瑠璃の蜘蛛 02
夜が明けたシルシェイドは、昨晩の濃霧が嘘のようにカラリと晴れて青空が広がっていた。
タイガはベッドの上で体を起こすと、固まった体をほぐすように大きく背筋を伸ばす。彼が泊っているのは、長期宿泊者向けの安宿だ。ベッドは値段に比例してとても固かったが、部屋自体は相部屋ではなく個室であったし、小さな書き物机や洗面台も備え付けられている。ベッドのマットレスも薄いが清潔であり、金さえ払えば毎日シーツを交換できるということもあって、タイガはこの宿が気に入っていた。
簡単に身支度を整えたタイガは、さて今日は何をしようか、と考えを巡らせる。彼が目指す≪聖都≫行きの飛空艇が出るまで後十日弱。手持ちの本は船旅に備えて取っておきたかったため、後は気ままにシルシェイド内を観光するくらいしか、今のタイガには思い付かなかった。
――確か、西側に古書店街があるんだったっけ。晴れの日は蚤の市が出るって聞いたし、折角だからそこまで足を伸ばすかな。
考えをまとめると、タイガは最低限の荷物を肩掛け鞄にまとめて部屋を出る。部屋の鍵はタイガが外に出ると同時に自動で施錠され、次にタイガか宿の関係者がドアノブに触れるまで開くことはない。そうした魔法技術が当たり前に使われているあたりは、安宿と言えども流石に≪交易都市≫の宿であった。
宿は四階建で、上の階に行けば行くほど部屋の等級が上がっていく。タイガが泊まっているのは二階の二等客室であり、二等と三等はルームサービスが使えない。それであったので、タイガは軋む階段を下ると、入口のすぐ脇にある食堂兼酒場に足を向けた。
食堂は朝からムッとした人いきれに満ちていた。宿に泊まっている者だけでなく外部客にも解放しているため、安い料理を求めて人が押しかけるのだ。大小二十近くはあるテーブルはほぼ全て満席で、そこに座る人々もタイガのような旅人から現地人であろう職人の一団、はたまたマントを目深に被った得体の知れない老人まで様々であった。タイガは人並みを縫うようにテーブルの間を進むと、ようやく見つけたカウンターの空き席に体を滑り込ませる。ふぅ、と一息つくと同時、カウンターの向こうからコップが差し出されて「おはようさん」と明るい声がかけられた。
「今日は寝坊か? 朝飯はいらないのかと思ったぞ」
「そんなわけないだろ。俺は朝食は毎日食べる派なの。だからモーニングセット一つ」
「はいよ、ちょっと待ってな」
唇を尖らせたタイガにカラカラと笑いながら、カウンターの向こうにいた男――この宿のオーナーであるロブソンは手際良く朝食を用意し始める。それを何となく眺めて待つタイガに、ロブソンは「しかし、お前も長いよなぁ」と言葉を続けた。
「もう二十日近くはうちにいるのか。行き先は≪聖都≫だったか?」
「そ。ここまでは割と順調だったのに、まさか飛空艇の本数が少ないからって足止めされるとは思わなかったよ。なんだよ、三十日に一本って。少なすぎるだろ」
「それだけあそこに出入りする奴が少ないってことさ。実際、≪聖都≫にわざわざ行くのなんて神官か元々あそこで商売してる奴くらいだ。もしくは≪執行人≫か……と、これはおいそれと口にすることじゃねぇな」
急にガサ入れにでも入られたらたまったもんじゃない。大仰に身を震わせてみせるロブソンに、タイガはそんな阿漕な商売してるのかよ、と笑い飛ばす。こうした気安いやり取りも、ロブソンが言う通りに宿に滞在して二十日も経てば、最早日常に近しかった。生憎と彼の旅の終着点は、このシルシェイドではなくその先にある≪聖都≫――この空の世界の信仰の総本山である≪神殿≫の本部がある都市ではあったが、偶然見つけたのがこの宿で良かった、とタイガは思っていた。
雑談混じりの気の置けない話をしている間にも、ロブソンの手元は軽快に動いて食事をこしらえていく。両面がこんがりと焼けた全粒粉のトースト。ムイメ牛の乳を発酵させた濃厚なバター。同じくムイメ牛の肉を使ったベーコンは厚切りで、鉄板で焼くと香ばしい脂の香りが食堂中に広がる。その香りにつられた数人の追加注文にも同時に応じながら、ロブソンは瑞々しい野菜でサラダも用意した。サラダにかけられているのは秘伝のドレッシングで、これを目当てに食堂に通う者がいる程には酸味と塩加減が絶妙な逸品であった。
