06.夢幻への漂着
……水のひたひたと寄せる感覚。
目を覚ます。
視界に朱と蒼が映ったか、と思った次の瞬間、押し寄せた波を顔に被った。驚いて飛び起きる。鼻の奥がツンと傷んだ。飲んでしまった塩辛い水のせいで、思いっきり咽る。
何事かと落ち着かない頭を冷やして、それからまた、性懲りもなく驚き、ギョッとした。
それは、見覚えのある、深い色の空。彼方に浮かぶのは緑の生い茂る郷愁の地。
極彩色に煌く生命行き交う透明な海の上に、私はいる。
懐かしく愛おしい、ここは夢の世界。一生訪れることのない場所の、はず、だった。
自らの目を疑い、瞬きを繰り返す。
(まだ、夢を見ているのだろうか)
けれど、肌を伝う鋭敏な感覚や、ぼやけたり曖昧なところのない視覚が、これは現実だと訴えてくる。
呆然とすること暫し、寒さに震えて我に返った。ずぶ濡れになった服に吹き付ける風で体温が奪われたようだ。
濡れた制服の上から腕を擦り、それから、はっと気付く。
痛みが消えている。
慌てて右肩を見るが、そこに刺さっているはずの杭の影も形も見当たらない。それどころか、赤黒く染まり穴が開いたボロボロの制服の、その下の肌には、血液は付着しているものの傷一つないようだった。
服の状態から鑑みるに、あの悪夢は現実であったらしい。が、傷がないとは一体どういうことなのか。恐る恐るそれに触れて確かめると、凹凸もないことが分かった。足元の海水を掬ってその場所を洗い清めてみる。
(……何だろう、これ)
巨大な百足と思しき化け物に咬まれ、死ぬほどの痛みを味わわされた杭の跡形もない。
しかしそこには、鈍く光る、銀色の印が刺青のように在った。それは四枚の花弁を持った花をかたどっている。
ぽたぽたと水滴の垂れ落ちる髪をかき乱した。理解の範疇を超えた現状を受け止めようと努めても、意味不明すぎて涙が出てくる。
どこからが現実で、どこからが夢なのかさえ判断がつかない。長い悪夢にも思えた。
「くそ面倒なことをさせやがって」
背後から低い男の声が聞こえた。どういうわけか、その響きは私を怖気立たせる。
意図せず硬直する体。冷汗が流れ落ち、ぞっと全身の毛が音を立てて逆立った。不快、嫌悪、恐怖などの全てがごちゃ混ぜになったような嫌な気配。
ガチガチと震える歯を噛みしめて、その声の主を顧みる。
ひ、と小さく悲鳴が漏れた。
記憶に新しい、あの巨大な百足を、何十匹とその男は引き連れている。まるで彼がそれらの主であるかのような光景に、軽く眩暈すら感じる。
男は、その声からの印象に反してまだ幼い少年だった。
褐色の肌に緩く波打つ艶やかな黒髪の、天使の彫像が動き出したような完璧な容姿をして、表情なくこちらを見ている。異様なのはその瞳だ。通常あるはずの白目の部分が全くない。闇に塗りつぶされた眼球が光を乱反射して、小さな宇宙のようだった。
黒と赤を基調とした騎士服のようなものを着ており、その存在感は非凡であった。
「……っあ、」
思わず漏れ出た声を聞いてか、化け物共が揃ってこちらに鎌首をもたげる。心臓が急激にその鼓動を早める。
だがそれらが向かってくることはなかった。男が小さな手を差し出し、静止させる。
「一応聞いておいてやるよ。……お前、何でここにいる?」
「……え、と」
人の紛い物かと思えるほど全くの無表情の上、その姿に似合わぬ荒々しい喋り方だと思った。喋るたびに激しい違和感があるのはそのせいか、それとも……。
私の頭の中は真っ白だった。とりとめのないことばかりが過っていく。
少年(いや、そもそも彼は人なのだろうか)は苛立ったように舌打ちをした。それに呼応して、悍ましい化け物たちがその身をうねらせる。
「見たとこ、まだ殻持ちか。このまま行かせたところで主様に潰されて終わりだろうが、説教を受けるのもくそ面倒だからな」
意味の分からないことばかり言う。理解が追い付かない。
