第40話 森の大輪花
朝の森には、不思議な匂いがあった。
湿った土の匂い。
木々の葉から落ちる朝露の匂い。
それから、どこか甘い花の香り。
王都の公園でも森の匂いを感じることはあるけれど、ここはまるで違う。
目の前には、どこまでも続く深い緑。
その向こうに、商業都市ベルクがある。
「よし、出発するぞ!」
ロイドの声が響いた。
「はーい!」
僕は慌てて荷物をまとめた。
ベルクへ向かう旅の三日目。
今日はいよいよ森を抜ける。
◇
昨夜の野営地を片づけ、僕たちは馬車に乗り込んだ。
焚き火の始末を確認し、荷物を積み直し、馬の様子も確かめる。
バルクが馬の首を撫でた。
「今日も頼むぞ」
馬は短く鼻を鳴らした。
「元気そうだね」
「ああ。昨日はしっかり休ませたからな」
バルクが答える。
ロイドは荷台の木箱を確認していた。
ベルクの商業組合へ届ける、魔道具の精密部品。
三つの木箱は、出発したときと同じようにしっかり固定されている。
「荷物は問題なし。今日は寄り道せずに行くぞ」
「分かってるよ!」
僕が答えると、エナがくすっと笑った。
「昨日も同じこと言ってたわね」
「昨日は大陸亀とスライムがいたから!」
「今日は何がいるかしらね」
「楽しみ!」
「楽しみにするな!」
ロイドが即座に突っ込んだ。
そんなやり取りをしながら、馬車は森へ向かって走り出した。
◇
森の入口に近づくにつれ、街道の景色は変わっていった。
背の低い草原が終わり、左右に大きな木々が増えていく。
幹は太く、枝は高いところで複雑に絡み合っていた。
木漏れ日が地面に落ち、馬車の進む道にまだら模様を作っている。
風が吹くたび、葉がさらさらと揺れた。
「……綺麗だなあ」
僕は荷台から外を眺めた。
「森なんて珍しくないだろ?」
ロイドが言う。
「森は珍しくないけど、ここの森は初めてだから」
「そりゃそうだ」
「ほら、あの木!」
僕は道の脇に立つ大木を指差した。
根元から何本もの太い根が地面に広がり、その上を苔が覆っている。
幹には大きな空洞があった。
「なんか、あそこに誰か住んでそうじゃない?」
「小動物くらいならいるかもな」
エナが答える。
「妖精とか!」
「さあ、それはどうかしら」
「いたら撮影したいなあ」
「まず見つけてから言え」
ロイドが笑った。
僕は《景色記録》を開き、馬車から見える森の風景を記録した。
木漏れ日。
苔むした岩。
細い枝に止まった鳥。
それから、木々の間に漂う薄い朝霧。
どれも綺麗だった。
けれど、僕はまだ知らなかった。
この森には、もっと驚くようなものがあることを。
◇
森の入口から少し進んだところで、風向きが変わった。
「……ん?」
僕は顔を上げた。
甘い匂いがする。
花の香りだ。
それも、かなり強い。
「ねえ、何かいい匂いしない?」
僕が尋ねると、エナが鼻をひくつかせた。
「ああ、花の匂いね」
「近くに花畑でもあるのかな?」
「この辺りなら……」
エナは少し考えてから、道の右側を指差した。
「たぶん、大輪花じゃないかしら」
「大輪花?」
「ええ。森に咲く大きな花よ」
「大きな花?」
「そう。かなり大きいわよ」
僕は身を乗り出した。
「どのくらい!?」
「そうねえ……」
エナが腕を上げた。
「このくらい?」
「……え?」
腕を上げたくらい?
