第3話
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前書き
――後ろの、なんとか
この物語は、
前から来る恐怖については書いていません。
理由は簡単です。
前を見ているうちは、
まだ自分で選べるから。
本当に危ないのは、
振り向けないものです。
「だるまさんが転んだ」
その言葉を聞いたとき、
あなたが立ち止まったのは、
ルールを知っていたからではありません。
後ろに、
何かがいる気がしたからです。
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第3話
動いた音
その日は、朝から雨だった。
傘を差す人間が、ひどく少なかった。
正確に言えば、差せなかったのだ。
腕を上げるという動作が、もう危険だと、誰もが知り始めていた。
駅前の広場に、人が集まっていた。
集まっているが、誰も歩いていない。
等間隔で、像のように立ち尽くしている。
救急車が一台、止まっていた。
サイレンは鳴っていない。
音を出すことが、正しいのかどうか、誰にもわからなかったからだ。
担架の上には、毛布に包まれた誰かがいる。
だが、運ぶ人間が動けない。
「……誰も、動いてません」
誰かが、そう言った。
声は震えていたが、体は動いていない。
俺は、その場の空気が張りつめていくのを感じた。
嫌な予感が、背骨をなぞる。
そのときだった。
――カツン。
音がした。
足音だ。
はっきりと、ひとつだけ。
全員が、同時に理解した。
誰も、動いていない。
じゃあ、今の音は何だ。
次の瞬間、広場の中央が消えた。
爆発ではない。
衝撃も、閃光もない。
音があった場所だけが、ぽっかりと抜け落ちる。
救急車の前輪が、宙に浮いたまま止まった。
毛布が、地面に落ちる。
中身は、なかった。
誰かが泣き声を漏らした。
それすら、動きに含まれるのかどうか、もう考えられなかった。
俺は、気づいてしまった。
これまで消えたのは、
「動いた人間」だと、
勝手に信じていただけだ。
でも今、
動いていない場所が、消えた。
じゃあ、見られているのは何だ。
体じゃない。
位置でもない。
速度でもない。
――音だ。
いや、違う。
音を出そうとした意思だ。
誰かが、踏み出そうとした。
助けようとした。
確認しようとした。
その“気配”だけが、拾われた。
雨が、強くなっていた。
だが、地面に落ちる音が、やけに遠く感じる。
頭の奥で、あの声がする。
だるまさんが転んだ。
それはもう、
誰かが言っている声じゃない。
この場にいる全員が、
同時に思い出している言葉だった。
助けて、と叫びたい衝動が喉まで上がってきて、
俺は、それを噛み殺した。
――誰が助けて。
そう考えた瞬間、
足元の空気が、わずかに揺れた気がした。
俺は、思考を止めた。
止まらなければ、
次は、
俺の番だ。
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後書き
――後ろに、いたもの
読み終えた今、
後ろが少し気になるなら、
それで正常です。
この物語に出てくる“それ”は、
姿を持ちません。
名前もありません。
説明も、ありません。
ただ、
近づいたときだけ、
気配になります。
誰かを助けようとしたとき。
確かめようとしたとき。
振り向こうとした、その瞬間に。
「だるまさんが転んだ」
もし今、
あなたの背後が静かなままなら。
それは、
まだ見られていないだけです。
――振り向かなかった、
その判断だけが、
今のところの正解です。