完全に思考が停止してしまった私の口からは、何の言葉も出なかった。陸に上げられた魚のようにパクパクと口だけが動く。
待ちきれないといったように百足が朱色の足を動かし始めた。冷えた体に芯から寒気を感じる。震えが止まらない。
少年は、ばしゃりと足を踏み鳴らして苛立ちを露わにした。
「早く答えねえと殺すぞ。つーかもう死ねよ、くそが」
「その短気なところ、直した方が良いと思うよ、コヨル」
少年の手が下されようとしたその時だった。またしても背後から、笑みを含んだ青年の声が聞こえた。
無表情ではあったが、驚いたように固まる少年。その深淵の瞳の煌きが増す。
この世界の者は、音もなく背後から現れるのが好きらしい、と思いつつ、こちらに攻撃を向けられる気配がないことに安堵する。そして、恐々と少年のその視線の先へと振り返った。
白い、人だ。
声は明らかに男性のものであったが、その顔は女性と見紛うほどに美しい。少年が天使なら彼は女神だ、と見惚れる。
その髪も、肌も、人間ではあり得ないほどに白く、滑らかだ。吸い込まれるように深い青の瞳が印象的で、おかっぱに切りそろえられた髪が小さな顔を縁取る。簡素な白いシャツに緑のベスト、茶のズボンを身に着けているのに、どことなく高貴さを感じさせる。
けれど、表情は少年よりもよほど人間らしかった。
彼は私を見て、にこりと破顔した。後ろからは嫌な気配をひしひしと感じるというのに、それを見て震えが収まる。
苛烈な少年の声が響いた。
「ヴェルノ!!今日こそ殺してやるよ。そのくそいけすかねえ面、ぶっ潰してやる」
ヴェルノと呼ばれたその人は、少年をからかうように笑みを浮かべたままそちらへ視線を向ける。
ちっ、と舌打ちの音がした。
「できるものなら、どうぞ?可愛いコヨル」
「くそが、死ね」
「語彙が少ないって、可哀想だね。ね、そう思わない?」
突然話を振られて狼狽える。そんな私を横目に彼は、ぱん、と手を打ち鳴らした。
背後からも、行け、と小さな少年の声が聞こえ、ぞろりと待ち望んだように百足たちが動き出すのが分かった。
戻ってきた恐怖に凍り付く、その瞬間、海上に白い穴が出現する。
「カヌイ!」
彼が声を張り上げてその名を呼ぶ。同時に、低いうなり声と共にその穴と思しき白い闇から、白き獣が顕現した。
とても大きな、私の体の何倍もある、白い毛並みを持つ獣。その背には同じく白い翼が生えていた。
迫る化け物の恐怖も忘れて見入った。綺麗な、虎のような何か。
いつの間にか隣に立つ青年が私の手を引いたことで動転して現実に戻る。
「さあ、行くよ」
自分がどうなったのか分からなかった。やけにはっきりと獣が百足を噛み砕く姿が目に焼き付く。
ヴェルノは私を抱き上げると、重さを全く感じさせない動きで海の上を走った。そして飛び上がり、獣の背に跨る。
思わず息を止めていた私は、彼の腕から降ろされ、見た目に反してごわごわとした獣の背を感じた瞬間、ぜえぜえと荒く呼吸をした。
二人も乗せているというのに、それを思わせない動きで獣は百足を蹂躙していく。さぞ揺れるだろうと思われたが予想は外れ、掴まるところを必要としないほどに揺れはなかった。
すぐ後ろでまた、ぱん、と手を叩く音が聞こえた。
翼が大きく広がり、羽ばたく。絡みつく百足を忌々しそうに振り落とすと、獣はそのまま舞い上がった。
「それじゃまたね、コヨル」
「死ねよ、ヴェルノ」
後ろの美しい顔は多分、またからかうような笑みを浮かべているのだろうと思った。
眼下では、天使のような黒い少年がぞっとさせる無表情で私たちをじっと見ている。巨大な百足が蠢き、彼の周りを円状に取り囲んでいく。
彼が何事かつぶやくと、海上にあの暗い穴が、口を開けた。
息を飲む。
また、何か悪いものが現れるのか、と恐れるが、それが何か確かめる前に、獣は凄まじい勢いで空を駆け始めた。