それなら、背の高いひまわりみたいなものだろうか。
そう思っていた僕の目に、木々の間から奇妙な色が飛び込んできた。
赤。
黄色。
それから、淡い紫。
森の緑の中に、明らかに違う色がある。
「……あれ?」
僕は目を凝らした。
そして。
「……えええっ!?」
思わず叫んだ。
木々の間に、巨大な花が咲いていた。
◇
最初に見えたのは、太い茎だった。
僕の腕よりも太い。
その茎が、地面からまっすぐ上へ伸びている。
高さは三メートルほど。
そして、その先に――。
大きな花が咲いていた。
花びらは一枚一枚が大きく、ゆるやかに反り返っている。
中心は黄金色。
外側へ向かって、赤から紫へと色が変わっていた。
朝日を浴びた花びらは、薄いところが透けるように輝いている。
「……すごい」
僕は息を呑んだ。
花だ。
間違いなく花だ。
でも、こんな大きな花は見たことがない。
「ロイド!」
「何だ?」
「あれ! あの花!」
「ああ、大輪花だな」
「大きすぎない!?」
「そういう花だからな」
「そういう花って!」
僕は思わず笑ってしまった。
この世界の人たちは、どうしてこういうものを普通に受け入れられるんだろう。
いや、きっと普通だからなんだろうけど。
「ちょっとだけ見たい!」
僕が言うと、ロイドは露骨に嫌そうな顔をした。
「……またか」
「ちょっとだけ!」
「昨日も聞いたぞ、それ」
「今日は本当にちょっとだけ!」
エナが笑いながら言った。
「道が少し広くなってるところがあるわ。そこで馬車を停めれば?」
「……仕方ないな」
ロイドがため息をついた。
「ただし、長居はしないぞ。今日はベルクまで行くんだからな」
「分かってる!」
僕は元気よく答えた。
……このときは、本当にそう思っていた。
◇
馬車を安全な場所に停め、僕たちは道の脇へ降りた。
大輪花は、街道から少し離れた場所に咲いていた。
森の奥まで入らなくても、その姿を十分に見ることができる。
僕は《景色記録》を開いた。
「……綺麗だなあ」
画面越しに見ても、その大きさは圧倒的だった。
太い茎。
広がった葉。
大きな花びら。
そして、花の中心に集まる黄金色の細かな突起。
まるで、巨大な宝石を森の中に置いたみたいだ。
「これって、何年も咲いてるの?」
「そんなことないわよ」
エナが答えた。
「季節になると咲いて、しばらくしたら花びらが落ちるの」
「へえ……」
「だから、今はちょうど見頃ね」
「そうなんだ!」
僕は花を見上げた。
風が吹く。
巨大な花びらが、ゆっくり揺れた。
その動きは、まるで大きな布が風になびいているようだった。
「ねえ、これって魔物じゃないんだよね?」
「違うわ。普通の植物よ」
「普通……」
僕はもう一度花を見た。
高さ三メートル。
花びらは人間の胴体ほどもある。
それが普通の植物。
……やっぱり異世界ってすごい。
僕は《動景記録》を開き、花びらが揺れる様子を撮影し始めた。
すると。
ふわり。
何かが、視界を横切った。
「……ん?」
青いものが飛んでいる。
鳥だろうか。
いや、違う。
羽ばたき方が、もっとゆっくりしている。
僕は目で追った。
そして、その正体に気づいた。
「……蝶!?」
◇
大輪花の上を、一匹の蝶が飛んでいた。
翼を広げると、一メートル近くあるだろうか。
巨大な蝶だった。
羽は鮮やかな青色。
縁には黄色い模様が走り、光の角度によって色が変わって見える。
ひらり。
ひらり。
大きな翼がゆっくり上下する。
そのたび、木漏れ日が羽の表面を滑っていった。
「……うわあ」
僕は思わず声を漏らした。
「エナ! あれ!」
「ああ、大輪蝶ね」
「大輪蝶!?」
「大輪花の蜜を吸いに来る蝶よ」
「そんなのいるの!?」
「いるわよ。ほら、今ちょうど花に止まるところ」
僕は慌てて画面を向けた。
巨大な蝶が、花の上を一度旋回する。
それから、ゆっくりと花びらに降り立った。
青い翼が閉じる。
細い脚が、花の表面を掴んだ。
そして、頭の先から細長い口が伸びた。
「……あっ」
蝶が、花の蜜を吸い始めた。
