第1節:脆弱なカーネル(初期OS)の隠蔽
三島由紀夫という特異な存在を歴史的、あるいは精神分析的に解剖する試みは、これまで無数の批評家や研究者によって行われてきた。しかし、彼が構築した緻密な思想的体系と、最終的に彼が選択した「市ヶ谷駐屯地での切腹による自決」という物理的システムの強制終了を真に理解するためには、情報工学における「アーキテクチャの自己矛盾」という視座を導入する必要がある。すなわち、生身の人間としての「平岡公威」という脆弱な初期オペレーティングシステム(以下、カーネルとする)と、後年に彼自身が外部環境へ向けて構築し、実装した「三島由紀夫」という屈強なるユーザーインターフェース(以下、UIとする)の間に生じた、埋めがたい致命的な乖離である。本節においては、まず彼がいかにして自己の深層に潜む脆弱性を認識し、それを隠蔽するための過剰な防壁を構築せざるを得なかったのか、その「初期設定」における構造的バグについて検証する。
平岡公威というハードウェアは、生来的に極めて脆弱な特性を帯びていた。大正十四年(一九二五年)に誕生した彼は、幼少期から祖母・なつ(夏子)によって両親から引き離され、過保護かつ病的なまでの隔離環境下に置かれた。男児らしい屋外での荒々しい遊戯を禁じられ、薄暗い病室で自家中毒を頻発する病弱な肉体を抱えた少年は、外部からの物理的・精神的ストレスに対して極めて低い耐性しか持たない、いわば「クラッシュしやすいシステム」として形成されたのである。祖母が彼に与えたのは、没落した名家の誇りという名の「仮想現実(VR)」であった。現実の泥まみれの社会から隔絶された空間で、泉鏡花などの文学作品を与えられて育った平岡公威の深層は、非常に繊細で高度な処理能力(異常なまでの知性と感受性)を獲得する一方で、自らの物理的無力さに絶望し、生身の現実社会に対して恒常的なエラー(恐怖と嫌悪)を吐き出す状態にあったと言える。ここで初期設定として醸成されたのは、死や血、あるいは美的な悲劇といった過激な概念に対する純粋なロマンティシズムと、生存という泥臭い継続的プロセスに対する根源的な拒絶感である。
この脆弱なカーネルを抱えた彼が、外界との通信を確立し、社会というネットワーク内で生存するためには、何らかの強固な「装甲」を実装する必要があった。その転換点であり、自身のアーキテクチャの構造を自ら告白したのが、昭和二十四年(一九四九年)に発表された『仮面の告白』である。この作品は文学史においては同性愛的な傾向の告白の書と見なされがちであるが、システム論的に解読すれば、これは「脆弱な内部OSを隠蔽し、社会に適応するための偽装UI(仮面)を自ら開発・実装したこと」の技術的マニュアルの公開に他ならない。「私が生きているのは一種の仮面劇としてである」という作中の痛切な認識は、平岡公威という生のデータを直接出力することの危険性を察知した設計者が、社会という規格に適合させるための変換プロトコル(三島由紀夫という筆名とペルソナ)を意図的に採用したという宣言である。しかし、仮面というUIが強固になればなるほど、内側にあるカーネルの脆弱性は保護されると同時に、密閉された空間で異常な圧力を高めていくことになる。
設計者が自身の抱える脆弱性を過剰に認識し、それに怯えている場合、その防衛機構は往々にして「自己投影的な同族嫌悪」という形で外部に出力される。三島由紀夫が、自らと同じような「脆弱性をそのまま露呈させる存在」に対して異常なまでの攻撃性を示したのは、システム防衛の本能的な過剰反応と見なすことができる。その最も顕著な例が、太宰治に対する激しい嫌悪と批判である。昭和二十一年(一九四六年)十二月、若き日の三島は太宰治を囲む酒席に赴き、太宰の面前で「僕は太宰さんの文学が嫌いなんです」と直接言い放った。この時、太宰は三島の顔を見つめ、「そう言っても、来てるんだから、やっぱり好きなんだよな」と応じたとされている(三島由紀夫『私の遍歴時代』等による回想)。この太宰の飄々とした返答は、三島の抱える強がりと自己矛盾を直感的に見抜いた、極めて正確なデバッグ・メッセージであった。
