46 いざというときのために
「キャロライナさんと、ニコラスさん……!?」
部屋に飛び込んだチェリーの眼前に突きつけられた光景は、床に寝そべるニコラスと折り重なるようにして上に乗ったキャロライナ。
チェリーと目が合ったニコラスは、言い訳を放棄した様子でにこにこと笑っていた。
えっとね、あのね、とキャロライナは何かを言いかけていたが、びっくりしすぎて全身から血の気がひいたチェリーの耳には届かない。
「離れてください! いますぐ!」
ニコラスは楽しげな笑顔のまま「立てない」と言う。慌てたのはキャロライナで、ニコラスの体の上から下りながら焦ったような早口でまくしたてていた。
「ごめんなさい、思いっきり乗ってしまいました! どこかを打ったりしたのでは」
「大丈夫だよ。足のヒビは広がったかもしれないけど」
ああ、と呻くキャロライナを後ろにかばいながらチェリーが前に出る。
「どうしてこうなってしまったんですか? キャロライナさんも……!」
そこでチェリーは、ぐっと言葉を呑み込んだ。
(ニコラスさんはずっとピアノを弾いていたし、足を怪我している。キャロライナさんが自分からこの部屋に来たってことなら、ニコラスさんだけを悪者にはできない!)
ぎょっとする状況ではあったが、一方的な非難はいけないと理性で踏みとどまる。大きく呼吸をして、申し訳なさそうな顔をしているキャロライナに向き直った。
「ピアノの音に誘われたんですか?」
「ええ、ええ、そうなの。ニコラスさんにリクエストで曲を弾いてもらって、すごく素敵で楽しくて。それでつい『ダンスも習いたい』なんて私がわがままを言ってしまって、ニコラスさんを転ばせてしまったの。私がいけないのよ」
だからニコラスのことは責めないでほしいとばかりに、祈るように胸の前で手を組み合わせて拝み倒される。
(「それだけでどうしてこんなことに!?」って言いたいけど、それを言っても誰も幸せにはならない……!)
キャロライナが嘘を言ったり、悪事をごまかしたりする性格ではないことをチェリーは知っている。ここは、疑うよりも信じる場面だ。
ただし、キャロライナらしからぬ危険で無謀なことをした件については、年長者として注意をする必要性を感じていた。
それもこれも、まずは倒れているニコラスを介抱してからである。
「怪我をしているのに、無理をなさったみたいで。何があったかについては、またあとでニコラスさんからも詳しくお話を聞かせてください」
助け起こそうとチェリーが手を差し出すと、その横からキャロライナがニコラスへと手を伸ばした。
「何があったかも何も、いま言った以上のことはないわ。ニコラスさんがけが人だってわかっていたのに、私がいろんなお願い事をしてしまったのよ。ニコラスさん、本当にごめんなさい。お兄様がいたら診てもらえるんですけど、今日はお出かけになってまだ帰ってきていないので」
不在を隠そうとしていたバーナードの目論見も台無しである。「あっ」と固まるチェリーに対し、キャロライナはさらに必死の形相で言い募ってきた。
「ニコラスさんは何も悪くないの。すごく優しいです!」
「優しいとしても……」
不適切な距離や接触は見過ごせません! と喉元まで出かかっている。ニコラスもチェリーの危惧には気づいているのだろう。顔をしかめつつも自分で床に手をついて上半身を起こすと、まるで詩を諳んじるかのように言った。
「倒れた味方に差し伸べる手で、向かってきた敵には容赦なく刃物を振りかざす。僕の手はどちらもできる。さてこの手は優しいのか、それとも凶悪なのか」
ぐっと、みぞおちに負荷のかかる話し方をされてチェリーは表情をこわばらせる。銃後で戦場そのものを経験していないチェリーとしては、かける言葉が思いつかなくなるのだ。
その緊張した空気を打ち破るように、キャロライナが笑顔で言った。
「ニコラスさんの手はピアノも弾けるので、とても器用な手でもありますね!」
一拍置いて、おもしろそうに目を輝かせたニコラスが明るい笑い声を弾けさせた。
(……たぶんニコラスさんは「器用さ」の話はしていなくて)
毒気の抜かれた思いで、チェリーはキャロライナの横顔を見つめる。
問いかけに対する答えとしては噛み合っていないが、それでもニコラスが求めていた回答としてはキャロライナの言い分が案外正しいのかもしれない。
ひとしきり笑ってから、ニコラスは「それにしても足が痛い」と呟き、さらにはお腹の上に手を置く。
「しかも空腹だ」
「それはそうだと思います。ニコラスさんは、ずーっと休みなしでピアノを弾いていましたから。もし良ければみんなでお茶にしませんか」
「お呼ばれしていいのかな?」
試すような口調で確認されて、チェリーはお腹に力を入れて答えた。
「お招きしています。ご遠慮なく、たーんと食べてください。早く怪我を治していただかなければ」
