さな翼持つものが生まれ、空へと飛び立っていった。ただ、大きな卵が孵った時ほど多くの新しい卵が降りてくるらしく、影たちは大きく育った卵ほど熱心に世話をしている。


 【私】は遠目から孵化を見守る以外はずっと空を見上げていた。

 あの星々の一つ一つがここから飛び立ったものなのだろうか。ここはいつから何のためにあるのだろうか。

 確かなことは何も言えないが、直感的に分かる部分もある。おそらくこの宇宙に知性というものが生まれたときからこの神殿は存在し、広さに限りは無いのだろう。あの光の一つ一つが大いなる可能性なのだろう。


 そして影たちは多分、待っているのだ。いつか、何者よりも大きく強く輝き、今ある満天の星空を塗り替えてしまうほど大いなるものが生まれるその時を。


 出来れば【私】もそれが見たい。叶う事ならあの空へと昇ってみたい。

 けれど最早力は尽き果てようとしていた。幾ばくも無いうちに【私】の足は卵の殻を掴み切れなくなり、落ちて崩れて消え去るだろう。

 既に【私】の中には僅かばかりの力の他に何も残ってはいなかったが、必死にしがみついている卵への未練のようなものがあった。

 他と見比べてみればとても小さな卵だ。しかしその中に宇宙があり、時間軸があり、物理法則があり、鮮やかな知性と数多の命がある。全ての卵がそうなのだ。死んでしまった卵でさえも。

 だからこれは【私】にとって何にも代えがたい卵なのだ。


 消えてしまう前に、最後もう一度だけ空を見ようと頭を上げたとき、ギョッとして滑り落ちそうになった。


 一つの影が卵のすぐそばで【私】を見下ろしていた。影は影としか言いようのない茫漠とした姿形をしていたが、闇の奥から【私】を見つめる視線を感じた。それは不思議な暖かさと柔らかさがあり、居心地がよかった。

 目が合った、と思った瞬間にこの影が【私】を卵の中に送り込んだのだと分かった。この辺りの卵を世話している影なのだろうか。【私】を労っているのかもしれない。


 影は不意に【私】を摘まみ上げた。いきなり高く宙に浮いた【私】は恐怖で足をばたつかせる。しかし影はすぐさま下ろしてくれた。

 そこはついさっきまでしがみ付いていた卵の天辺だった。

 驚く間も無く卵の上に乗った【私】の足は振動を感じ取った。卵が震えている!


 お…! お……! おおぉ…!!


 興奮で思わず笑い声のような溜息が漏れ出す。

 足の間で空に亀裂が走った。軽やかな音を立ててヒビは広がっていく。目を凝らせばその隙間から瑞々しい光が溢れていた。

 卵が孵ろうとしている。【私】は残された最後の力を振り絞り、決して振り落とされまいと卵にしがみついた。

 その時を待った。



 卵よ孵れ、孵れ!

 遥かな空へ!可能性の宇宙へ!

 高く高く羽ばたかんことを!



最後までお読み頂き誠にありがとうございます。

第一部とは大分感じの違った話になってしまい、皆さまの期待に沿ったものにならなかったという反省がございます。次はもっとシンプルに面白いお話が書ければと思います。

ご感想など頂けると幸いでございます。

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