29、宴の後
焚き火はもう消えていた。
灰の奥で、かすかにくすぶる橙色が、まるで死にかけた心臓の鼓動のように見える。
深夜のジフ川川岸、政府軍陣地。
昼間の地獄は、川風くらいでは流れきらなかった。血と油と煙の匂いが、まだ陣地のそこかしこにこびりついている。
皆、寝ていた。飲み潰れた者に、笑い疲れた者に、話し疲れた者。
そんな中で、ただ一人だけ起きている者がいた。
スカイ・キャリアベース。
彼はテントの奥でランタンをひとつ灯し、机一面に紙束を広げていた。
その顔は、大隊長のものではなかった。
少年のものでもない。
怨霊に近かった。
ランタンの明かりに浮かぶ青い瞳は、目の前の紙を見ているようで、どこか別の地獄を覗き込んでいる。
「……アメリカの内情はグズグズだ」
独り言のように呟く。
「世界の警察を気取り、正義を叫ぶが……国内は火薬庫だらけ。格差、人種、宗教……火種なんて、掃いて捨てるほどある」
書類の一枚を指でなぞる。
「例えば……宗教」
乾いた声だった。
「特定の少数宗派はカルトで、大規模なテロを企んでいる……なんてデマを流せば、後は勝手に燃える。民衆同士でな」
ページをめくる。
「一年……いや、半年もあれば、あの国だって戦場に出来る」
そこで、わずかに口元が歪んだ。
「その両方に武器を流せばいい。政界も宗教界も経済界も大混乱になれば、ブラックバニアの軍事企業が多少『おいた』をしても、咎める余裕なんてなくなる」
笑った。
それは、笑い声というにはあまりにも乾いていた。
「俺たちだけが地獄を見るのは……不公平だよな……?」
その時だった。
「……スカイ? 起きてる?」
天幕が揺れた。
レベッカ・シューティングスターが顔をのぞかせる。
スカイは、まるで水の底から浮かび上がるように、ゆっくりと顔を上げた。
レベッカは息を呑んだ。
(……誰?)
一瞬、本気でそう思った。
顔はスカイだ。声もスカイだ。
けれど、その目だけが違う。
ブラッディ・ダラの時より、朝の惨状を見た時より、もっと深い場所へ沈んでいる。
「……それ、なに?」
「作戦計画書」
スカイは軽く答えた。
「いや……ちょっとした思考実験かな」
紙束の端に、題名が見えた。
【アポカリプス計画】
アメリカ方面作戦案
第1草案
「…………」
レベッカの胸が冷えた。
昼間から感じていた嫌な予感が、輪郭を持って目の前に現れた気がした。
(スカイ……本気で、世界に復讐しようとしてるの?)
止めなきゃ。そう思った。紙に何が書かれているかは分からない。だが、これはしちゃいけない、そんな風に思った。
その時。天幕が二度目に揺れた。
「……お父さん……?」
細い声。
ナナ・デルタダートだった。
髪はほどけ、頬は赤い。目には涙が溜まっていた。まるで悪夢から逃げてきた子供のようだった。
「また……あの日の夢を見て……」
声が震える。実際に悪夢から逃れてきたのだ。
「父と許婚が吊るされてる夢……」
そこで、ナナはレベッカの姿に気づいた。
「し、師匠……?」
少し驚いた後、申し訳なさそうに目を伏せる。
レベッカは何も言わなかった。ただ、スカイを見た。
ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけ。
スカイの顔から、あの恐ろしい冷たさが消えた。
「ナナ」
声に温度が戻っている。
復讐と憎悪に沈んでいた少年が、ほんのわずかにこちら側へ戻ってくる。
レベッカの胸の奥が、きゅっと締まった。
(……ナナが、スカイを戻してる)
それは喜ぶべきことだった。
ナナは弟子だ。大切な仲間だ。
スカイが壊れずに済むなら、それでいい。
そう思う。思うのに。
(……じゃあ、私は?)
嫌な考えが浮かぶ。
(もしナナがいれば、スカイは大丈夫だったら?)
(もし他のみんながいれば、スカイは私がいなくても……)
そこまで考えた瞬間、背筋が冷えた。
(嫌だ)
レベッカは自分でも驚くほど強く、そう思った。
スカイが他の誰かを必要とすることは、嫌ではない。
昔からそうだった。
マーガレットがいた。
仲間がいた。
今では、大隊のみんながいる。
スカイの周りに自分以外の誰かがいることなど、ずっと当たり前だった。
(でも、私がいなくても平気になるのは嫌だ。それだけは)
(私なしで、スカイが完成するのは嫌だ)
胸の奥に、どす黒い感情がゆっくりと広がっていく。
けれど。
ナナを憎むことも出来なかった。
泣いている。怯えている。スカイを父のように頼っている。
その姿を見ていると、突き放すことなど出来なかった。
(ナナも大事)
(スカイも大事)
(だったら……)
レベッカは、ゆっくり息を吐いた。
自分でもおかしいと思う。
けれど、今の彼女には、それ以外の答えが思いつかなかった。
(全部、一緒にいればいい)
誰かを外へ追い出すのではなく。
全部を、自分たちの内側へ抱え込めばいい。
ナナも。
スカイも。
自分も。
ひとつの場所にいればいい。
「……ナナ」
「は、はい……」
「今日は、ここにいよう」
ナナが目を丸くする。
「え……」
「一人で寝なくていいよ」
それから、レベッカはスカイの手を取った。
「スカイも」
「……レベッカ?」
「一人で全部考えないで」
スカイは何も言わなかった。
レベッカは、その手を離さなかった。
(止められるかなんて、分からない)
(この人を正しい場所へ戻せるかも分からない)
(でも)
そこで、ふと気づく。
自分はスカイを「正しい場所」へ戻したいのだろうか。
違う。たぶん。
自分が望んでいるのは、そんな綺麗なものではない。
(スカイが地獄に行くなら)
手に、さらに力を込めた。
(私も行く)
(だって、スカイだけが私から離れていくなんて、おかしい)
それが、レベッカの中ではあまりにも自然だった。
(私たちは、ずっと一緒だった)
(これからも、そう)
(この人が壊れるなら、壊れるところまで一緒にいる)
(ナナが必要なら、ナナも一緒に連れていけばいい)
正気を繋ぎ止める。そんな綺麗な言葉ではない。
ただ離したくなかった。彼を自分から。
レベッカは笑った。少しだけ、痛そうな笑顔だった。
「ねえ、スカイ」
「……何?」
「私を置いていかないでね」
スカイの瞳が、わずかに揺れた。
ナナは意味が分からないという顔をしていた。
レベッカ自身も、それをうまく説明出来なかった。ただ。それだけは絶対に嫌だった。
血の匂いが、橋の方から風に乗って流れてくる。
夜の川。
油。
煙。
血。
その全部が混ざり合った世界の中で。
三人は、同じ天幕の中にいた。
宴の後。
地獄の前。
そして。
まだ誰も、自分たちがどこまで壊れているのかを知らなかった。
「……じゃあ」
自分でも驚くほど穏やかな声が喉から出た。
「……三人で、しよっか?」
ナナが驚いて目を丸くした。
「最初は私。…………ごめんね、ナナ。この人の『正室』は、私だから…………私の半身だから」
スカイが少しだけ息を飲んだ。レベッカは静かにスカイの手を取る。
(……これは逃避でしかない。でも、この全てが狂った中じゃ、もう他に何も出来ない)
(この人の隣にいられるなら……地獄でもいい)
三人はそこで、闇の中に沈んでいった。