いかにも何か言い返してきそうな顔をしていたニコラスであったが、チェリーの隣に立つキャロライナがはらはらしているのに気づいたらしく、にこりと笑った。
「怪我が治らないうちは滞在していいって言われているから、長引いたら長引いたでゆっくり音楽を教えてあげられるよって言いたかったけど……。『王子様と踊りたい』お嬢さんに、ダンスを教える約束もしてしまったから、やっぱり足は早く治さないとね」
「あ、あれはその……約束なんてそんな……忘れてください」
いまにも顔から火を吹きそうなほど、キャロライナは耳まで真っ赤になる。
(そっか。キャロライナさんの夢だもんね。お城の舞踏会に招かれて、王子様と踊ることは)
チェリーはダンスを教えることができないし、バーナードがたしなみとして身につけているかどうかも実はハッキリと知らない。
もしニコラスが教えてくれるなら、ずっと社交と縁遠かったキャロライナにとってどれほどの希望となることか。
「いざ王子様に誘われたときに、踊れないわけにはいかないものね。ほら、物語では素敵な王子様が『僕がリードするよ』なんて言ってくれるけど、現実的に考えればそんな即興でうまくいくわけないわ。後悔しないように、きちんと習っておくのは大切だと思うわ!」
キャロライナには踊りたい相手がいることを、チェリーは知っている。そのひとに「上手いね」とたった一言褒めてもらうために、キャロライナはどんな練習だって乗り越えられるのだ。きっと。
「チェリーさんまで。私もう、そんなに子どもじゃないつもりよ」
「そうよね、私もそのつもりで真面目に言ってるわ。この国の王子様といえばヒューゴー殿下でしょ。だけど、公爵閣下とだって可能性はあるわけだから」
「もう!」
それ以上はだめ、と目で訴えかけられてチェリーは口を閉ざす。
ふと、何気なくニコラスへと顔を向けた。考えるような顔をしていたニコラスであるが、チェリーと視線がぶつかると小首を傾げるようにして見つめてくる。瞳が、物言いたげだ。
「何かありましたか?」
チェリーから促すと、ニコラスは頷いてから口を開いた。
「楽器もダンスも、ここぞという場面で披露するためには普段からの練習が大切なんだよなって。どんな天才であっても、人前でぶっつけ本番で披露するようなものじゃない。たとえそれが成功したとしても、奇跡は何度も起きない。だからこそ、良い師がついて才能を伸ばすための練習は絶対に必要なんだ」
茶化すわけでもなければ、鬼気迫る不穏さもなくニコラスは誠実そうな雰囲気で言う。
(よほどキャロライナさんの境遇に思うところがあったのかしら? たしかに、良い先生がつけば、これまでにない才能が開花することもありそうよね!)
この出会いがキャロライナにとって良く働くことがあれば幸いだ。
チェリーはそう結論づけたが、ニコラスはさらに「だからね」とさりげない口ぶりで続けた。
「チェリーさんはどうするのかなっていうのが、僕の最大の関心事なんだ。練習すれば、いまよりもずっと喉が開いてのびやかに歌えるようになる。練習は自分にこそ必要だと考えないのかな。君は『歌姫』だよね?」
* * *
「アストン子爵。お待ちしておりました」
思った以上に熱の入った話し合いになり、すっかり遅くなってしまったとバーナードが旧王宮の廊下で足を急がせて玄関ホールへと踏み入れたとき、不意に名を呼ばれた。
高くも低くもなく、固く聞きやすい声である。
バーナードは反射的に振り返り、視線をめぐらせて声の主を探した。
「私が声をかけました」
数人の紳士たちが通り過ぎるのを待って、近づいてくる人物がいた。背筋がすっと伸びていて、身のこなしには無駄がない。バーナードは目を細めて相手の顔を見た。知り合いではないとすぐにわかった。
ほっそりとして華奢な肩をしており、顎が細く顔立ちは繊細に整っていて大変な美人である。束ねたプラチナブロンドや水色の瞳と瑞々しい唇の印象から「女性的」であるように見えた。
しかし身に着けていたのは女性用のドレスではなく、あきらかに紳士向けとして仕立てられたであろうスーツである。発声の仕方からも、意識して男性として振る舞っているらしいと知れた。その理由まではわからない。
相手はぴんときていないバーナードの反応を見越していたように、尋ねられるのを待つことなくさっさと名乗ってきた。
「シャーリー・カミングスと申します。アーシュラ公爵閣下から、アストン子爵をここで捕まえるようにと言われて待っていたんです」
「ああ、そういうことですか。バーナード・アストンです。ずいぶんお待たせしたんじゃないだろうか。ひとには言伝を頼めない用事でも?」
いつから待っていたのだろうと申し訳ない気持ちになり、バーナードは挨拶もそこそこに先を促した。用事があるなら聞くだけ聞いて解放しなければと思ったのだ。
シャーリーは生真面目そうな顔で「歩きながらでも」と言ってくる。