見るからに美味しそうな食事を瞬く間に用意したロブソンは、簡素な木のトレイにそれらを配膳するとタイガの前に差し出す。トレイを受け取りながらタイガが食事代をロブソンの手に落とすと、ロブソンは「ごゆっくり」と笑ってホールへと出て行った。タイガの注文に煽られてベーコンや追加の飲み物を注文した連中に食事を出すためだ。大股に歩き去っていく背中をチラリと見送ると、タイガはまずは厚切りのベーコンにフォークを差して齧り付く。肉厚なベーコンは野性味のある旨味を口の中で弾けさせ、思わず顎が痺れる程に美味だった。
――この宿に泊まって良かった理由の二つ目は、間違いなくこの飯だよな。宿泊客は三割引でこの美味い飯が食べられるんだから。まぁその分、夜は皆酒を飲みまくるから治安が悪いけど……
朝と昼であれば、この食堂では美味しい食事が格安でたっぷりと食べられる。その事実は、こうした旅ぐらしにおいては外せない点だった。
昨夜は少ししか食べなかったこともあって空腹だったタイガは、トレイの上の食事を一気に平らげると添えられた水も飲み干して息を吐く。丁度そのタイミングでカウンターに戻ってきたロブソンは、満足気な様子のタイガを見てにんまりと笑った。
「その分なら、どうやら今日もオレはお前の舌を満足させられたらしいな」
「十分すぎるくらいだよ、ご馳走様。持ち帰りで何か包んでくれるか?」
「おぅ、任せろ。……今日はどこに行くつもりなんだ?」
「西の方の地区に古書店街があるって聞いたから、そっちに足を伸ばそうかと」
「いいな。今日は天気もいいから市も出てるだろうし、時間を潰すのにはもってこいだろう。そうしたら乾き物を中心にするか……」
ロブソンは呟きながらあちこちの戸棚を開け始める。テキパキとしたその動きを眺めていたタイガは、ややあってふと脳裏に浮かんだ昨晩の情景に「あぁ、そうだ」と声を零した。
「なぁ、オーナーってシルシェイドに来てから結構長い?」
「ん? そうだな、もう十年くらいにはなると思うが」
「そっか。そうしたらさ、『リノ』って名前、聞いたことある?」
「リノ? ……いいや、すぐには思い浮かばないが」
それが? とロブソンはタイガに視線を寄越しながら首を傾げる。タイガはそれに緩く首を振ると、「何でもないよ。昨日ちょっと聞かれただけ」と苦笑した。
「その人を探してた……人、と昨日すれ違ってさ。もしかしてオーナーなら知ってるかなと思って」
「おいおい、オレはそこまで顔が広いわけじゃないぞ。宿屋なんてやってる以上多少の情報は手に入るが、人を探すならせめて外見の特徴も教えてくれなけりゃぁな」
「そうだよな。悪い、変なこと聞いて」
「構わんさ。ほら、用意できたぞ。パンに腹持ちしそうなハムやら挟んでおいたから、今日中に食ってくれ」
「ありがと」
カウンター越しに差し出された茶色の紙袋を受け取ると、タイガは追加の料金をロブソンの手に落とす。そのまま袋を鞄に突っ込んで立ち上がったタイガに、ロブソンは「さっきの『リノ』って女の話だけどな」と言葉を続けた。
「オレの方でもちょいと聞いておいてやるよ。まぁ望み薄だとは思うがな」
「わざわざいいよ。俺に聞いてきた奴ともまた会えるか分からないし」
「まぁまぁ、こういうのは縁ってもんだろ」
不格好なウインクをすると、それ以上タイガの言葉を待たずにロブソンはカウンターの奥に引っ込んでしまう。タイガは「参ったな」と呟いたが、それでロブソンの気が変わるわけでもなければ、あえて彼をもう一度呼び出して否定する程の話でもない。野次馬根性半分だろうと判断して、タイガは人でごった返す食堂から、すっかりと太陽の昇った大通りに踏み出した。
眩しく晴れた大通りは朝から活気に満ちて賑わい、行き交う人々の間を澄み渡った朝の風が駆け抜けていく。通りを西へと向かって歩きながら、タイガは胸いっぱいに爽やかな風を吸い込んだ。




