瑠璃の蜘蛛 01
ひどく霧の深い夜だった。シルシェイドの街路は乳白色の闇に満たされ、街路沿いにポツポツと灯るキーウン灯の光を霧の中に茫と浮かび上がらせていた。
その晩、タイガ・トウドウは一人であった。元よりこの青年は一人旅の身の上ではあるのだが、彼が今滞在しているのは巨大な交易都市である。表通りの店であればどこに入っても人が溢れていて、見知らぬ他人と相席になるようなこともザラだ。人と話すことが嫌いではないタイガは、旅の無聊を慰めるためにそうした小さな縁を得た人々の中から話し相手を見つけては、夜遅くまで酒を酌み交わすことを日々の楽しみにしていた。ただ今晩は生憎とそうした気の良い人にも巡り会えず、まぁたまにはこんな日もあるかと、彼は特に気にすることなく少しの酒と食事を腹に収めて、宿への道を歩いていたのだった。
シルシェイドは大きな時計塔を中心に円形に形作られた都市である。五階建ての時計塔は都市のシンボルであり、同時に正確にその役割を果たす立派な街の一員でもある。荘厳な鐘楼を持つ塔は、まさにたった今、十二の鐘を鳴らして夜霧を震わせ、掻き回し、乳白色を少しだけ散らして満足気に沈黙した。だが今宵の霧はどうにも頑固であるようで、鐘の残響が消え去らぬうちに元の静けさを取り戻し、いっそ鐘が鳴る前よりも更に重苦しさを増したようにタイガには感じられた。
一件先の店の看板も見えないような濃霧が、タイガの眼前には広がっていた。辛うじてぼんやりと浮かび上がる街灯の灯りを頼りに、己の泊まっている宿を過ぎてしまわないように注意深く歩いていたタイガは、遠くから誰かが近づいてくる足音に気が付くと、一度瞬いてからゆっくりと足を止めた。
足音は重くも軽くもなく、至って自然な足取りでタイガの方に向かってきていた。昼中の晴れた空の下であれば気にも止めないだろうその足音は、しかし深い霧に囲まれた状態ではいささか異質ではあった。伸ばした手の先も霧に飲まれてしまいかねない夜霧の中であれば、人は自然と慎重に歩くものであるのに、そんな気配が微塵も感じられないのだ。霧の向こうの何某が灯りも持たぬタイガに気が付いているのであれば相応に手練であったし、気が付いていないのであれば実に不用心極まりないことだった。──出来れば後者だといいな、とタイガは思う。例えば意識のハッキリした酔っ払いであるだとか、そういう害がない不注意な他人であれば一番良い。次点で己に興味のない手練でも良い。最悪なのは、とタイガはさりげなく羽織の袂に左手を突っ込む。指先に乾いた紙の感触が触れる。ざらついた紙の表面に指をかけながら、彼は一度だけ浅く息を吐く。──最悪なのは、今向かってきている人物が、霧に紛れて己を狙う何者かであることだ。物盗りにしろそれ以上の者にしろ、百害あって一利もない。
警戒しつつ、しかしそれを袂に入れた手以外は表すことなく霧の向こうを見つめていたタイガは、白いカーテンの向こうから現れた人の姿に、思わず軽く目を見開いた。その青年は、タイガが想定していたどの人物像にも当てはまらない、ひどく独特な容姿をしていた。
外見年齢は二十代半ば程だろうか、タイガとあまり変わらない年頃の青年だった。うねるような黒髪は丁寧に撫で付けてオールバックにし、抜けるように白い肌が霧に溶け込むことなく浮いて見える。洒落た紺のスリーピースの一揃えを身に纏い、腕には赤樫のステッキを下げていた。一歩歩くたびに硬い足音を立てているのは、焦茶色のよく磨かれたハイヒールの革靴であった。
そこだけを見れば、お忍びで出歩いている貴族の若者という風情の青年だ。だがタイガの目を惹いたのは彼の顔の中心、まるで何か夢を見るように淡く細められた眼窩の中、宝石を丸ごと収めたかのように煌めく、瞳孔も虹彩も白目すらもない、硬質の青い『瞳』であった。
