43 Little Red Riding Hood
「『声』を聞けば、君が『誰』か僕にはわかるんだよ。秘密になんかできるはずがない。この屋敷のどこに誰がいるのかもわかる。音楽家の耳を甘く見ないで欲しいんだよな」
ピアノ室の窓の外、しゃがみこんで壁に背を押し付けて室内の物音に耳を澄ませていたキャロライナは、悲鳴が出ないように自分の手で口元を覆っていた。
(ニコラスさんは、私がここにいることに気づいているみたい!)
知らないひとが屋敷に滞在するようなことは今までなかったせいか、ヘンリエットやバーナードがぴりぴりしているのは感じていた。
おそらく、ニコラスにはあまり近づいてはいけない。
わかっていたが、キャロライナは好奇心に負けて部屋を出て、屋敷の外からピアノ室まで近づいたのだ。どうしても、すぐ近くでピアノを聞いていたくて。
チェリーとニコラスが不穏な会話を始めたとき、立ち聞きするつもりはなかったものの、気配を殺して立ち去ることができずそのまま聞くことになってしまった。あまり良い雰囲気ではないと感じていたので、もしものときにチェリーを助けなければいけないと考えたこともある。
二人の会話が友好的ではないまま終わったとき、キャロライナもこの場を離れるべきだと思った。
けれど、しびれたような足がうまく動かなかった。
こうなった以上は、ピアノ演奏が始まったら、その音に紛れて這ってでも屋敷の中へ戻ろう――そのキャロライナの考えを見透かすように、ピアノを弾きながらニコラスは言ったのだ。
「そこにいるね?」
彼の静かな声は、ピアノの音よりもくっきりと響いてキャロライナの耳へと届く。
明らかに、部屋から出て行ったチェリーに向けられた言葉ではない。
(やっぱり、私ですよね……。「耳」が良いからって、ここまで鋭いなんて)
或いは、戦争の経験が彼の感覚を鋭敏なものにしているのかもしれない、と察するものがある。
実際、キャロライナの目から見ると身近なひとである兄のバーナードは、戦争へ行く前と帰って来てからでは少し違う。
同じ人間ではあるけれど、体の奥底や心の中に以前にはなかった重しがあるように感じられるのだ。
笑った瞬間に痛みを覚えたように笑みが消えたり、楽しそうに話している最中に隣のひとひととはまったく違う方向を見ていたり、ひとりでいるときはずっと難しい顔をしていたり。
物音や他人の気配に、鋭く神経を尖らせているような反応をしたり。
だから、ニコラスが「そう」であっても、キャロライナには当然のことのように思える。
逃げたり誤魔化したりする場面ではないと了解し、口元を覆う手を外してそっと息を吐き出した。
「ピアノを聞きに来ていました」
そのつもりだったのに立ち聞きをしてすみませんとか、すぐに立ち去るつもりですなどと、他にも言わねばならないことはあった。
けれど、ピアノの音は途切れずニコラスは曲を奏で続けているので、キャロライナは最小限の返事にとどめた。
(お昼ごはんくらい食べましょうって、部屋に突入できるチェリーさんはすごいです……)
キャロライナは、自分が何を話しても彼のピアノの邪魔になるのではないかと、気になってしまう。
ほっとしたのは、ニコラスがピアノを弾く手を止めなかったことだ。
そのまま、淡々とした口ぶりで聞いてきた。
「窓の外が好きなの?」
「ええと……ここでも聞こえていますので」
ピアノを聞くなら、私にはここで十分です、と心の中で続ける。
すぐに、ハッと気づいたことがあって胸がきゅっと痛くなった。
(これは「お前に聞かせるつもりはない」という、遠回しな忠告でしたか!?)
キャロライナは物心ついた頃から、ほとんど家族以外の相手と話したことがない。
自分が心の機微に疎く、相手の意を汲むこともできずトンチンカンなことを言っていてもわからないのではないか、という危機感が常にうっすらとある。
ニコラスのように、言葉少なく話されると機嫌が良いのか悪いのかもわからない。
「……砲撃があるわけではない。身を隠す必要はないよ」
彼の声は感情を乗せず、依然として静かに凪いだままだった。
「えっ?」
砲撃? きょとんとして、キャロライナは目の前の草木へと視線をすべらせて、耳を澄ませる。
いつも通りの景色。聞こえてくるのは、ニコラスの奏でるピアノの音だけだ。
草と花の香りが風にのって感じられて、キャロライナは青い空を見上げた。少し眩しい。
「地面に座っているとスカートが汚れてしまう。無理な体勢をしているから、体が痺れているんじゃないのかな。外が好きならそこにベンチを置いたほうがいいし、部屋の中に椅子があるから、座って聞いていても構わない。僕はピアノの先生を引き受けたんだ。君は生徒だろ?」
ピアノを弾きながら、ニコラスが話しかけてくる。
(楽譜もないのに、ずいぶんたくさんの曲を覚えていらっしゃるのね。手が勝手に動くのかしら? いったいどれだけ練習したのでしょう)
ニコラスは、キャロライナを追い払うことなく「このままピアノを聞いて良い」と言っているらしい。
よく知らない大人の男性なので、近づいて良いかという迷いはあるものの、気にかけてもらえることは素直に嬉しかった。キャロライナは、構われることに飢えいた。
こんな風に自分に声をかけてくれるひとが、悪い人間とは思えなかった。