長い口が、くるくると伸びて花の中心へ入っていく。
「すごい……」
僕は夢中で撮影した。
巨大な花。
巨大な蝶。
その二つが、まるで最初から一緒にいることを約束していたみたいに、ぴったりと収まっている。
青い羽と、赤紫の花びら。
黄金色の花の中心。
森の緑。
どこを切り取っても、一枚の絵になりそうだった。
「……綺麗だなあ」
僕は小さくつぶやいた。
隣にいたエナも、静かにうなずいた。
「そうね。私も、こんなに近くで見るのは久しぶり」
「エナも綺麗だと思う?」
「もちろんよ」
エナは笑った。
「見慣れてるからって、綺麗じゃなくなるわけじゃないもの」
僕はその言葉に、少し嬉しくなった。
そうだ。
この世界の人たちだって、綺麗なものを綺麗だと思う。
ただ、僕ほど大騒ぎしないだけなんだ。
◇
蝶はしばらく蜜を吸っていた。
僕は画面を固定し、少し離れた場所からその様子を眺めた。
風が吹く。
花が揺れる。
蝶の翼が、ゆっくり開いた。
青い羽が朝日を受けて輝く。
「……うわあ」
何度見ても、声が出てしまう。
すると。
もう一匹、蝶が飛んできた。
「……えっ!?」
今度は黄色い蝶だった。
翼の縁には黒い模様があり、青い蝶より少し小さい。
それでも、普通の蝶とは比べものにならない大きさだ。
「二匹目!」
僕は思わず叫んだ。
黄色い蝶は花の周囲を飛び、青い蝶の反対側に止まった。
二匹の巨大な蝶が、一輪の花で蜜を吸っている。
「……すごい」
僕は画面を確認した。
ちゃんと二匹とも映っている。
花の大きさも分かる。
色も綺麗だ。
これなら、見た人にも感動が伝わるかもしれない。
「ユウト」
ロイドの声がした。
「ん?」
「そろそろ行くぞ」
「うん! あとちょっと!」
僕は画面を見つめた。
黄色い蝶が羽を開く。
青い蝶が少し動く。
花びらが揺れる。
……ああ、いいなあ。
「ユウト」
「もう少し!」
「ユウト!」
「今、いいところだから!」
「もう行くぞ!!」
「うわっ!?」
僕はびくっと肩を跳ねさせた。
振り返ると、ロイドが腕を組んで立っている。
「お前の『ちょっと』は、どれだけ長いんだ!」
「だって、蝶が二匹になったんだよ!」
「見れば分かる!」
「しかも青と黄色で!」
「それも見れば分かる!」
「綺麗なんだよ!」
「俺だって綺麗だと思ってるよ!」
……あ。
僕は少し驚いた。
「ロイドも?」
「当たり前だろ」
ロイドはため息をついた。
「綺麗なものを見て、綺麗だと思うくらいはするさ」
「……そっか」
「ただな」
ロイドが僕の肩を掴んだ。
「荷物を届ける仕事が先だ!」
「……はい!」
エナが笑いをこらえている。
バルクは馬車のそばで、静かに首を振っていた。
「ユウト、そろそろ本当に出発しないとな」
「分かってる!」
僕は固定していた画面を戻し、撮影を終えた。
最後にもう一度、大輪花を見上げる。
青と黄色の蝶が、花びらの上で羽を休めていた。
「……また見たいな」
僕は小さくつぶやいた。
そのとき、エナが隣で言った。
「帰り道に寄れたら、また見ればいいじゃない」
「……あっ!」
そうだ。
帰りも、この森を通る。
「そうだね!」
「そのときまで咲いてるかは分からないけどね」
「うん。でも、また違う景色が見られるかもしれないし!」
エナが笑った。
「そうね」
僕は馬車へ戻った。
今度こそ、ベルクへ向かって出発だ。
◇
森の中へ入ると、街道は少し狭くなった。
左右の木々が高くなり、枝が道の上で重なっている。
日差しは弱まり、空気がひんやりしてきた。
馬車の車輪が、小石を踏んで音を立てる。
僕は荷台に座り、先ほどの《動景記録》を確認していた。
巨大な花。
青い蝶。
黄色い蝶。
風に揺れる花びら。
どれも綺麗に撮れている。
「……よし」
僕は《掲示板》を開いた。
【森で見つけた巨大な花と蝶!】
説明文には、大輪花と大輪蝶の名前を書いた。
そして、撮影した《動景記録》を添える。
投稿完了。
しばらくすると、コメントが届き始めた。
【うわあ、綺麗!】
【大輪花だ! もう咲いてるんだね】