なぜ三島は太宰をそれほどまでに憎悪したのか。それは、太宰治という存在が、三島(すなわち平岡公威)が必死に隠蔽し、重厚なパッチを当てて見えないように封印していた「自己の脆弱性や自己憐憫」を、一切の暗号化もせずに垂れ流して稼働しているシステムだったからである。三島はのちに、自著『小説家の休暇』において、太宰治の抱えていた問題点について次のように論破を試みている。「太宰の性格的欠陥の半ばは、冷水摩擦と器械体操と規則的な生活で治るはずである。(中略)生活で解決すべき問題に芸術を引張り込んでくるから、ああいうことになるのだ」。この三島の言説は、一見すると健全な機能主義からの批判に見える。しかしシステム論的観点から解析すれば、極めて自己防衛的な「弱さへの怯え」の裏返しである。三島が主張する「冷水摩擦と器械体操」とは、まさに彼自身が後年に自らの脆弱なハードウェアに対して強制的に施すことになる「物理的パッチ(肉体改造)」に他ならない。三島にとって太宰の文学は、自分が目を背けたい「平岡公威としての病弱さ、神経質さ、そして生活能力の欠如」という初期バグを執拗に見せつけてくる悪性のウィルスのようであった。弱音を吐く人間を失礼と吐き捨てる三島の冷徹な態度は、「弱音を画面に表示させることは、システムとしての敗北である」とする、彼自身の切迫した恐怖心の表れであった。
しかし、情報工学の鉄則として、エラーの原因そのものを根本的に修正しない限り、どれほど強固なUIで出力を偽装しようとも、内部のバグは消滅しない。三島由紀夫は公的な場では「強靭な精神と肉体を持つ憂国の士」という完璧な動作を演じ続けたが、その裏側で、彼自身のプライベートな書簡や親しい知人への吐露においては、隠しきれない「弱音」というエラーログが幾度も漏出している。例えば、晩年の三島は親交のあった知人や編集者に対し、「もう疲れた」「誰にも自分の本当の意図が理解されていない」といった、平岡公威としての痛切な絶望を繰り返し漏らしていた。また、昭和四十五年(一九七〇年)の自決の数ヶ月前に川端康成に宛てた書簡において、三島は「小生は日増しに日本に対する絶望を深くして居ります」と記し、自己の内部の疲弊と「空洞化」を示唆している。これらは強靭な「憂国の士」の顔とは裏腹に、「三島由紀夫」という肥大化したプログラムを稼働させ続けるためのメモリ(精神的リソース)が著しく枯渇し、システムエラーを引き起こす寸前の悲鳴であった。他人の弱さを許容できないほどに、彼自身が自己の弱さに怯え、それを隠すために巨大な虚構を構築し、最後にはその虚構を維持するコストに押し潰されていったという事実は、彼が冷徹で完璧な「鋼の設計者」などではなく、矛盾とエラーを抱えながら必死にシステムを回していた一人の脆弱な人間に過ぎなかったことを客観的に証明している。
太宰を批判する三島の言葉は、常に「太宰のように弱音を吐きそうになる自分自身」に対する監視モニターとしての役割を果たしていた。彼が太宰の文学を「生活で解決すべき問題に芸術を引張り込んでくる」と痛烈に批判したことは、逆に言えば、三島自身が「生活(現実の泥まみれの生存)の次元で解決できない絶望を、芸術や美学という仮想空間に持ち込むことでしか処理できなかった」という事実の逆説的な告白である。三島由紀夫というシステムは、外部の脅威から自己を守り、かつ内部のバグを隠蔽するために、極端に強固なセキュリティ(男らしさ、武士道、鋼の肉体)を要求し続けた。しかし、それは内部の脆弱性を保護するためであると同時に、内部から漏れ出そうとする「弱音」を自分自身から隠すための密閉容器でもあった。
このように、三島由紀夫の思想的出発点には、「脆弱な平岡公威」という初期オペレーティングシステムをいかにして隠蔽し、超越するかという巨大な自己欺瞞のアーキテクチャが横たわっている。彼は自己のバグを修正して社会という泥濘の中で「生存」を持続する道を選ぶのではなく、バグの存在そのものを「無かったこと」にするために、圧倒的な機能美を持つ外殻を建造し始めたのである。次節以降において詳述するように、この「初期OSの隠蔽」という致命的な設計の方向性が、後に彼をボディビルディングなどの肉体改造と、「武士道」という名の過剰な物理装甲の構築へと駆り立てる。そして、この「平岡公威」と「三島由紀夫」の間に生じた物理的・精神的な負荷こそが、最終的にシステム全体を自己破壊(自決)へと導く時限爆弾として機能していくことになるのである。
【引用文献・資料】
・三島由紀夫『仮面の告白』(新潮文庫、一九四九年)
・三島由紀夫『私の遍歴時代』(ちくま文庫、一九六四年)
・三島由紀夫『小説家の休暇』(新潮文庫、一九五五年)
・川端康成・三島由紀夫『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』(新潮文庫、一九九七年)