「あなたの帰り道がこちらで良いのなら、道が分かれるところまで」
どこかの部屋で話すような内容ではないと知って、バーナードはほっとしながら歩き出す。その横にぴたりとついて肩を並べながら、シャーリーは明瞭な声で切り出してきた。
「このままお屋敷までお供させてください。それが公爵閣下の、つまりコンラッドからのお願いなんです」
「えっ。うちに?」
予想外の話に面食らって聞き返すと、シャーリーはなんでもないことのように頷いた。
「コンラッドとは長い付き合いなんです。今日、ひとの顔を見るなり『適任の仕事があるから頼めるか。暇だろう』なんて気安く言ってきたんですよ。私を顎で使うだなんて、かつての彼の立場を思えばとんでもないことなんですけど、まあ今となっては公爵閣下ですからね。あのコンラッドが」
口調は淡々としていたものの、コンラッドへの愛着めいた親しさをそこに感じてバーナードは思わず口元をほころばせる。友達の友達は友達などと言うつもりはないが、単純に「公爵閣下」になる前のコンラッドの知り合いを紹介されたことが純粋に嬉しい。
「仕事内容はなんだと言っていました?」
「私の得意なことだと聞いています。要人警護」
バーナードからするとある程度予想できた答えであったので、そのことに対して特段の驚きはなかった。
「軍隊で訓練したか、それに近い経験がある方のように見えました。すみません、俺がコンラッドに余計なことを言ったばかりに、心配をかけたのかも」
時間が押している中、別れ際に少しだけした打ち明け話をコンラッドは真摯に受け止めていたらしい。
(まさかこれほど早く手を打ってくれるとは……)
旧友を紹介してくれたのはありがたく感じつつも、バーナードは申し訳なさのあまりに断り文句を考え始めていた。しかしシャーリーはそれすらも見越していたかのように言ってきた。
「私のことでしたらたいそう暇でしたので、気にしないでください。料理の美味しい家で仕事があるから羽根を伸ばして来いなんて言われました。牛一頭連れて行ったら、奥様は美味しい料理にしてくれますか?」
「……鶏なら捕まえてくるところから美味しい料理にするまでの腕があるのは知っているけど、生きている牛はどうかな……」
それはチェリーにとって喜びなのかそれとも荷が重く負担なのか。真剣に検討を始めたバーナードであるが、ふっと一瞬隙間風が胸に吹き込んできたかのような物寂しさを感じて足を止めた。
(暇……? コンラッドの知り合いで……女性ということは、おそらく女性の要人警護を専属にしていたんじゃないだろうか)
バーナードの正面に立ったシャーリーは、大きな瞳でバーナードを見上げて唇に笑みを浮かべた。
「私の以前の主がコンラッドと懇意にしておりまして。二人きりで会わせるわけにもいきませんので、私がお側についている……という形で逢引のお手伝いをね、していたんです。でももうそういった必要もなくなりました。コンラッドと会ったのは久しぶりです。もう少し落ち込んでいるかと思いましたが案外元気でしたね」
その目はバーナードを見ているようで見ていない。再会した「旧友」のいまの姿を思い出して喜んでいるようでもある。
シャーリーは、コンラッドの大切な相手の護衛をしていたのだろう。そのひとがいなくなったことで「暇」をしていて、コンラッドから「仕事」を言いつけられたのだ。
バーナードの気の所為でなければ、シャーリーは彼に振られたアストン家での仕事を楽しみにしている様子である。
状況を把握したところで、バーナードは「助かります」と答えた。
「それでは後日あらためて、家の場所をお知らせします」
「いえ、今日から大丈夫です。私は訓練していますので、どこでも寝られますし自分の服を自分で洗うこともできますから、荷物も必要ありません」
あっさりと言ってから、シャーリーは肩で風を切るように歩き出す。立ち止まったままのバーナードを振り返ると「早く!」と楽しげに笑いながら言ってきた。
※作中時間を進めるのが苦手な作者、45,000字以上一日の出来事を書いていることに唐突に気づくの巻。ゆっくり展開お付き合い誠にありがとうございます!!そろそろ時間を進めます!!!
※コンラッドの「恋人」に関して、WEB版では明示しない書き方をしていたかと思いますが、書籍版のほうで誰か特定できそうな書き方に変えています。そのため作者としてもすでに知っている読者さんがいる前提で書いている部分がありますが、WEB作品上では今後の展開で補うように努めます。
★伊南ミナト先生:コミカライズ(土曜日11時更新)
カドコミ
https://comic-walker.com/detail/KC_008519_S
ニコニコ
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