【こんなに大きな蝶がいるの!?】
【青い羽がすごい】
【黄色い蝶も綺麗だなあ】
【これ、どこの森?】
僕は少し考えた。
今は配達の途中だ。
詳しい場所を知らせる必要はない。
【ベルクへ向かう街道の途中です! 安全な場所から撮影しました】
そう返信した。
さらにコメントが増える。
【子供の頃に見たことがある!】
【大輪蝶って、こんなにゆっくり羽ばたくんだ】
【花の蜜を吸ってるところ、初めて見た】
【これ、ずっと見ていられる】
僕は思わず笑顔になった。
やっぱり、撮影してよかった。
そのとき。
【昨日の野営のユウトさんだ!】
というコメントが届いた。
「……あっ」
そういえば、昨日の投稿で僕の顔が知られるようになったんだった。
さらに、
【旅、楽しそうですね!】
【ベルクまで気をつけて!】
【次の記録も楽しみにしています!】
そんな言葉が並ぶ。
僕は少し照れくさくなった。
「……なんか、嬉しいな」
「何が?」
エナが尋ねる。
「昨日の野営の記録を見てくれた人が、今日の花も見てくれてるんだ」
「へえ」
「次も楽しみにしてるって!」
エナが笑った。
「よかったじゃない」
「うん!」
僕は画面を閉じた。
そして、森の景色へ目を向けた。
撮影するのも楽しい。
でも、こうして実際に自分の目で見るのも、やっぱりいい。
◇
昼を過ぎるころ、森はさらに深くなっていた。
街道は曲がりくねり、ところどころに大きな木の根が張り出している。
馬車は速度を落としながら進んだ。
「……思ったより時間がかかるな」
ロイドがつぶやいた。
僕は顔を上げた。
「そうなの?」
「ああ。昨日の雨で道が悪いところもあるしな」
バルクが荷台の木箱を確かめる。
「荷物は問題ない。ただ、あまり揺らしたくはないな」
「そうだな」
ロイドがうなずいた。
「ベルクの商業組合が閉まる前には着きたい」
「……間に合う?」
「今のところはな」
僕は少しだけ申し訳なくなった。
大輪花の撮影で、ずいぶん時間を使ってしまったからだ。
「……ごめんね」
僕が言うと、ロイドが振り返った。
「何が?」
「花の撮影で、時間を使っちゃったから」
ロイドは少し驚いた顔をした。
それから、笑った。
「まあ、確かに使ったな」
「うん……」
「でも、昨日の雨もあったし、森の道も思ったより悪い。全部お前のせいじゃないさ」
「……そう?」
「ああ。ただし」
ロイドがにやりと笑う。
「次に何か見つけても、今日は止まらんぞ」
「……はい!」
エナが笑った。
「ベルクに着いたら、好きなだけ撮影すればいいわ」
「そうだね!」
僕はうなずいた。
そうだ。
今は配達の仕事中。
景色を楽しむのも大切だけど、依頼をきちんと終わらせることが先だ。
僕は《景色記録》の画面を閉じた。
……少なくとも、ベルクに着くまでは。
◇
それからしばらく、僕たちは静かに森を進んだ。
鳥の声。
木々のざわめき。
馬車の車輪が土を踏む音。
僕は周囲を見回しながら、ふと気づいた。
森の中が、少し静かになっている。
さっきまで聞こえていた鳥の声が減っていた。
「……ん?」
僕は顔を上げた。
エナも同じことに気づいたらしい。
弓を手に取り、木々の間へ目を向ける。
「ロイド」
「ああ」
ロイドが手綱を握り直した。
バルクは盾を手元へ引き寄せる。
僕も姿勢を正した。
さっきまでの、のんびりした空気が変わっていた。
木々の奥。
何かが動いた。
がさっ。
低い茂みが揺れる。
続いて、重たい足音が聞こえた。
どすん。
どすん。
ロイドが静かに言った。
「……何かいるな」
僕は息を呑んだ。
茂みの向こうで、灰色の大きな影が動いた。
岩のような背中。
太い脚。
そして、鋭く突き出した二本の牙。
エナが低い声でつぶやく。
「……岩皮猪」
ロイドが剣を抜いた。
「ユウト、馬車から離れるな」
「……うん!」
僕はうなずいた。
森の中から、低いうなり声が響く。
巨大な影が、ゆっくりこちらを向いた。
僕たちの旅は、思いがけない戦闘を迎えようとしていた。
第40話 完