そもそも、キャロライナはあまり家から出たことがないので、悪意ある人間に出会ったことが無かったのだ。
ましてや、ここは家の敷地内であり、彼は兄のバーナードが招き入れた客人であり、近くにはチェリーやヘンリエットがいる。
チェリーとの会話は、あまり仲が良さそうな空気ではなかったのが気になっているが、それ以外にニコラスを警戒する理由は特になかった。
「もっと近くで聞いてもいいの?」
「うん。僕はピアノを持ち上げることはできないし、足も怪我している。君のそばに行くことはできないけど、君はここまで歩いて来られるだろう?」
「それもそうね」
そういえば、ニコラスは足を怪我していたのだ。うまく身動きが取れないのだということに思い当たり、キャロライナは意を決してその場に立ち上がる。
窓枠から室内を覗き込んで、ニコラスがピアノに向かっている姿を見た。
横顔を向けていたニコラスは、視線を流してきてキャロライナの姿を確認すると、すぐにピアノへと視線を戻した。
(いま何か、唇が動いた? 何も聞こえなかったわ)
声が小さかったのか、それとも自分がピアノの音に気を取られて聞き逃してしまったのかと、キャロライナは思わず身を乗り出す。
狙い定めたようなその瞬間。
ダアアアン、とニコラスが両手で強く鍵盤を叩いた。
「っ……」
びくっとしてキャロライナは身を引いたものの、足がうまく動かない。転びそうになって、とっさに窓枠に掴みかかる。
バランスを崩したキャロライナをよそに、ニコラスはギャロップのような軽快な調子で曲を弾き続け、やがてペースダウンをしてやわらかな調べを紡ぎながら言った。
「そうやって、無防備に顔を出すと撃たれる。君はもう死んでいる」
キャロライナは何度か瞬きをして、言われた意味を考えてから聞き返した。
「『ここが戦場なら』?」
「そう。ここが戦場なら。或いは君が地上に降りてきた天使で、ピアノの音につられてこの部屋を覗き込んでしまったのなら。僕はいまので、撃ち落とせたはずだ」
真面目な顔をして、本気か冗談かわからないことを言う。
(笑うところなのかしら?)
面白い話とは感じなかったが、天使になぞらえられたのがくすぐったくて、キャロライナは口元をほころばせた。
「天使を撃ち落としてはいけないと思うわ。その……鳥なら食べられるけれど」
と、おそらくチェリーなら言う。一緒に暮らしてきたおかげでその考えがなんとなく染み付いているキャロライナは、思わずそう言ってしまった。
ニコラスは「おっと」と軽い口ぶりで言ってから、キャロライナに顔を向けてきた。
「なかなか面白いことを言う。さて、天使は食べられるのか? もし撃ち落としてしまい、もう生きていないのであれば、それは検討に値するかもしれない。天使が自分の血肉になると思うと……悪い気はしないな」
「そこは、思いとどまるところではなくて? とんでもないことよ。故意ではなくとも天使を死なせてしまって……目の前で倒れていたら……埋葬するのではないかしら」
とても賛同できず、キャロライナは目を丸くして言い返す。
ニコラスは考えるような顔になった。その手から紡ぎ出されるのは葬送曲。頭の中で天使の葬儀を執り行っているのかもしれない。
やがて「ふむ」と言った。
「正しい。僕の目の前にはたくさんの死体があったけど、そういえば食べようとは思わなかった。死体は埋葬するものだ。たとえ天使であっても、同じようにそうすべきだ」
「できれば、撃ち落とさないようにするところから」
「難しいな。撃たれる前に撃ったんだ。まさかそこに顔を出したのが、敵ではなく撃ってはならないひとだなんて、撃つ前にはわからないよ」
「でも、いまあなたは私と会話をしていたわ。ここにいるのが私だとわかっていましたよね? しかも顔を確認しました。それなのに、大きな音で驚かせるなんて」
わかってやったのだ。キャロライナは「故意ではなくとも」と言ってしまったが、会話の流れを追えばそうではないということがわかる。純然たる故意なのだった。彼には悪の兆候が見受けられると、ここでようやく警戒心が頭をもたげた。
「うん。僕は君を驚かせた。それはまあ、悪かったと思う。ごめん。でもこれ以上悪いことは何もしないよ。だって銃を持っているわけではなく、足も怪我をしている。だから警戒していないで、もう少し近くまでおいで」
純然たる故意で驚かせたことを認めた上で、ニコラスはキャロライナを自分の元までおびき寄せようとしている。
窓枠に手を置いたまま、キャロライナは素早く考えをめぐらせていた。
(なんだったかしら。こういうおとぎ話があったはず。女の子が、おばあさんのもとへ届け物に行く。先回りした獣はまず、おばあさんを呑み込んでしまう。そして、おばあさんのふりをして女の子に呼びかけるのよ。こっちへおいで、と)
穏やかな横顔でピアノを弾き続けるニコラスを見て、キャロライナは考える。
あのおとぎ話の女の子は、おばあさんのふりをした獣に近づいて、いったいどうなってしまったかしら?
★伊南ミナト先生:コミカライズ(土曜日11時更新)
カドコミ
https://comic-walker.com/detail/KC_008519_S
ニコニコ
https://manga.nicovideo.jp/comic/76987
4月からはじまり早三ヶ月!話数も進んできました!
いつも応援ありがとうございます(*´∀`*)




