脳髄回廊 未生
小説:脳髄回廊
前日譚 ――最初の記録
以下は、昭和十一年の火災によって焼失した私立精神療養所、甦生館の旧文書庫から、後年になって発見された記録の一部である。
文書そのものには日付が記されていない。
ただし、用紙の種類、筆跡、旧字体の使用法、ならびに文中に登場する人物の在籍記録から判断するに、これは甦生館が正式に研究施設として活動を始める以前――おそらく大正末期から昭和初頭にかけて書かれたものと思われる。
表紙には、題名すらなかった。
あるのは、鉛筆で記された一行だけである。
――これは、最初に聞いた者の記録である。
その男が甦生館へ来たのは、雨の降る夜だった。
まだ現在のような療養所としての設備も整っておらず、建物の一部は旧家屋をそのまま転用していた。
男の名は火野某。当時、東京帝国大学の医学部で神経学を研究していたとされるが、本人が残した履歴にはいくつか不自然な空白がある。
特に、彼が甦生館へ来る直前の三年間については、何をしていたのかを記した資料が存在しない。
最初の記録には、こうある。
――午前一時四十分。
雨。門前に老人一名。患者ではない。身元不明。ただし、所持品として一幅の古絵巻を携帯。老人は絵巻を置くと、こちらの制止を聞かず、そのまま雨の中へ戻っていった。
追跡を命じたが、門を出た時点ですでに姿なし。なお、老人の足跡は門から道路へ続いていなかった。ここまで書いたところで、筆跡が一度途切れている。
絵巻には題がなかった。古い紙を繋ぎ合わせた長大なもので、表面には褪色した人間の姿が無数に描かれていた。しかしそれは地獄絵でも、葬列図でもなかった。
人々は皆、こちらを向いていた。泣いている者、笑っている者。口を開けている者。目を閉じている者。そのどれもが、何かを語っているように見えた。
ところが、絵の人物の口元には文字がない。名前もなければ、誰が誰なのかも分からない。ただ、一番端に描かれた一人の男だけが、他の人物とは違っていた。
顔が描かれていなかった。火野は、その人物について次のように記している。
――顔がないのではない。
――まだ顔が決まっていないだけだ。
この一文の後には、赤鉛筆で大きく削除と書かれている。
しかし、その上から別の筆跡で、
――消してしまうな。
と書かれていた。
絵巻を最初に調べたのは、火野ではなかった。当時、甦生館で事務を担当していた若い職員が、絵巻を広げていたところ、聞き覚えのない歌を口ずさみ始めたのである。職員自身は、その歌を知らないと証言した。幼少期にも聞いたことはない。両親も知らない。近隣の民謡でもない。だが歌うことだけはできた。
そして歌い終えた直後、職員はこう言った。
「今、誰かが起きた」
誰が起きたのか、と尋ねると、
「分かりません」
と答えた。
その後、しばらく黙ってから「でも、私ではありません」と付け加えた。
この発言について、火野は精神的疲労による錯乱と判断した。
だが、その夜。
火野自身も同じ夢を見た。
灰色の天井と古い部屋。遠くで鳴る鐘。そして、廊下の奥に並んだ無数の扉。扉には番号が付いていた。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
そして、その先にだけ番号がなかった。目覚めた火野は、夢の内容を記録した。最後に一行。
――私は、八番目の扉を見ることができなかった。
翌朝、職員が一人、姿を消した。
退職したのだと最初は考えられた。しかし机の上には、途中まで書かれた帳簿が残されていた。最後の頁には、意味の分からない数字が並んでいた。
01
02
03
04
05
06
07
08
と書かれている。火野は数字の意味を問うため、職員の実家へ人を遣った。返事はなかった。
三日後、職員の母親から一通の手紙が届いた。そこには、「息子は幼い頃から、八という数字を怖がっていました」とだけ書かれていた。
理由について尋ねると、母親はこう答えたという。
――生まれる前から、八番目だったから。
この文章については、後に火野自身が意味不明と欄外に記している。
しかし、その直後に、
――母親本人は、この発言を否定している。
という追記がある。さらにその下には、
――否定したことも、否定している。
とある。
火野は絵巻を封印することを提案した。
しかし、封印する直前、奇妙なことが起こった。絵巻の最後の部分に、それまで存在しなかった人物が一人増えていた。
顔のない人物の隣。
小さな子供の姿だった。
その子供は、絵巻の外側を指差している。
火野は何度も絵巻を確認した。
古い紙に継ぎ目はない。
誰かが新しい紙を加えた形跡もない。
それでも、その子供は確かにそこにいた。
そして、子供の足元には文字があった。
――聞いた者。
火野はその文字を見た瞬間、筆を落とした。なぜなら、その字は自分自身の筆跡だったからである。本人は、その文字を書いた記憶がない。
さらに不可解なのは、その記録が書かれた日付だった。日付は、三日前。まだ子供の姿が絵巻に現れていなかった日である。この事件を境に、火野は研究方針を変更した。
記憶を脳に保存された情報としてではなく、 「人間から人間へ伝わる何か」として扱い始めた。
その仮説の初期段階には、まだ遺伝という言葉は使われていない。
彼が最初に書いた言葉は、
――記憶は、血ではなく旋律として残るのではないか。だった。
人は生まれる前の出来事を知らない。死者の記憶を持つこともない。それが常識である。しかし、もし記憶そのものではなく、その「型」だけが受け継がれるのなら。悲しみ方。恐れ方。知らない歌を知っていること。
会ったことのない場所を懐かしいと思うこと。
それらはすべて、一つの現象として説明できるのではないか。火野はそれを、 「記憶の旋律」と仮称した。
この言葉が、後に遺伝旋律論と呼ばれる研究の最初の一行となった。
最後の記録は、奇妙な形で終わっている。日付なし。署名なし。紙の中央に、次の文章だけが残されている。
――昨夜、また鐘が鳴った。
――館内に鐘はない。
――しかし、全員が聞いた。
――患者も、職員も、私も。
――音は地下から来た。
――地下には部屋がない。
――部屋がないはずなのに、扉がある。
ここで文章は一度途切れる。
その下に、震えた筆跡で一行。
――扉の向こうから、私が呼んでいる。
さらにその下。
――違う。
――私ではない。
――私になるはずだった誰かが、呼んでいる。
記録はそこで終わっている。ただし、最後の頁の裏側には、後から誰かが鉛筆で書き加えたと思われる文字がある。小さく、ほとんど読めないほど薄く。
それでも確かに、こう記されている。
――第一号を、見つけた。
この記録が書かれた翌年、甦生館には新たな地下施設が設けられた。
その後、研究対象となる者には番号が与えられるようになった。
乙第一号。
乙第二号。
乙第三号。
そして――
その番号がいくつまで続いたのかについては、現存する資料の間で記述が一致していない。ただ、焼失を免れた一枚の名簿には、七つの名前の横に、まだ誰の名前も記されていない空欄が一つだけ残されている。
その欄の上には、「乙第八号」と印刷されていた。そして、空欄の下には。誰が書いたのか分からない筆跡で、こう記されている。
――この者が、最後に聞く。
――そして、最初に読む。