動けずにいるタイガにゆっくりと歩み寄った青年は、彼から少し距離を置いて立ち止まると、一度姿勢を正して丁寧に一礼する。胸元に添えられた青年の手もまた瞳と同じ硬質の何かであることを、タイガはそこでやっと見て取った。
──明らかに人間ではない、けれど人のように動く何か。自動人形なのか、そういう種族であるのか、それはともかくとして果たして礼を返すべきなのか――悩むタイガを気にした様子もなく、青年は彼を待たずに優雅に頭を上げると、唇を笑みの形に歪めて口を開いた。
「こんばんハ、良イ夜ですネ」
「……こんばんは。そうだな、霧が出てなければ最高なんだけどな」
青年の柔らかなテノールの声は、しかしどこか粘ついた響きを帯びているようにタイガには感じられた。そのことに更に警戒を強めながらも、タイガは平静な声で返して肩を竦めてみせる。青年は彼の言葉にクスクスと笑い声を零すと、「霧ハお嫌イ?」とまるで幼子のように無邪気に小首を傾げた。そうした仕草が妙に似合う男であった。
「夜の霧ハ冷たいけレど、昼ノ熱を冷まシテくれル良イものですヨ。体ヲ湿らせテ、朝にハ美しイ露になるのデス」
「まぁ、涼しくはなるけどさ。でも霧が深いと夜道は危ないし、月も見えないだろう?」
「月なンテ。冷たク照らすばかりデ役にも立たなイではないデスか。そノ点、霧ハ素晴らしイ。こうしテ誰にでも寄り添っテくれル」
タイガの言葉に首を振りながら、青年は彼らの間に蟠る霧を指でかき混ぜるように手を泳がせる。焦点の合わない瞳──そもそも瞳と呼んで良いのか、視力はあるようだが──は街灯の灯りを反射して煌めき、青年の指先もまた同じ輝きを宿してプリズムを散らしていた。それはひどく幻想的な光景であったが、如何せん、眼前の男はあまりにも得体が知れない。さてどうしたものかと考えるタイガに、青年ははたと動きを止めると、徐に彼に向き直った。
「イけなイイけなイ。そうデシた、私ハあなたニ聞きたイことがあったノでした」
「……聞きたいこと? 知り合いでもない俺に?」
「はイ。見知らヌあなた、あなたハ、リノといウ女性ヲ知りませんカ?黒イ髪をした、私ト同じくらイノ年頃ノ女性なのデスが」
「リノ? ……いや、聞かない名前だな」
「……そうデスか……」
首を傾げたタイガの返答に、青年は明らかに気落ちしたようであった。それまでの飄々とした雰囲気をかき消して肩を落とす青年に、タイガは僅かに気まずさを覚える。何か言葉をかけるべきか、と口を開いたタイガに、しかし青年は緩く頭を振ると最初にそうしたように丁寧に頭を下げた。
「ありがトウござイます、親切ナあなた。私ハ彼女ヲ探さなけレばなりまセンので、これデ失礼イたしまス」
「あ、あぁ……悪いな、力になれなくて」
「イエイエ。それでハ、良イ夜ヲ」
青年はにこりと無機質に笑うと、タイガの横をすり抜けて霧の中に消えて行く。その姿が見えなくなる間際、タイガはふと思い立って、青年の背中に声をかけた。
「なぁ! あんたはそのリノって人と、一体どんな関係なんだ?」
タイガの言葉に青年は足を止める。肩越しに振り返った彼は、その異質な瞳を霧の中で鈍く輝かせながら、少しの間を置いて静かに言った。
「……彼女ハ、私ノ恋人なのデス。誰よりモ、誰よりモ大切ナ……」
そう言い終えると、青年はまた前を向いて今度こそ歩き去った。靴音が聞こえなくなるまで彼が消えた方向を見ていたタイガは、やがて周囲が無音に戻ると、ほぅと一つ息を吐き出す。
結果として青年に害意はなく、タイガの警戒は取り越し苦労であった。だが彼の瞳も、その言動も、『ただの人間』というにはあまりに異質に過ぎた。
――さっさと宿に帰って休もう。名前も分からない男のことなんて、深く気にしても仕方ないんだし。
幸いなことに、青年と話している間に少しだけ霧は薄くなったようだった。先に見える宿の油燈へ向けて歩き出したタイガの脳裏には、しかし暫くの間、青年の宝石を嵌めこんだような眼窩の様子が浮かんでいた。




